先日のプラハ滞在中、以前から親しい付き合いのあるエージェント、ザネ・ブランソン氏に連れられ市内の
とある墓地に行きました。
実は、以前彼から「プラハに日本の陸上選手、人見絹枝の記念碑がある。今度プラハ訪問時には案内
するよ。」と連絡をもらっていた事もあり、レース後一緒に出掛けました。
人見絹枝は1920年代後半、陸上選手として活躍。1928年のアムステルダム五輪女子800mに出場。
この時日本人女性初の五輪メダル(銀)を獲得しました。
この他の欧州各大会でも好成績を収めただけでなく、当時まだ日本で女性の競技スポーツに対して
の認知度や周囲の理解が非常に低かった時代に、周りから冷やかな目で見られながらも海外の事情や
自身の経験を積極的に後進に伝えたり、日本選手団の強化・遠征費用を工面する為に自ら先頭に立ち
募金活動も行ったとされる人物。
しかし、その後肺炎を患い24歳の若さで逝去。まさに日本陸上界の歴史を変えた伝説のランナーです。
↓彼女は当時プラハの国際大会でも活躍。その功績を称え1966年に当時チェコ・スロバキア五輪
委員会がこの記念碑を造りました。記念碑には彼女の命日(1931年8月2日)も刻まれています。

↓右がブランソン氏。セルビア・ベオグラードとここプラハを拠点に活動するエージェントで、
今回プラハ・マラソンには彼の傘下から男女合せて6名が参加。忙しい合間を縫って素晴らしい
場所に案内してもらい感謝。

今こうして陸上競技の仕事を通じて色々な国を訪問する中で、遠い異国の地で改めて知った彼女の功績。
また現地で活動するエージェントからこの様な場所へ案内してもらった事に日本人として非常に嬉しく
感じました。
人見絹枝についての詳しい紹介記事(Wikipediaより)。
とある墓地に行きました。
実は、以前彼から「プラハに日本の陸上選手、人見絹枝の記念碑がある。今度プラハ訪問時には案内
するよ。」と連絡をもらっていた事もあり、レース後一緒に出掛けました。
人見絹枝は1920年代後半、陸上選手として活躍。1928年のアムステルダム五輪女子800mに出場。
この時日本人女性初の五輪メダル(銀)を獲得しました。
この他の欧州各大会でも好成績を収めただけでなく、当時まだ日本で女性の競技スポーツに対して
の認知度や周囲の理解が非常に低かった時代に、周りから冷やかな目で見られながらも海外の事情や
自身の経験を積極的に後進に伝えたり、日本選手団の強化・遠征費用を工面する為に自ら先頭に立ち
募金活動も行ったとされる人物。
しかし、その後肺炎を患い24歳の若さで逝去。まさに日本陸上界の歴史を変えた伝説のランナーです。
↓彼女は当時プラハの国際大会でも活躍。その功績を称え1966年に当時チェコ・スロバキア五輪
委員会がこの記念碑を造りました。記念碑には彼女の命日(1931年8月2日)も刻まれています。

↓右がブランソン氏。セルビア・ベオグラードとここプラハを拠点に活動するエージェントで、
今回プラハ・マラソンには彼の傘下から男女合せて6名が参加。忙しい合間を縫って素晴らしい
場所に案内してもらい感謝。

今こうして陸上競技の仕事を通じて色々な国を訪問する中で、遠い異国の地で改めて知った彼女の功績。
また現地で活動するエージェントからこの様な場所へ案内してもらった事に日本人として非常に嬉しく
感じました。
人見絹枝についての詳しい紹介記事(Wikipediaより)。
いつも愛読させていただいております。海外サポート等、ご活躍していますね。
私はオランダ在住のおRunだあず(ランニング愛好会)のKAZNYと申します。ヨーロッパ陸上競技会観戦、マラソン大会参加等、楽しんでいます。
私もプラハマラソン参加でプラハにおりました。人見さんの記念碑があるとはびっくりでした。
紹介ありがとうございました。