本物はどこだ
ほとんどいつも、誰かの予想、予感、計画、空想、
そうした既成概念の中で何かを言わされている
例え言わされた事に満足し、同じ事を思ったとしても、
それは誰かにとってのリアルとはならない。
誰かが、いるかどうかも、疑わしいけれど。
自分の本当に思っていることは
作られた言葉じゃ言えない
すでにある言葉では、僕の思っていることは言えない
だけど。
僕が思っていることを、そのまま書けば
それはまた、誰にも解読できない。
二重の絶望、
三重の絶望、
予定調和、僕が予想する言葉。
僕は僕自身が誰から教わった言葉から
いったいどれくらい、はみ出すことができただろう。
ここにある言葉も、ほんの一瞬前に、
自分の中に自然に浮かんだ言葉で、
それは紙に2秒前に用意されたシナリオで
ほんの一瞬、自分の中心に近づいて、
1秒前のシナリオを、日常を壊して言ったつもりになったとしても
それは全部、僕が用意した言葉で
僕自身によって用意されたシナリオで、
そんな時の自分を、僕は信用することなどできるだろうか。
だけど逆説的に、
僕は自分の決めたことなど、
一度でも守り通す事ができたんだろうか。
本当に思ったことを言いたいなら
思ってから言うのでは遅すぎる
間に合わない。
僕が先に思い浮かんだ言葉を書いていたら
それは決してライブにはならない。
生かされてるだけの嘘の言葉で
真実を告げるような重い言葉にはならない。
あらゆる言語の法則の中から抜け出し
あらゆる予想を裏切り、ほんものの言葉の中で
僕は僕の言いたいことを見つけない限り
僕は僕から本物の言葉を引き出すことはできないし、
また、それらは全部ほんの小さな時間差の中にある絶望と同じで
あと一瞬、あとほんの少し
もう少しだけ、いつもより手を伸ばしても、
まだ僕の中心はそのさきにあって
その距離を思うと、僕はどうしても、何かが間違っていても
自分の遠さを感じずにはいられない。
嘘から抜け出すことができない。
たぶん、話そうとするから、それを思うことから先に始めるから
行動よりも前に言葉があるから、
だから僕の言葉はいつまで経っても本物にはならない。
指が僕の思考よりも速く動いたなら、
身体から溢れるもっと激しい情動をここに書き残せるだろうか?
問わない。
問うても、僕は問わない。
僕は僕に質問を投げつけ、
僕がそれに答え続ける。
だから僕は浮かんでくる言葉にはもう問わない。
僕の一瞬前と会話し続けるような言葉では
この閉鎖空間から抜け出せない。
だけどもし、僕が僕によって用意された言葉を超えたなら
そこには、思考すると同時に行為系があって、
後から言葉がついてくる。
そのちぐはぐな感じを、僕はどうやって体験するのだろう。
シドニーの上空から飛び降りたとき、
僕の思考は限りなく麻痺した。
そのぐちゃぐちゃの思考の中にあって
生きることよりも、考えることよりも、
まずその先に僕はただ世界から混乱を感じ取っていた。
あの感覚を、あの非日常を、僕の日常と混ぜ合わせて
中間色に出来たなら、今よりももう少し、僕はここに居ることが好きになると思う。
だけどやっぱり僕はこの場所を
灯籠の中から思い出し続けている
走馬燈をぐるぐる回して、地平線の奥から
ずっと向こう側からやってくる光を読み取り続けている。
たぶん、そのままじゃダメなんだと思う。
だからもし、誰かが言うように、
真っ白なエクリチュールを0度だとしつこく力説するのなら、
たぶん0度では真実に近づけない。
自分と出会った時が0度なら、自分を超越し、活克するものは
もう0度じゃない。
ゆえに僕が虚数と虚構から抜け出し、自分を捨て去るならば、
そこには死の暗号が刻まれるはずだから。
テキストはいつも敗北する。
情動にもパトスにも、感情にも腐敗にも、
思考にも記号にもテキストは勝てない。
いつもいつもテキストは敗北している。
それがたぶん、より一層の、空想的な残酷妄想へ
僕を誘うんだと思う。
もっと考えることよりも速く、
言葉の音を取り出して、
もっと無秩序な、誰にも縛られない遠くへいきたい。
法則と常識から抜け出して、
すべてを忘れて透明になりたい。
ぜんぶいんちきだ。
僕が見ているものは全部でたらめだ。
もっと僕に、透明な神が近づけばいい。
それを殺して、僕は自殺を手に入れる。
ほとんどいつも、誰かの予想、予感、計画、空想、
そうした既成概念の中で何かを言わされている
例え言わされた事に満足し、同じ事を思ったとしても、
それは誰かにとってのリアルとはならない。
誰かが、いるかどうかも、疑わしいけれど。
自分の本当に思っていることは
作られた言葉じゃ言えない
すでにある言葉では、僕の思っていることは言えない
だけど。
僕が思っていることを、そのまま書けば
それはまた、誰にも解読できない。
二重の絶望、
三重の絶望、
予定調和、僕が予想する言葉。
僕は僕自身が誰から教わった言葉から
いったいどれくらい、はみ出すことができただろう。
ここにある言葉も、ほんの一瞬前に、
自分の中に自然に浮かんだ言葉で、
それは紙に2秒前に用意されたシナリオで
ほんの一瞬、自分の中心に近づいて、
1秒前のシナリオを、日常を壊して言ったつもりになったとしても
それは全部、僕が用意した言葉で
僕自身によって用意されたシナリオで、
そんな時の自分を、僕は信用することなどできるだろうか。
だけど逆説的に、
僕は自分の決めたことなど、
一度でも守り通す事ができたんだろうか。
本当に思ったことを言いたいなら
思ってから言うのでは遅すぎる
間に合わない。
僕が先に思い浮かんだ言葉を書いていたら
それは決してライブにはならない。
生かされてるだけの嘘の言葉で
真実を告げるような重い言葉にはならない。
あらゆる言語の法則の中から抜け出し
あらゆる予想を裏切り、ほんものの言葉の中で
僕は僕の言いたいことを見つけない限り
僕は僕から本物の言葉を引き出すことはできないし、
また、それらは全部ほんの小さな時間差の中にある絶望と同じで
あと一瞬、あとほんの少し
もう少しだけ、いつもより手を伸ばしても、
まだ僕の中心はそのさきにあって
その距離を思うと、僕はどうしても、何かが間違っていても
自分の遠さを感じずにはいられない。
嘘から抜け出すことができない。
たぶん、話そうとするから、それを思うことから先に始めるから
行動よりも前に言葉があるから、
だから僕の言葉はいつまで経っても本物にはならない。
指が僕の思考よりも速く動いたなら、
身体から溢れるもっと激しい情動をここに書き残せるだろうか?
問わない。
問うても、僕は問わない。
僕は僕に質問を投げつけ、
僕がそれに答え続ける。
だから僕は浮かんでくる言葉にはもう問わない。
僕の一瞬前と会話し続けるような言葉では
この閉鎖空間から抜け出せない。
だけどもし、僕が僕によって用意された言葉を超えたなら
そこには、思考すると同時に行為系があって、
後から言葉がついてくる。
そのちぐはぐな感じを、僕はどうやって体験するのだろう。
シドニーの上空から飛び降りたとき、
僕の思考は限りなく麻痺した。
そのぐちゃぐちゃの思考の中にあって
生きることよりも、考えることよりも、
まずその先に僕はただ世界から混乱を感じ取っていた。
あの感覚を、あの非日常を、僕の日常と混ぜ合わせて
中間色に出来たなら、今よりももう少し、僕はここに居ることが好きになると思う。
だけどやっぱり僕はこの場所を
灯籠の中から思い出し続けている
走馬燈をぐるぐる回して、地平線の奥から
ずっと向こう側からやってくる光を読み取り続けている。
たぶん、そのままじゃダメなんだと思う。
だからもし、誰かが言うように、
真っ白なエクリチュールを0度だとしつこく力説するのなら、
たぶん0度では真実に近づけない。
自分と出会った時が0度なら、自分を超越し、活克するものは
もう0度じゃない。
ゆえに僕が虚数と虚構から抜け出し、自分を捨て去るならば、
そこには死の暗号が刻まれるはずだから。
テキストはいつも敗北する。
情動にもパトスにも、感情にも腐敗にも、
思考にも記号にもテキストは勝てない。
いつもいつもテキストは敗北している。
それがたぶん、より一層の、空想的な残酷妄想へ
僕を誘うんだと思う。
もっと考えることよりも速く、
言葉の音を取り出して、
もっと無秩序な、誰にも縛られない遠くへいきたい。
法則と常識から抜け出して、
すべてを忘れて透明になりたい。
ぜんぶいんちきだ。
僕が見ているものは全部でたらめだ。
もっと僕に、透明な神が近づけばいい。
それを殺して、僕は自殺を手に入れる。