メガリス

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龍馬伝説「大政奉還発明奔走伝説」はウソである。

2010年02月06日 21時41分00秒 | 幕末維新

 “坂本龍馬が初めて大政奉還策を思いつき、彼の奔走により実現した”という「大政奉還発明奔走伝説」はウソである。
 司馬遼太郎の空想歴史小説『竜馬がゆく』や其の他の映画テレビ萬画などによって世間に広まった作り話「龍馬伝説」の一つに過ぎない。

 大政奉還を最初に主張し始めたのは旗本の大久保一翁(おおくぼ いちおう)や福井藩主である松平春嶽(まつだいら しゅんがく)らだ。(勝海舟が主張していたという話もある。)坂本の大政奉還論は彼らからの受け売りである。
 土佐前藩主山内容堂に対し徳川慶喜への大政奉還建白をすることを進言したのは土佐藩士後藤象二郎で、土佐藩内や薩摩藩の西郷・小松ら関係者との調整に走り回ったのも彼だ。そのきっかけを作ったのは坂本龍馬だという話が残っており、その話が事実であるならば、それが大政奉還に関する彼の功績だ。だが、それだけである。(実を言うと、この話にも根拠らしい根拠は無く史実なのかは不分明。)

 龍馬殺害の「黒幕」に関する俗説の一つに「後藤象二郎黒幕説」というのがあり、“大政奉還に関する手柄を後藤が独り占めする為に邪魔な龍馬を消した”と考える人が居るそうだ。馬鹿馬鹿しい。”大政奉還は龍馬が発案し彼の運動によって実現したもので、後藤は補助的な役割だった”というような根本的事実誤認がその発想の前提に在る。もともと大政奉還建白は殆ど全部後藤象二郎の手柄であり周囲の人間も皆そう思っている。不確かな話なのだが受売りの大政奉還策を後藤に教えた“らしいと”いうだけで他に何もしていない(何を思ったか知らないが、徳川慶喜が大政奉還を決意したことが周囲にも明らかになった後に、後藤に“励ましのお便り”は書いた)龍馬をわざわざ殺す必要など無い。

 以下、幕末明治期の政治・思想史研究者として著名な松浦玲氏の『検証・龍馬伝説』(論創社刊)から引用させて頂く。
 引用文中に登場する「A氏」とは、松浦氏が会った「ある初対面の、狭義の龍馬専門家ではないけれども龍馬に関する著述をお持ちの人」である。(文字強調は私メガリスによる。)
 

 -------------------引用開始

 大政奉還についても触れて置こう。『竜馬がゆく』では、これから後藤と共に上方に向うという六月の長崎、小曽根家にいる「おりょう」に書置きを残して外へ出た龍馬が、夜の石畳を歩きながら大政奉還の思案を続けるという場面になる。
 そこで龍馬の思いついている大政奉還は、後藤から土佐藩の政治的行方について相談されたときに「とっさにひらめいた案」で、「驚天動地の奇手」というべきものだとの司馬さんの解説が入る。これは小説の主人公龍馬に対する司馬さんのサービスである。
 実際には大政奉還論は早く文久段階から大久保一翁や松平春嶽によって、政局に影響力を持つ議論として持出されている。文久二年(一八六二)の一翁はその論が一因となって側用取次という旗本としては最高の、将軍に対して強い影響力を行使できる地位から左遷された。文久三年の春嶽は攘夷を拒否して将軍職を返上せよと政事総裁職のポストを賭けて争い、敗れると任務を放棄して福井に引込んだ。
 一翁も春嶽も政権を返上すべきだとの考え方を生(き)まじめに堅持し続け、機会あるごとに繰返し持出している。近いところでは十四代将軍家茂(いえもち)が長州再征中の大坂で死んだあとのことがそうだ。春嶽は、徳川本家も尾張徳川家や紀伊徳川家と同じ一徳川家の位置に下がり、政治方針は朝廷の招集する大名の会議で決するべきだとの意見であった。慶喜は春嶽を裏切って十五代将軍の地位に就いたのである。
 龍馬は一翁や春嶽から直接に話を聞かされているのだから、文字通りの直弟子である。したがって「とっさにひらめた案」だとか「驚天動地の奇手」だとか言うのは褒めすぎ、龍馬に対するサービスのし過ぎである。龍馬の功績は、春嶽や一翁から受売りの大政奉還を、藩から幕府に建白させる「きっかけ」を作ったというに過ぎない。
  しかしこれも、かく言う私の意見は「歴史」ではなくて、司馬さんの『竜馬がゆく』の方が「歴史」なのであるから、たとえばA氏では、そのような驚天動地の 奇手を思いつく龍馬の存在を、統制型人間である薩摩の大久保利通は許すことができず、殺意を固めるという話になるのである。大政奉還論は龍馬の発明ではありませんよと私などが横から言っても耳には入らない。
  司馬さんが龍馬に対するサービスとして「驚天動地の奇手」と書いたことが、或る種の読者の側では、実際の大政奉還を龍馬が殆ど一人で実現したかのごとき思い込みにつながり、龍馬暗殺の真犯人を大政奉還反対派に求めるという賑やかな(これはもちろんA氏だけではない)議論につながっていくのである。
 

引用終了-------------------

 もう一つ専門家による文章を紹介しよう。
 専門誌『歴史評論』(317号 昭和51年9月号)掲載の思想史家:絲屋寿雄氏の「竜馬の虚像・実像 ―司馬遼太郎『竜馬がゆく』によせて―」より引用する。(文字強調は私メガリスによる。)

--------------------引用開始

   『坂本竜馬海援隊始末』の記事によると、一八六三(文久三)年一月二五日、竜馬は江戸におり、沢村惣之丞らとはじめて幕臣大久保一翁と会談している。一翁 は当時、勝とならんだ幕府の先覚者で、かつて蕃書調所頭取、外国奉行を勤めただけに、世界事情に通じ、その識見も群を抜いていた。
  彼は、幕府は天下の政治を朝廷に返還し、徳川家は諸侯の列に加わり、駿・遠・三の旧領地を領し、居城を駿府に定めるのが上策であると論じて、幕吏たちを唖 然とさせたことがあった。また文久二年の春、政事総裁松平春嶽に上書し、大小の公議会を設け、大公議会の議員は諸大名を充て、全国に関する事件を議し、小公議会は一地方に止まる事件を議する所とし、議員と会期は適宜の制を定めればよいと論じた。
 竜馬たちが大久保一翁と会談したとき、一翁は、万一の場合、殺されるかもしれないのを覚悟で、思い切って自分の意見を述べたところ竜馬と沢村の両人は手を打たんばかりにして共感した。
 同じ頃、竜馬は、勝が千代田城の大広間で将軍ご辞退の大議論をやってのけたという話を勝から直接聞かされ、こんな調子で議論をすれば先生の命が危いのではないかと手帳に書きつけている。
 これらの話は竜馬に大政奉還論をはじめて吹き込んだのは大久保一翁や勝海舟のような幕府側のブレーンであることを語っている点で重要な資料であるが、何故か司馬遼太郎によっては正面からとりあげられていない。

 引用終了--------------------

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