「まるでスーツに着られているみたいだね。」
彼女の感想はボクをヘコませるのには丁度よかった。入社式以来着ていないスーツは体に貼りつくようでどうも落ち着かない。安物の銀時計も先の尖った革靴もボクを社会人として鋳造するための工程だ。
「キチンとした大人になるんだ。」
「けど、ネクタイの結び方なんかヘンだよ。」
手際よく彼女の両手が修正してくれた。
「緊張する。」
「緊張するね。」
「今度こそ、キチンとした大人になれるかな。」
「今度こそ、キチンとした大人になれるよ。」
「毎日20分前には出社して、常に余裕のあるそんな大人に?」
「毎日20分前には出社して、常に余裕のあるそんな貴方に。」
どうやったって彼女には勝てない気がした。ボクの弱さはきっと全て見透かされていてるのだろう。
「…ありがとう。」
こんなボクを信じてくれて。
「ありがとね…。」
どちらが先でもなくチューをした。
「いってきます。」
「いってらっしゃい。」
玄関を出た。ぴかぴかの靴が歩く度にパカッパカッと小気味よく鳴る。リズムに合わせて鼻歌なんかつけてみた。
「うん、大丈夫。」
信号を渡る。
彼女の顔が思い浮かんだ。
ボクは人よりも穴凹らしい。
それはつい数日前にわかったことだった。ボクはそれまでまん丸だと思っていた。だから上手に坂を転がることも、キチンとしたボールになることも当然出来なければいけないと思っていた。けどそれは単純なことではなくて、ボクは幾度も自分を磨り減らして丸くなろうとした。
「実はボコでした。」
お医者さんはボクをボコだと言った。それを聞いて彼女は控えめに怒ったけれど、ボクは涙が出るほど嬉しかった。
あれからボクはボコとなって暮らしている。それまでボクはボコがとっても嫌だった。もちろん昔はボコって名前はなかったから、ボクはボクが嫌いだった。
ボクがボコだとわかった日
「…騙してごめんね。」
ボクはたまらず彼女に頭を下げた。
リコールなら今がチャンスだよって伝えなくちゃいけないと思ったからだ。
さよなら。
バイバイ。
そんな簡単な言葉さえ後回しにしてしまうボコにまた嫌気がさした。
両足の爪先をいっぱいにらんだ。唇は噛んだまま強張って固まる。絶対に彼女の顔を見ちゃいけない。
ボクはこれまで駄目なヤツだった。
そのたびにボクはボクに赤点をつけて、仕方ない仕方ないと唱えて気を紛らわそうとした。
けれど、今回は駄目だ。
顔を上げた先にある現実を受け入れることだけは出来そうになかった。
そのとき
両頬にあったかい手のひらがそえられた。
次に目と目が向きあった。
「そんなことないよ。」
最後に彼女がボクのボコにぴたりとあてはまった。
そこでようやくボクは確信したんだ。
たとえ穴凹で丸くはなかったとしても
ちゃんと大切な人を守れる大人にはなれるんだって。
なにがなんでもなって見せるんだって。
だから、そう
彼女が「彼女」じゃなくなったとき
この人に全部話してみよう。
あなたと
出会って
はじめて
大好きになれた自分 を。
【おわり】