有難くて涙が出るほど数知れぬ自衛隊の被災救援車にすれ違う。
山側の道を下りゆっくり左にカーブし始めた。
” ここを下りるとそうだからネ ” 覚悟はいい? そう言わんばかりの妹。
被災間もない生々しさを見てるからだ~ その声が急ブレーキのように消され
車内には嘆息だけがもれた! ” あぁあ。。。 !!! あぁあ。。。 !!! ”
牧場のサクのように立てかかる線路。( 釜石~宮古間の山田線は不通 )
所かまわず巻きつく漁具。
捜索箇所に書かれた生死を分ける? 〇印 や ✖印。
悲しい現実をず~っと見続け実家に着いた。
海はただ穏やかに満ち口を噤む。
我が地域の大多数の家は高台に位置し津波から免れている。
昔の人はスゴイよなぁ~ 家の近くにはこんな石碑がある。
写りが悪く誤字がありそうだがこのようなことが刻まれてる。
一、 大地震の後には津波が来る
一、 地震があったら高いところへ集まる
一、 津波に追われたら何処でもすぐそばの高い処へ
一、 遠くへ逃げずに近くの高い所を用意して置け
一、 縣指定の住宅適地より低い所へ家を建てるな
その教えを忠実に守り上に上にと造られた家々。
三陸津波( 昭和8年 )後の昭和9年に建てられた先人の教訓の賜物である。
待ち望んでいた水道も復旧し~ 避難していた気難しい従兄弟からも解放。
どうにかこうにか変則日常が戻りかけた矢先にぞろぞろ押しかけた我々。
炊き出ししたりの疲労を隠し精一杯の笑顔で迎えてくれた兄夫婦。
心配をかけた兄が吊るし上げをくった土下座の携帯画像も見せられた。
生きていればこその大笑いが許される家族の絆を強く感じたのだった。
続きます~