嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

世界観とは

2006年11月29日 20時15分25秒 | 
人はみな、生まれつき違う世界を持っていて
それを伝える事が出来るのは自分しかいない

だから人間の生きる目的がどうだとか
人類の平和がどうとか
そんなスケールの大きな事を言わなくとも
もしも何か自分の世界を、自分の感覚で捉える事が出来ているならば、
その曖昧な認知の世界を、
自分の感性で、
正直に描き出すことが
僕の生きている意味だと言えなくもない。

だけどそれはあまりにもつらい孤独な作業で
誰にも伝わらない事を覚悟してやらねばならない。

そういう意味では、
無力さに打ちひしがれて、
誰にも届かない波の瀬戸際で、
ずっと死ぬまで意志の不在を叫んでいる方が楽だと思う。

『けれど』

僕にとって、僕の自殺と表現とは、
もはや切り離せない位置に来ている。
そのことを、僕はつらいとは思わない。

だけど、僕の世界が僕が死ぬまで決して誰にも理解されないことを思うと
ときどき絶望するよりも「むしろ」悲しくなる

世界が世界に出会えるというのは不思議なもので、
それは想像力によってしか体験されない。

物理現実の中では
どんな孤独な体験も
どんなつらい嬉しさも
どんなに激しい胸の痛みも
決して人には伝わらない。

そういう意味で、現実と精神を切り離して考える融合された行為は

儚く激しく、とてももの悲しい。

人がふたつのときの中で
集団としての時間と、
感性としての永遠を
そのはざまにおいて体験するという行為は、
生命の起源を遡る生態系としては あまりにも恥ずかしい。

もしも僕が野生に還る事で、
時間という概念から解き放たれるなればこそ、

僕はどんなに無惨な裸を晒して生きたとしても、
【もはや】まったく恥ずかしいとは思わないだろう。

生きるということは
とても大きな矛盾の拡大だと思う。

その中に、どんなちっぽけな正当性をも凌駕する世界を持つことを
僕らは誇らしく思おう。

現実の紐をほどいて‥

2006年11月29日 18時36分53秒 | 駄文(詩とは呼べない)
僕はまだ、全てをねがぅ 恋い焦がれるようなオスを知らない。
美しさだけが際だってはじけるメスも知らない。

明確な目標が無い理由の一つは、
全てを凌駕し、ねじふせる大人の世界が無いから。

ある意味で、出会いとは、全く届きもしない世界の果てでもある

そのことに気付いて、ふと自分を振り返る。

やっぱり僕は、自意識過剰なんだと思う。
それでも、その過剰な自意識が及びもしないほど遠い世界にあこがれて
僕は閉じられた瞳から、開かれた世界を見る。
おなじようにして
とき、おなじくして
僕は開かれた世界から身を乗り出して、
閉じられた世界の瞳を見る。
瞼を閉じて、
そのまなこの奥にある、
僕の心を見ようとする。

味気ない世界だ。
痛みの無いなめらかな今日が繰り返されて
他者を求める、
いたわりのない今日が繰り返される。

孤独の王様は、いつだって世界の中心にある。
けれどその心は、いつだって妖として知れず、ただ闇の中にある。

光が当てられる事を嫌う
けれどもっと深い闇を求める。
闇も光も届かない、もっと違う世界を夢見る。

固まった記憶の中で
カチカチに堅まった世界の中で
確かさを探せば、
全ては行方知れずとなる。

決定した世界の中で
何も決まっていない場所を探せば、
必然的に心は死へ向かう。

潜り込めばいい
その裏側へ、
そのドーム状の世界の裏側へ、
手を伸ばしても届かない場所へ、
想像された体験の中で
誰も出会わない宇宙の中で
ずっと閉じられた卵の中で
その裏側へ

すっと潜り込めばいい。

まるで明日と記憶が魅き合うように
失くした昨日の輪郭を作ればいい。

みたこともないばしょ
ふれたことのないあじとにおい
かいだことのないくうかん
かんじたことのないかんかく

そういう名前の無い場所で
やわらかいけしきの領域に気を運べばいい
命が生まれる場所で
透明な死を選べばいい

もうすこし、もうあとすこし、ほんのちょっと、
なにかをけとればいい

そこにきっと、地獄があるから。