昨日、3月5日は、18年前、秋田から東京に出て来た日。
3月2日は、高校の卒業式
中学の卒業式は、ぎゃんぎゃん泣いたけど、高校の卒業式は、笑顔満載
卒業してからの生活が、楽しみで、心が踊りまくってた
母親は、3人の子供を育てあげ、感慨深い物があって、泣けたみたいだけど、私を見たら笑ってたから、冷めたって(笑)
卒業後、府中のNECでの実業団生活に期待と胸を膨らませ、引っ越しの準備も何もかも楽しくてね
3月5日、秋田駅から新幹線で、大宮に向かう時、秋田駅には、お母さんと親友達が見送りに来てくれた
まだ期待に胸を膨らませ、ウキウキの私
親友達とワイワイ話す私を柱の陰から泣きながら見つめる母・・・
涙もろい母を『また泣いてる~』なんて、思いながら見てたけど。
そして、出発を告げる音楽が流れる。
突然、、私、号泣。。。。
涙が止まらない・・・
母も号泣していた。
発車し、席に付いても涙は、止まらない。
そんな時、仕事で見送りに来られなかった姉と兄から、同時に『頑張れ』とメールが入る
まだ幼かった私は、家族と離れ、東京で一人暮らす事が、どんな事なのか、分かっていなかった。
どれだけ、両親に淋しい想いをさせるのかも考えもしなかった。
新幹線の中で、初めて思った『ごめんね、お母さん…』と。
秋田を出る事は、両親に相談する事無く決めた。
田舎者の私は、実業団で走れる事が、ただただ嬉しかった。
友達からの手紙も涙で、読めなくて、泣き止むまでには、たくさんの時間が必要だった。
今でも覚えているよ、柱の陰で泣く母親の姿
きっと一生忘れられないだろう。
私の家族は、いつも一緒で、寝る時に部屋に戻る感じだったから、いつも誰かがそばにいて、日曜日には、いつもどこかへ連れて行ってくれた
末っ子の私は、どれだけ両親や姉兄に想われていたのか、分かっていなかったんだよね。
NECでの生活は、やっぱり楽しくて、それに実業団の練習に付いて行くのが必死で、ホームシックになる事無く、毎日あっとゆう間に過ぎ、実家に電話するのも月に1,2度。
1年目の12月の全日本実業団駅伝で、ルーキーながらに最長区間を任される事になり、気合い十分
ところが、5k地点を通過した頃、右の甲に激痛
着地する度に頭蓋骨に響く痛み・・・
足をひきずり、何とか必死にタスキを繋いだけど、順位は、後ろの方。
その日から、監督やチームメイトから話かけられなくなり、孤独になった。
岐阜から府中駅に移動中に電車の中で寝てしまった私を府中駅に到着したのに誰も起こしてくれなかったのを今でも覚えている。
それまでは、監督には、凄く可愛がってもらっていたのに怪我をした途端に透明人間になった私・・・
まだ19歳だった私には、受け入れられず、どんどん落ち込んで行く。
孤独だった。
笑う事が出来なくなった。
食事が喉を通らなくなった。
この怪我が治るまでに4か月走れず。
そして、走り始め、回復して来た時に参加した8月の別海合宿。
練習がきついし、スタッフやチームメイトとの仲をどうして良いのか分からず、ストレスで、胃痙攣を2回起こし、ぶっ倒れた。
そんな中、内転筋付着部の筋断裂
またもや大きな怪我で、全治4か月・・・
少しコミュニケーション出来るようになっていたスタッフとチームメイトともまた話が出来なくなり、孤独に。
もういっぱいいっぱいいだった。
食べられなくて、どんどん痩せて行った。
寮の4階の部屋から一晩中、下を見つめた日もあった。
❝ここから飛んだら、死ねるかな…❞
たくさんの愛に包まれて育って来た私には、一人での生活は、耐え難いモノだった。
また12月の全日本実業団駅伝を終えた時、精神的に限界だと思った監督は、私に『もう止めて、秋田に帰った方がイイ』と告げた。
私は、ホッとしたのか次の日から、高熱を出し、4日間寝込んだ。
お正月に秋田に帰った時にNECを辞めて、秋田に戻る事を家族に伝えた。
あとたった3か月間のNECでの生活だったのに寮に戻るために新幹線に乗り込んだ時に寮に戻りたくなくて、泣きじゃくる私を見て、姉は、『いつでも帰っておいで』と声をかけてくれた
見送りながら、姉は母に「あんなに辛い想いをして、あんなに痩せて、走らなければいけないのか・・・・望が可哀そう」と泣いたらしい。
引退レースとして、2月に青梅マラソン10kを走ろうとなり、練習を再開
そんな時、NECの廃部が決まった・・・
この時、チームの雰囲気は、最悪で、誰もがこのチームが無くなる事を喜んだ。
選手は、いろんなチームから誘いがあり、私にも声をかけてくれるチームがあったので、不本意な引退を撤回し、移籍する事に決めた。
でもう、もう関東には居たくない。
秋田と同じ雪国へ・・とゆう事で、ホクレンへの移籍を決めた
引退レースからホクレンへのお披露目のレースになった青梅マラソンは、練習も1か月しかしてなかったし、まったくの自信はなかったけど、ホクレンの選手も出場するから、張り切る張り切る
秋田からは、
両親も応援に来てくれた
結果、2位となり、ホクレンのエース達にも勝ってしまった。
NECで、過ごした地獄の2年間。
未だに府中には、行けない・・・
辛い事しか思い出せない2年間。
でもね、今では、あの時の辛い想いがあるから、家族や回りに居てくれる人達を大切にしようって思えるし、未だに走り続けていられるんだと思う。
あの時、NECが廃部にならなかったら、私は、今、どんな人生を送っていたのだろう???
きっとここには、居なかった、、、、とゆうのは、確実だね
与えられたチャンスをしっかり掴んで、私は、ココに居る
ホクレンでは、移籍させて頂いたとゆう想いで、必死に練習して、結果を出した
ホクレンで、過ごした7年間、良き仲間にも囲まれ、楽しい時間でした
辛い事もあったけど、NECでの2年間に比べたら、何て事ないって思えた。
これは、今も同じね
本当にね、今、恵まれている
たくさんの笑顔に囲まれて、走っていられる
私の回りには、イイ人ばかりなの
18年間秋田で過ごしたけど、今日からは、秋田以外での生活の方が長くなった。
ちょっと寂しさもあり、何度も泣きそうになるのをこらえつつ、昨夜は、郷土料理の❝きりたんぽ鍋❞を旦那の友人達に振る舞いました
また新たな気持ちで、頑張ろうね、ノゾミ
旦那には、『秋田を捨てた日』と言われました
≪旅立ちの日、親友から貰ったポストカード。何度も心が助けられました≫

3月2日は、高校の卒業式
中学の卒業式は、ぎゃんぎゃん泣いたけど、高校の卒業式は、笑顔満載
卒業してからの生活が、楽しみで、心が踊りまくってた
母親は、3人の子供を育てあげ、感慨深い物があって、泣けたみたいだけど、私を見たら笑ってたから、冷めたって(笑)
卒業後、府中のNECでの実業団生活に期待と胸を膨らませ、引っ越しの準備も何もかも楽しくてね
3月5日、秋田駅から新幹線で、大宮に向かう時、秋田駅には、お母さんと親友達が見送りに来てくれた
まだ期待に胸を膨らませ、ウキウキの私
親友達とワイワイ話す私を柱の陰から泣きながら見つめる母・・・
涙もろい母を『また泣いてる~』なんて、思いながら見てたけど。
そして、出発を告げる音楽が流れる。
突然、、私、号泣。。。。
涙が止まらない・・・
母も号泣していた。
発車し、席に付いても涙は、止まらない。
そんな時、仕事で見送りに来られなかった姉と兄から、同時に『頑張れ』とメールが入る
まだ幼かった私は、家族と離れ、東京で一人暮らす事が、どんな事なのか、分かっていなかった。
どれだけ、両親に淋しい想いをさせるのかも考えもしなかった。
新幹線の中で、初めて思った『ごめんね、お母さん…』と。
秋田を出る事は、両親に相談する事無く決めた。
田舎者の私は、実業団で走れる事が、ただただ嬉しかった。
友達からの手紙も涙で、読めなくて、泣き止むまでには、たくさんの時間が必要だった。
今でも覚えているよ、柱の陰で泣く母親の姿
きっと一生忘れられないだろう。
私の家族は、いつも一緒で、寝る時に部屋に戻る感じだったから、いつも誰かがそばにいて、日曜日には、いつもどこかへ連れて行ってくれた
末っ子の私は、どれだけ両親や姉兄に想われていたのか、分かっていなかったんだよね。
NECでの生活は、やっぱり楽しくて、それに実業団の練習に付いて行くのが必死で、ホームシックになる事無く、毎日あっとゆう間に過ぎ、実家に電話するのも月に1,2度。
1年目の12月の全日本実業団駅伝で、ルーキーながらに最長区間を任される事になり、気合い十分
ところが、5k地点を通過した頃、右の甲に激痛
着地する度に頭蓋骨に響く痛み・・・
足をひきずり、何とか必死にタスキを繋いだけど、順位は、後ろの方。
その日から、監督やチームメイトから話かけられなくなり、孤独になった。
岐阜から府中駅に移動中に電車の中で寝てしまった私を府中駅に到着したのに誰も起こしてくれなかったのを今でも覚えている。
それまでは、監督には、凄く可愛がってもらっていたのに怪我をした途端に透明人間になった私・・・
まだ19歳だった私には、受け入れられず、どんどん落ち込んで行く。
孤独だった。
笑う事が出来なくなった。
食事が喉を通らなくなった。
この怪我が治るまでに4か月走れず。
そして、走り始め、回復して来た時に参加した8月の別海合宿。
練習がきついし、スタッフやチームメイトとの仲をどうして良いのか分からず、ストレスで、胃痙攣を2回起こし、ぶっ倒れた。
そんな中、内転筋付着部の筋断裂
またもや大きな怪我で、全治4か月・・・
少しコミュニケーション出来るようになっていたスタッフとチームメイトともまた話が出来なくなり、孤独に。
もういっぱいいっぱいいだった。
食べられなくて、どんどん痩せて行った。
寮の4階の部屋から一晩中、下を見つめた日もあった。
❝ここから飛んだら、死ねるかな…❞
たくさんの愛に包まれて育って来た私には、一人での生活は、耐え難いモノだった。
また12月の全日本実業団駅伝を終えた時、精神的に限界だと思った監督は、私に『もう止めて、秋田に帰った方がイイ』と告げた。
私は、ホッとしたのか次の日から、高熱を出し、4日間寝込んだ。
お正月に秋田に帰った時にNECを辞めて、秋田に戻る事を家族に伝えた。
あとたった3か月間のNECでの生活だったのに寮に戻るために新幹線に乗り込んだ時に寮に戻りたくなくて、泣きじゃくる私を見て、姉は、『いつでも帰っておいで』と声をかけてくれた
見送りながら、姉は母に「あんなに辛い想いをして、あんなに痩せて、走らなければいけないのか・・・・望が可哀そう」と泣いたらしい。
引退レースとして、2月に青梅マラソン10kを走ろうとなり、練習を再開
そんな時、NECの廃部が決まった・・・
この時、チームの雰囲気は、最悪で、誰もがこのチームが無くなる事を喜んだ。
選手は、いろんなチームから誘いがあり、私にも声をかけてくれるチームがあったので、不本意な引退を撤回し、移籍する事に決めた。
でもう、もう関東には居たくない。
秋田と同じ雪国へ・・とゆう事で、ホクレンへの移籍を決めた
引退レースからホクレンへのお披露目のレースになった青梅マラソンは、練習も1か月しかしてなかったし、まったくの自信はなかったけど、ホクレンの選手も出場するから、張り切る張り切る
秋田からは、
両親も応援に来てくれた
結果、2位となり、ホクレンのエース達にも勝ってしまった。
NECで、過ごした地獄の2年間。
未だに府中には、行けない・・・
辛い事しか思い出せない2年間。
でもね、今では、あの時の辛い想いがあるから、家族や回りに居てくれる人達を大切にしようって思えるし、未だに走り続けていられるんだと思う。
あの時、NECが廃部にならなかったら、私は、今、どんな人生を送っていたのだろう???
きっとここには、居なかった、、、、とゆうのは、確実だね
与えられたチャンスをしっかり掴んで、私は、ココに居る
ホクレンでは、移籍させて頂いたとゆう想いで、必死に練習して、結果を出した
ホクレンで、過ごした7年間、良き仲間にも囲まれ、楽しい時間でした
辛い事もあったけど、NECでの2年間に比べたら、何て事ないって思えた。
これは、今も同じね
本当にね、今、恵まれている
たくさんの笑顔に囲まれて、走っていられる
私の回りには、イイ人ばかりなの
18年間秋田で過ごしたけど、今日からは、秋田以外での生活の方が長くなった。
ちょっと寂しさもあり、何度も泣きそうになるのをこらえつつ、昨夜は、郷土料理の❝きりたんぽ鍋❞を旦那の友人達に振る舞いました
また新たな気持ちで、頑張ろうね、ノゾミ
旦那には、『秋田を捨てた日』と言われました
≪旅立ちの日、親友から貰ったポストカード。何度も心が助けられました≫
