いつも通り、横断歩道の白い線の上だけを、
特にその淵だけを踏みしめて歩いた。
白い線が途絶えそうになったら、僕はジャンプする
きっとどこかしら、白い線はあるんだと思いながら
白い線が途絶えたら、白いセメントを、横断歩道の淵を歩いた。
白い道は途絶えた。
僕はもう白い道は歩けない
あるいは引き返すのか。
それとも此処で死ぬか。
結果として、やはりというか当然というか、
僕はそこで妥協せざるを得なくなる
だからそこから先は、全部灰色の平坦な道を歩くことになる
工事現場の知らない人にも「おはようございます」と挨拶する
近所の人、顔も覚えてないような人にも、にこやかに挨拶する
(大丈夫、大丈夫)
今はきっと、僕は普通の人のフリが出来てる
車のスピードが速すぎる
行き交う人々の平然としたてくてく歩いていく姿にさえ嫉妬する。
結局僕はこの世界の速さに全く慣れていないのだ
自分の決めたルールの無い場所は、
いつも混沌とした速さで意味不明な輪郭から
特別な色が情景としてうなって吼える
僕はこの世界には向いてない。
慣れるってのはつまり、ものさしを捨てることだ
自分で何かを判断する事を諦め、全てをフィルタリングし、
情報の一つ一つに目を向けて分析して考える事を
諦めて平然と歩いていくことだ。
非日常はいつも僕の意志とは無関係に、
すごい速さでめまぐるしく回り廻って周り狂う不思議な世界だ。
だから結局、そこには楽しい事なんて何一つ無い。
怖いことの連続があるだけなのだ。
聞いたことも無いガイドラインに沿って、知らない道を、
ガードレールから落ちないようにびくびくしながら歩いていく
奴隷の行進に変わるのだ。
そうやって、なんだかわけのわからない魔物に従って歩いて…
それでなにか楽しいのか?
結局のところ、二極化してしまえば二つに一つしか無いのだ。
僕が変わるか、世界が変わるか。
僕はもう死んだ。それは変えられない。
じゃぁ世界が死んだ人間をそっと放置しといてくれるか?
腐らないように、ミイラにもならないように、
永眠する死体のままでそっと放置しておいてくれるのか?
しないだろう。
たとえば僕が今日から生者の行進をやめて、
死者の後進にしても、
あるいは死んだふりをやめて生きた背景になったとしても、
どちらにしても世界の変化は僕を壊して僕を忘れる。
だから結局は、世界のルールになんか従ったってしょうがないんだよ。
世界は僕に何もしてくれないし、
僕も世界に何もしない。
語りかける言葉を持たないし、理解できるほど易しい世界でもない。
世界の変化の潮流に乗っかってサーフィンするよりも、
僕自身が世界を作った方がはやいんだよ。
とはいえ、僕は意志のない人間なんて大嫌いだから
宗教の類は基本的に邪教だと思ってるけどね。
おしいね、君はあと少し頑張れば教祖になれそうなのに。
うるさいよ、余計なお世話だ。そんなもんに用は無いよ。
ほっといてくれ。やりたきゃ勝手にお前がやれ。
とか、そんなこと考えてる間にホントに世の中変なものがはびこって
わんさか新興宗教が出来てるんだけども。
そんなふうに群れたって、結局孤独の解消にはならないし、
自分がつくり出したわけでもないルールを厳格に遵守したって、
結局神も現れなければ、奇跡も起きやしないのに。
ただ、知らない現象はやっぱりいくつかはあるんだろうし、
それを奇跡と勘違いして信じる弱さってのもあるんだろうなぁ、とは思う。
そんでもやっぱり、自分の決めた日常の柵の中でのんびり暮らして、
騒がしくてうるさい柵の外を「非日常」と呼んで批判する僕の弱さも、
結局は宗教対立とそんなに変わらないのかもしれない。
もし、この世界に動物が一匹も居なくて、
昆虫も全く居なくて、細菌も微生物も居なくて、
植物だけがのんびりのろのろ成長して、
それを観察したり分析したりする事が僕の生き甲斐だったとしたら、
僕はその世界でのびのびと安心して暮らせるんだろうか?
たぶん違うんだと思う。
植物が、僕にとっての不思議であるというよりは、
むしろ僕にとっての敵として、おそるおそる接していくことになるんだと思う。
毒リンゴで殺されるほど、むしゃむしゃリンゴを食っていられない。
いつでも植物は僕を殺そうと狙ってるのだ、
そう思い込んで、僕は食べることをやめて餓死したりなんかしそうな感じもする。
ただ、それでも僕より速く動くものが全くなければ、
僕はある程度安心してのびのびとしては居られるのかもしれない。
小さい頃に比べて、一日のながさはずいぶんと短くなった。
シャボン玉の模様が変化する速度は、おそろしく混沌とした速さを帯びてきた。
それもこれもみんな、僕が老化したせいなんだろうと思う。
自分が柔らかく素早くそしてすばしこく、
環境の変化に適用できるような若さを保っていたのなら、
もう少し世界は僕の目に楽しく映るんだろう。
だけど心が死んで硬質化してしまった僕の時間は、
ただいつもちぐはぐな時の流れに挟まれて
苦しくぎゅうぎゅうとわめくだけだ。
非日常。
それが昔は冒険の醍醐味だったはずなのに。
僕はいつから、非日常を畏れるようになったのだろう。
特にその淵だけを踏みしめて歩いた。
白い線が途絶えそうになったら、僕はジャンプする
きっとどこかしら、白い線はあるんだと思いながら
白い線が途絶えたら、白いセメントを、横断歩道の淵を歩いた。
白い道は途絶えた。
僕はもう白い道は歩けない
あるいは引き返すのか。
それとも此処で死ぬか。
結果として、やはりというか当然というか、
僕はそこで妥協せざるを得なくなる
だからそこから先は、全部灰色の平坦な道を歩くことになる
工事現場の知らない人にも「おはようございます」と挨拶する
近所の人、顔も覚えてないような人にも、にこやかに挨拶する
(大丈夫、大丈夫)
今はきっと、僕は普通の人のフリが出来てる
車のスピードが速すぎる
行き交う人々の平然としたてくてく歩いていく姿にさえ嫉妬する。
結局僕はこの世界の速さに全く慣れていないのだ
自分の決めたルールの無い場所は、
いつも混沌とした速さで意味不明な輪郭から
特別な色が情景としてうなって吼える
僕はこの世界には向いてない。
慣れるってのはつまり、ものさしを捨てることだ
自分で何かを判断する事を諦め、全てをフィルタリングし、
情報の一つ一つに目を向けて分析して考える事を
諦めて平然と歩いていくことだ。
非日常はいつも僕の意志とは無関係に、
すごい速さでめまぐるしく回り廻って周り狂う不思議な世界だ。
だから結局、そこには楽しい事なんて何一つ無い。
怖いことの連続があるだけなのだ。
聞いたことも無いガイドラインに沿って、知らない道を、
ガードレールから落ちないようにびくびくしながら歩いていく
奴隷の行進に変わるのだ。
そうやって、なんだかわけのわからない魔物に従って歩いて…
それでなにか楽しいのか?
結局のところ、二極化してしまえば二つに一つしか無いのだ。
僕が変わるか、世界が変わるか。
僕はもう死んだ。それは変えられない。
じゃぁ世界が死んだ人間をそっと放置しといてくれるか?
腐らないように、ミイラにもならないように、
永眠する死体のままでそっと放置しておいてくれるのか?
しないだろう。
たとえば僕が今日から生者の行進をやめて、
死者の後進にしても、
あるいは死んだふりをやめて生きた背景になったとしても、
どちらにしても世界の変化は僕を壊して僕を忘れる。
だから結局は、世界のルールになんか従ったってしょうがないんだよ。
世界は僕に何もしてくれないし、
僕も世界に何もしない。
語りかける言葉を持たないし、理解できるほど易しい世界でもない。
世界の変化の潮流に乗っかってサーフィンするよりも、
僕自身が世界を作った方がはやいんだよ。
とはいえ、僕は意志のない人間なんて大嫌いだから
宗教の類は基本的に邪教だと思ってるけどね。
おしいね、君はあと少し頑張れば教祖になれそうなのに。
うるさいよ、余計なお世話だ。そんなもんに用は無いよ。
ほっといてくれ。やりたきゃ勝手にお前がやれ。
とか、そんなこと考えてる間にホントに世の中変なものがはびこって
わんさか新興宗教が出来てるんだけども。
そんなふうに群れたって、結局孤独の解消にはならないし、
自分がつくり出したわけでもないルールを厳格に遵守したって、
結局神も現れなければ、奇跡も起きやしないのに。
ただ、知らない現象はやっぱりいくつかはあるんだろうし、
それを奇跡と勘違いして信じる弱さってのもあるんだろうなぁ、とは思う。
そんでもやっぱり、自分の決めた日常の柵の中でのんびり暮らして、
騒がしくてうるさい柵の外を「非日常」と呼んで批判する僕の弱さも、
結局は宗教対立とそんなに変わらないのかもしれない。
もし、この世界に動物が一匹も居なくて、
昆虫も全く居なくて、細菌も微生物も居なくて、
植物だけがのんびりのろのろ成長して、
それを観察したり分析したりする事が僕の生き甲斐だったとしたら、
僕はその世界でのびのびと安心して暮らせるんだろうか?
たぶん違うんだと思う。
植物が、僕にとっての不思議であるというよりは、
むしろ僕にとっての敵として、おそるおそる接していくことになるんだと思う。
毒リンゴで殺されるほど、むしゃむしゃリンゴを食っていられない。
いつでも植物は僕を殺そうと狙ってるのだ、
そう思い込んで、僕は食べることをやめて餓死したりなんかしそうな感じもする。
ただ、それでも僕より速く動くものが全くなければ、
僕はある程度安心してのびのびとしては居られるのかもしれない。
小さい頃に比べて、一日のながさはずいぶんと短くなった。
シャボン玉の模様が変化する速度は、おそろしく混沌とした速さを帯びてきた。
それもこれもみんな、僕が老化したせいなんだろうと思う。
自分が柔らかく素早くそしてすばしこく、
環境の変化に適用できるような若さを保っていたのなら、
もう少し世界は僕の目に楽しく映るんだろう。
だけど心が死んで硬質化してしまった僕の時間は、
ただいつもちぐはぐな時の流れに挟まれて
苦しくぎゅうぎゅうとわめくだけだ。
非日常。
それが昔は冒険の醍醐味だったはずなのに。
僕はいつから、非日常を畏れるようになったのだろう。