嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

地下鉄のけむたさを吸って

2005年10月30日 21時42分58秒 | 駄文(詩とは呼べない)
街を歩くと、自分がみすぼらしい人間のような気がしてくる。
特にみすぼらしい格好をしているわけでもないし、
お金が無いわけでもないのに、
何故か不思議と感じてしまうこの気持ちを
僕は失くさないようにしなくちゃいけないと思う。

わびしいとは、どんな感情だっただろうか。
今の自分に当てはまるだろうか。
今の自分にあてはめていいものだろうか。
僕がこんな場所でこんな気持ちで居る時に、
わびしいはわびしさをもって僕の側に来るだろうか。
ニセモノのわびしいになるだけじゃないだろうか。
わびしさの崩壊が始まるだけじゃないだろうか。

地下鉄の通路を通る時、
けむたい電車に乗る時、
地上へと出口を求めてさまよう時、
地上のあかるい光を吸おうと足を前に出す時、
僕の足取りの一歩一歩がみすぼらしい。

何故なんだろう。
知らない人たちで構成された「ぎこちなさ」をすりこぐような空気
「与えられた沈黙」という名のニセの満足感。
やわらかくて壊せないパントマイムの壁。
味のしないジュース。
記憶から遠ざかり続ける現在地。

観察力も集中力も沸き出さない、熱を持たない空気。
不快感すらも、世界の裏側に隠されているように感じる。

ただただ僕は、現実の情景を夢見ている。
そこでふと気付く。
失われているのは主体性だ。
世界と干渉を起こす自分がいない。
さびしい夢の中で、僕は現在を追いかけるように思い出している。
それでもなお、もっと古い過去を思い出して懐かしいと感じるのは、何故なんだろう。

誰か、生きてる人は居るんだろうか。
最高の懐かしさを思い出すために、僕はリアルステージで
幼児のような感覚で胎児をプレイしているのか。

自由ってなんだろう。
今の僕に思い出せる景色だろうか。
だらりとねむたい…。ここはどこなんだろう

この手から零れ落ちる現在地を失くさないように
僕はこの不快なけむたさを
胸いっぱいに吸い込んでおこう