嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

仕事する大人への手紙

2005年02月09日 17時04分14秒 | 駄文(詩とは呼べない)
やは!
はにゃです。

難しいね。たとえ一言の挨拶でさえも。
「やは。」とチャットで発言しただけで
「ああ~、はにゃさん今日も元気ないねー。」
と、少し年下な大阪の女の子に心配された時は
何かを見抜かれたようでドキっとしたのを思い出します。

仕事の都合で大阪に行った時、一緒に飯食いながら
1時間くらいその子と無駄話した事もありましたが
それで僕が悩んでいる何かが解ったわけではありませんでした。

その子が哲学系のチャットから離れ、
現実と向き合うようになってからは
電話をかけても通じなくなりました。
何故か着信拒否されてるようです。
そういえばその子も「哲学部屋のカリスマはにゃさん」
などと奇妙な事を言ってましたが。

ある意味であなたの予感は一つの法則を突いていると思います。
いつでも会えると思っていた自分の慢心を反省するというのは
きっとそういう事なんでしょう。

「一期一会って大切だよね」
と解ったフリをする知ったかぶりの一言とは違う。

僕が妙に鬱っぽい考え方をする事は
他人を傷つける一つの要素でしょうけど僕は実際のところ鬱ではありません。
悩み続けているだけだし、その一つ一つが自分にとって重すぎるだけであって
この程度で「僕って最近鬱っぽいの~♪」とおちゃらけて言えば
もっと悩んで手首を切ってる現代の中高生たちに申し訳ない。
中高生に限定するわけでもないし、
そういうふざけた発言を僕が今後言わないという話でもありませんが。

厳しい言い方をすれば、あなたが僕を言い当てている事は
あなたの中にある一つの欲であり偏見であると思います。
「弱々しい憧れのはにゃさん像」をあなたは見ているし
しかもその一つ一つの具体的な指摘が僕自身にも心当たりがある、
そういうところがとても大問題のような気がします。
あなたが細かに指摘する具体性を、僕は確かに潜在的に持っている気がするし
現にそのように振る舞っている自分を感じます。
決して言われた過去が見当違いって事ではないんです。
問題なのは僕がそれを拒否する事も「それは本当の僕じゃない!」と言い捨てる事も
全くもって今の僕には出来そうもないし、言葉は暴力的であるということです。

思想ベクトルがおかしな方向に向きそうなのでちと修正します。
んがぐっぐ。

僕は自分が何者であるのか、存在するのか、
そのような事を何年も何年も考えました。たぶん今も考えています。
そしてそれは例え他人が痛々しく感じる事であっても僕は考え続け、
そこで考えた事、感じた事、掴んだ事、わかったような気がする事、
それらをまわりに発信していかねばならないのではないかと思うのです。
自分の手首を切れば痛いのは自分ではなくて、それを見ている人です。
今の子供達はそれをよくわかっている。

「そそそ」の痛み、とでも言いましょうか。

例え言葉に出来なかったとしても、あれは大人への挑戦状です。
僕は大人になる事も子供であり続ける事もできはしない。
だから僕は思想的子供として、社会的大人の年齢で矛盾を抱えて刃向かうのでしょう。
僕は多分、あのまっすぐな子供の刃が好きなんだ。
「あなたはどうして死なないの?」と何の恥ずかしさも無く真っ正面から
大人に問う事が出来る子供の残酷さが好きなんだ。
裸の王様が裸である事を悪いとは言わない。
だけど裸である事くらいは言えるはずだ。

「辛くてもやりたくない仕事をして生きていかなきゃならないの!」
と怒りながら言う大人は、その言い訳で自分自身を説得出来ているのだろうか?
僕はその程度の嘘では自分を騙せません。

僕は今、もしかするとあなたを責めているのでしょうか。
だとすれば相手がおかしい。
僕の目にはあなたは大人らしい大人として映っていません。
僕は君から一生懸命背伸びする誠実さを感じるから。
子供のように盲目的な笑いの美しさを感じるから。

僕は君の事が嫌いじゃないです。
友達として好きなのかどうかはよくわかりません。
たぶん話しやすいから話してるんだと思う。
僕はお互いが話そうと思うならば、もっともっと話せばいいと思う。
あの終電をギャグ化する気持ちよさのような空気で。
だから君が図書館を地図で調べている行為がおかしいとは思いません。

僕も君とはもっと意味の強い話が出来そうな気がするから。
それは言葉の引力かもしれないし、
当たり前の人間らしさかもしれないから。

これは慢心なんでしょうか。
僕は常にあなたの側に居る都合の良い人ではない、
という見方で考えれば慢心なのかもしれない。
だけど都合なんてものは「今、時間はあるか」という程度の問題でしかない。
大事なのは話をしたいとお互いが思っているかどうかだと思う。
動機がシンクロしなければ会話が成り立たないのであれば
きっと僕らは会話しない友達になるんでしょう。
僕が友達を失うのが怖いと思うのは、そういうことかもしれない。
そしてまた、自分の声が届かなくなるのが怖いのか。
自意識と他意識の曖昧な境界が言葉の線によって
次々と二極化して乖離していく事が怖いのか。

鍋パーティーで友人が僕に強く主張して迫った事、
それは「死んだら話せなくなるから、死なないで下さい」という事でした。
そして僕の考えてる事がわからないと言っていました。
僕自身でさえ、自分が何を考えているのかわからないのだから
他人にわかってもらえるとは期待してないのかもしれないけど
「あなたの言ってる事はさっぱりわからない」と正面から言われるのは結構痛いです。

別な友人は逆に、僕の言ってる事や書いている世界をすごく感じているようでした。
このことに関しては、いつか別の形で語る機会が来るかもしれません。

すごくすごく遠回りをして、言いたい事の輪郭をなぞるのは
いつも切ないですね。
100万語並べたって、僕は今の自分の気持ちを伝える事ができないかもしれない。
だけどそれを諦めて黙るのはきっと何かが違う。
僕の今はどこにあるんでしょうか。
何故僕は自分の事を君に相談しているのでしょうか。
僕は追い詰められると面白い話が出来なくなる。
それがつらい。

誰かを笑わせていないと、僕はここにいてはいけないような気がする。
それもつらい。
だけどそれは僕だけがつらいんじゃなくて
みんなつらいはずなのに、僕は自分の話ばかりしている。
わかっているのに、やめられそうもない。
どうしたらいいのかわからない。
そして誰かが僕の為に僕を社会的に更生させようとすること、
そこに邪なシステムの怖さを感じる。
何故みんな、僕をネットワークに組み入れようとするのか
何故みんな、僕が孤独を大声で叫び続けるのを邪魔するのか
そしてこれが被害妄想と言われるのは何故なのか。

怖い。
義務感も責任感も怖い。
仕事が怖いんじゃない、何かを決断するのが怖い。
何かをわからないままし続ける自分が怖い。
消費社会、差異化の人生ゲームはそんなに面白いだろうか。
自分の予感に忠実な僕だから、予感が危険を告げれば全く踏み出せない。
僕は自分が面白そうだと思った時にしか行動できない。

僕という構築された観念は運動性があまりにもおかしい。

昨日、ある人から寝る前に電話がありました。
お互いに意味不明でつたない言葉で何かを感じあって
何も決めない、何かを求め合うような時間の共有が出来て
あの恥ずかしい時間が、許されたような何かが、
僕を誤魔化してくれるようで、騙し続けてくれるようで、
嘘で包んでくれるようで、消えそうな夢を壊したくないと思いました。

僕は狂っているでしょうか?
社会性のない、お金が嫌いな、何の役にも立たない人間は
やっぱり死ぬしかないんでしょうか?

笑っている人が好きです。
夢を追いかけている人が好きです。
遊んでいる人が好きです。

今が許されないならば、僕はいったい何を許されるのか。
宇宙の外に居る誰かに会いたくて
今はやっぱり、目を瞑る。
冷たい時の中に、何かの響きが、、、?

すいません、今はまだ、続きを書けそうにありません。
結局僕は言いたい事の1%も書けないまま、
この手紙を終える事になるのでしょうか。

問いは消えません。
なにかがおかしいままで、狂ったままで
ネジが狂った時計をはめて、ズレた1秒を刻み続けて僕の体はカチカチ動くでしょうか。
この異様な、不条理な世界を斜めに見て
僕はノコギリチャンネルを開くのでしょうか。

切手を貼ります。
僕の顔を描いたインチキ切手を貼ります。
大人のフリをしそうな僕へ届くように。

赤いポストに入れようと思う。
差出人不明の手紙は、もう僕には戻ってこない、そんな事を思いながら。