深い森のなかで、一本の山桜をみつけた。
派手な装いではないにせよ、目一杯花蕾をつけていた。
これから満開になったとき、どうか街路樹の彼らと比べないでほしい。なにより胸を張って、いまある満開を祝ってほしい。
銀縁の鋭い眼鏡をかけた父親程のおやっさんは、私と近い息子がいて、立派な仕事に就いているそうだ。いまの巡り合わせは、おやっさんが青年だったころ、目を盗んで金網を抜け、三度目の正直で受けた試験を
抜けたからだ。人脈も気力もすべて使って手にいれたのだ。そして幼馴染みの妻と子どもを支えたのだ。
その後、薄暗い事務所に戻った。若々しい青年然とした新しい上長は同じ大学の先輩で、月に一度、元妻と暮らす子どもに会うそうだ。
少しだけ目を閉じた。
瞼の裏には何も書いていなかった。
代わりに森のなかの、あの山桜を思い出そうとした。
春にしてはやけに寒かった。
【おわり】