人はみな、生まれつき違う世界を持っていて
それを伝える事が出来るのは自分しかいない
だから人間の生きる目的がどうだとか
人類の平和がどうとか
そんなスケールの大きな事を言わなくとも
もしも何か自分の世界を、自分の感覚で捉える事が出来ているならば、
その曖昧な認知の世界を、
自分の感性で、
正直に描き出すことが
僕の生きている意味だと言えなくもない。
だけどそれはあまりにもつらい孤独な作業で
誰にも伝わらない事を覚悟してやらねばならない。
そういう意味では、
無力さに打ちひしがれて、
誰にも届かない波の瀬戸際で、
ずっと死ぬまで意志の不在を叫んでいる方が楽だと思う。
『けれど』
僕にとって、僕の自殺と表現とは、
もはや切り離せない位置に来ている。
そのことを、僕はつらいとは思わない。
だけど、僕の世界が僕が死ぬまで決して誰にも理解されないことを思うと
ときどき絶望するよりも「むしろ」悲しくなる
世界が世界に出会えるというのは不思議なもので、
それは想像力によってしか体験されない。
物理現実の中では
どんな孤独な体験も
どんなつらい嬉しさも
どんなに激しい胸の痛みも
決して人には伝わらない。
そういう意味で、現実と精神を切り離して考える融合された行為は
儚く激しく、とてももの悲しい。
人がふたつのときの中で
集団としての時間と、
感性としての永遠を
そのはざまにおいて体験するという行為は、
生命の起源を遡る生態系としては あまりにも恥ずかしい。
もしも僕が野生に還る事で、
時間という概念から解き放たれるなればこそ、
僕はどんなに無惨な裸を晒して生きたとしても、
【もはや】まったく恥ずかしいとは思わないだろう。
生きるということは
とても大きな矛盾の拡大だと思う。
その中に、どんなちっぽけな正当性をも凌駕する世界を持つことを
僕らは誇らしく思おう。
それを伝える事が出来るのは自分しかいない
だから人間の生きる目的がどうだとか
人類の平和がどうとか
そんなスケールの大きな事を言わなくとも
もしも何か自分の世界を、自分の感覚で捉える事が出来ているならば、
その曖昧な認知の世界を、
自分の感性で、
正直に描き出すことが
僕の生きている意味だと言えなくもない。
だけどそれはあまりにもつらい孤独な作業で
誰にも伝わらない事を覚悟してやらねばならない。
そういう意味では、
無力さに打ちひしがれて、
誰にも届かない波の瀬戸際で、
ずっと死ぬまで意志の不在を叫んでいる方が楽だと思う。
『けれど』
僕にとって、僕の自殺と表現とは、
もはや切り離せない位置に来ている。
そのことを、僕はつらいとは思わない。
だけど、僕の世界が僕が死ぬまで決して誰にも理解されないことを思うと
ときどき絶望するよりも「むしろ」悲しくなる
世界が世界に出会えるというのは不思議なもので、
それは想像力によってしか体験されない。
物理現実の中では
どんな孤独な体験も
どんなつらい嬉しさも
どんなに激しい胸の痛みも
決して人には伝わらない。
そういう意味で、現実と精神を切り離して考える融合された行為は
儚く激しく、とてももの悲しい。
人がふたつのときの中で
集団としての時間と、
感性としての永遠を
そのはざまにおいて体験するという行為は、
生命の起源を遡る生態系としては あまりにも恥ずかしい。
もしも僕が野生に還る事で、
時間という概念から解き放たれるなればこそ、
僕はどんなに無惨な裸を晒して生きたとしても、
【もはや】まったく恥ずかしいとは思わないだろう。
生きるということは
とても大きな矛盾の拡大だと思う。
その中に、どんなちっぽけな正当性をも凌駕する世界を持つことを
僕らは誇らしく思おう。