今日は、午後から、雷雨になるとゆう予報だったので、午前中に練習をしました!!
明後日の足立ロードレースに向けて、ちょっと刺激的な練習をしました。
30分JOG+200m×3本+30分JOG。
JOGは、アップとダウンだけど、リズムを崩さないように体調を確認しながら、JOGしました。アップでは、体が重たくて、ん・・・・
200m1本目 35秒6
2本目 35秒2
3本目 34秒02
と向かい風にも関わらず、イイ走りが出来、心臓と脚力にイイ刺激が入りました。
帰りのJOGは、ヘロヘロでした。ヘロヘロってゆうか、全身に力が入らない感じがして、何とか帰って来れた・・・とゆう状態でした。まぁ、日曜日までは、普通に過ごして、今の全力を出し切れるようにしたいと思います
いつもの練習コースで行われるレースだから、いつもの練習と同じような感覚なんなんだろうなぁ
練習から戻り、シャワーを浴びて、準備して、お昼前には、会社に行き、お仕事です。今日は、この前閉めた金具が、次の工程を施され、戻ってきたのを今度は、開ける作業で、またしても握力を使ってしまい・・・・手が痛い
手が小さいのに、、、、それなのに握力が強いって事で、即戦力です(笑)
午後も時間を気にすることなく仕事が出来ました!!急ぎで、納品しないといけない品物があるので、明日も出勤になりました。
帰宅し、夕飯を作っていると秋田の実家に置いて来ていた防寒着が、ようやく届きましたずっと送ってと言ってて、2か月越しで、手に入りました!!
その中に母からの手紙が
ロングブーツの中に入ってました。こんなところじゃ、見つからないかもしれないのに・・・まったく母らしい
読んで、ノゾミ、号泣です
『 望は、お父さんとお母さんの子で良かったと思ってくれて、ありがとう。
お父さんもお母さんも望が、産まれて来てくれた事に本当に本当に良かったと心から思っています。
望は、昨年の今頃、大変な思いをしていたと思いますけど、母は一番印象に残っています。辛い事は、口には、しなかったけど、分かっていましたよ』
などと筒られていました。
競技をしていた時にいろいろあって、辛かった時も両親には、何も言わなかった。競技をしているってゆうだけで、心配をかけていたから、壁にぶつかった時も精神的にまいっていた時も明るく電話していた。母とは、今でも週に2日は、電話して、世間話をしていて、1週間、電話出来ないと『望から電話来ない』と心配し、淋しがる母。
何も言わなくてもその時の声のトーンだったり、話の内容で、分かっていたんだろうまぁ。でも母も問わず、いつものように話をしていたんだと思う。
ただ一度、「走る事を辞めたい」と打ち明けた時があった。
社会人2年目。1年目の全日本駅伝で、走っている最中に右足お甲を疲労骨折し、4か月丸々走れなかった。足も付けないし、歩く事も困難で。一人で、リハビリをしていたから、チームメイトともスタッフとも疎遠になり、若かった私は、その状況に耐えられず・・・体重も8k減り、36k台に。母は、『もう帰って来ていいよ。そこまでして、走らなくてイイ』と電話の向こうで、泣いていた。
“帰れる場所がある!!”と安心すると一人で居る事も平気に感じ、何があっても頑張れたいつも応援は、してくれていたけど、早く辞めて欲しいと思っているのが分かった。
お母さんともお父さんとも私は、仲良しうちは、家族みんなが、仲良しだから末っ子の甘えん坊だからねぇ(笑)
いつも元気だと思っていたお母さんが脳梗塞で、倒れ、その時にくもまっか出血も見つかり、大手術を受けた。いつも元気なはずの母に死ぬかもしれないとゆう現実が襲った。でも私には、知らされず、帰省した時に頭を手術した跡が、生々しくあった。それから、母との週2日以上の電話が始まった。私のためにもいつもでも元気で、長生きして欲しい
9年間、今の時期は、駅伝に向けて、合宿中で、今、こうしてのほほんと生活しているのが、何かまだ違和感があって。でもあの時の生活に戻れって、言われても戻りたくないけど。江田さんとよく話すけど、もうあの頃みたいにストイックには、練習出来ない。。と。私は、13日の日体があるから、まだ走ってるけど、実業団でやっていた時みたいな厳しさが、今の私にはない・・・一生懸命にやならければならないのに、ストイックさに欠ける自分が分かってるから、何か歯がゆい。
そんないろいろと考える今日、、、
そして、お母さん、大好きだノゾミでした
≪母からの手紙≫
≪ボク、ノゾミに甘える≫
明後日の足立ロードレースに向けて、ちょっと刺激的な練習をしました。
30分JOG+200m×3本+30分JOG。
JOGは、アップとダウンだけど、リズムを崩さないように体調を確認しながら、JOGしました。アップでは、体が重たくて、ん・・・・
200m1本目 35秒6
2本目 35秒2
3本目 34秒02
と向かい風にも関わらず、イイ走りが出来、心臓と脚力にイイ刺激が入りました。
帰りのJOGは、ヘロヘロでした。ヘロヘロってゆうか、全身に力が入らない感じがして、何とか帰って来れた・・・とゆう状態でした。まぁ、日曜日までは、普通に過ごして、今の全力を出し切れるようにしたいと思います
いつもの練習コースで行われるレースだから、いつもの練習と同じような感覚なんなんだろうなぁ
練習から戻り、シャワーを浴びて、準備して、お昼前には、会社に行き、お仕事です。今日は、この前閉めた金具が、次の工程を施され、戻ってきたのを今度は、開ける作業で、またしても握力を使ってしまい・・・・手が痛い
手が小さいのに、、、、それなのに握力が強いって事で、即戦力です(笑)
午後も時間を気にすることなく仕事が出来ました!!急ぎで、納品しないといけない品物があるので、明日も出勤になりました。
帰宅し、夕飯を作っていると秋田の実家に置いて来ていた防寒着が、ようやく届きましたずっと送ってと言ってて、2か月越しで、手に入りました!!
その中に母からの手紙が
ロングブーツの中に入ってました。こんなところじゃ、見つからないかもしれないのに・・・まったく母らしい
読んで、ノゾミ、号泣です
『 望は、お父さんとお母さんの子で良かったと思ってくれて、ありがとう。
お父さんもお母さんも望が、産まれて来てくれた事に本当に本当に良かったと心から思っています。
望は、昨年の今頃、大変な思いをしていたと思いますけど、母は一番印象に残っています。辛い事は、口には、しなかったけど、分かっていましたよ』
などと筒られていました。
競技をしていた時にいろいろあって、辛かった時も両親には、何も言わなかった。競技をしているってゆうだけで、心配をかけていたから、壁にぶつかった時も精神的にまいっていた時も明るく電話していた。母とは、今でも週に2日は、電話して、世間話をしていて、1週間、電話出来ないと『望から電話来ない』と心配し、淋しがる母。
何も言わなくてもその時の声のトーンだったり、話の内容で、分かっていたんだろうまぁ。でも母も問わず、いつものように話をしていたんだと思う。
ただ一度、「走る事を辞めたい」と打ち明けた時があった。
社会人2年目。1年目の全日本駅伝で、走っている最中に右足お甲を疲労骨折し、4か月丸々走れなかった。足も付けないし、歩く事も困難で。一人で、リハビリをしていたから、チームメイトともスタッフとも疎遠になり、若かった私は、その状況に耐えられず・・・体重も8k減り、36k台に。母は、『もう帰って来ていいよ。そこまでして、走らなくてイイ』と電話の向こうで、泣いていた。
“帰れる場所がある!!”と安心すると一人で居る事も平気に感じ、何があっても頑張れたいつも応援は、してくれていたけど、早く辞めて欲しいと思っているのが分かった。
お母さんともお父さんとも私は、仲良しうちは、家族みんなが、仲良しだから末っ子の甘えん坊だからねぇ(笑)
いつも元気だと思っていたお母さんが脳梗塞で、倒れ、その時にくもまっか出血も見つかり、大手術を受けた。いつも元気なはずの母に死ぬかもしれないとゆう現実が襲った。でも私には、知らされず、帰省した時に頭を手術した跡が、生々しくあった。それから、母との週2日以上の電話が始まった。私のためにもいつもでも元気で、長生きして欲しい
9年間、今の時期は、駅伝に向けて、合宿中で、今、こうしてのほほんと生活しているのが、何かまだ違和感があって。でもあの時の生活に戻れって、言われても戻りたくないけど。江田さんとよく話すけど、もうあの頃みたいにストイックには、練習出来ない。。と。私は、13日の日体があるから、まだ走ってるけど、実業団でやっていた時みたいな厳しさが、今の私にはない・・・一生懸命にやならければならないのに、ストイックさに欠ける自分が分かってるから、何か歯がゆい。
そんないろいろと考える今日、、、
そして、お母さん、大好きだノゾミでした
≪母からの手紙≫
≪ボク、ノゾミに甘える≫