嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

時間軸の虚数性

2007年07月19日 20時22分43秒 | 駄文(詩とは呼べない)
時間って矛盾の拡大の中で広がっていくものだと思うんですよ。
何かを決断し、それに向かって真っ直ぐ進んでいる時は
時間はすごい速さで経過していきます。

そもそも、時間という絶対性はこの世界にありませんよね?
誰かがその考え方を概念として用意して、
そういう解釈や説明がわかりやすかった、
そういうことですよね?

人は本質的に独りっきりだという話はよく聞きます。
どこかで何度も何度も聞いたような話です。

でも、それが100%の孤独であったのなら、
そもそも最初からあまり問題にならないと思うんですよ。
自意識が100%自分を肯定し、
誰とも出会う事が無いのなら、
そもそも他者性や、出会う事の不思議や、
未来や、愛と呼ばれている何かに、
人が翻弄される事はありません。

大人になっていく過程で、
多くの人が既成概念、
用意された答え、
外にある正しさ、
そういうものに屈服して
「生きる」を受け入れてしまっていると思うんですよ。

それでその延長に何があるかというと、
「確定」なんですよ。
可能性がどんどんと死滅していって、
生のパーセンテージがどんどん増加していき、
100%に達した瞬間に全ての世界が死に絶えます。

全てが生で満たされる事、
それは絶望的に未来が失われている状態

でも、逆もそうなんですよ。

心の中で死が充ち満ちていて、
あらゆる生が奪われていく事
それもまた、絶望です。

矛盾した二つのエネルギーが激しくぶつかっている時に、
それらを超える形で、新しい方向性が生まれますよね?

全てがXであることと、全てがマイナスXであることは、
同じくらい馬鹿馬鹿しい軸ですよね。
もっとXとマイナスXが鬩ぎ合っていないと、
Y軸が生まれない。

僕の中で、心はずっと前から死んでいます。
小学生の頃、死を予感した時から、
自殺を決めたときから、
僕の世界は○く閉じてしまいました。

しかしその時から、身体は凄い速さで老化しています。
内側の選択肢と、外側の選択肢とが、凄い速さで交差して、
その混乱の中で、常に僕の選択肢は内側にロックされています。

もしも、この世界に、僕以外の存在が居ないのなら、
これはその時僕が感じている走馬燈の中に、
ただ僕がインサイドしているだけの状態です。

常に内側を選び続ける惰性というのは、
いつもいつも自分が神になって創造した世界の中でだけ遊ぶ、
という繰り返し行為なんですよ。

僕が生を選ぶのではあれば、
僕は宇宙の外を目指さねばなりません。
この世界はとても広い様相を呈したトリックに包まれているけれど、
その実、この宇宙は胎児のちょっと先までしかありません。

羊水の中で生き続ける胎児にとって、
深い眠りは彼の世界の生そのものです。
ですが、それは新しい世界に対して、まったく誕生していないんです。

僕らが現実と呼ばれる世界で生き残るために選ぶ選択肢、
それはいつもこの世界から一歩も動かないための膠着でしかありません。

本当に生きようと思うのならば、
全世界にある生物を神の力で殺し続け、
それを食べ続け、永遠に近い途方もなく長い時間を生き抜き、
自分の大きさと宇宙の大きさを重ね合わせの状態まで持って行かねばなりません。

残念ですが僕はそのような生の痛みには耐えられそうもありません。

意志があまりにも薄弱だからです。
あなたが言う暗示に弱いというのと似ているのかもしれません。

僕は残りの時間そのものを、どちらかの極論に確定させて、
縮める事を望んでいるわけではないですよ。
砂時計を、無重力空間に置いてみて、
その上から下か、どちらかに心を置いてしまうのなら、
砂は凄い速さで流れていきます。

この世界で一歩も動けなくなるほど、
あなたが自分を消耗してしまったのなら、
あなたはそこで休んでいてもいいと思うんですよ。
何も選ばずに、何も行動しなくてもいいと思うんですよ。

だけどそれが「迷い」の状態にある限り、
あなたはその世界から出られないと思います。
だからこそ、あなたには死が、衝動的に、発作的に
救いのように映るのではないですか?

僕はこの世界に「意志」と呼ばれる精神性が存在するのかどうか、
とても疑っています。
もしも僕が自殺に成功したのなら、
それは僕の意志がこの世界に介入することの現れではありますが、
僕の意志と呼ばれる抽象性は、
いつも他者である全ての世界の外側に内包されてロックされてると思うんですよ。

生に偏る事も、死に偏る事も、この世界の日常の中に包含されますよね。
黒い服着たお祭りであるか、
喜び泣き叫んで臍の緒を切断する儀式であるか、
そうした日常性の中を出られませんよね?

それは僕の望んでいる終わりとは違うんですよ。

僕の意志の力で、宇宙が自殺する事、
それが望みです。

みんながみんな、具体化の流れの中で他者を望むようになったら、
この世界はどうしようもく膠着して
シュミレーションとパズルだけが支配するようになっていきます。

僕が望んでいる事は他殺ではありません。
なので手伝いは要りませんよ。

でも、観察する人は、外部の目線は、
永きに渡りあって欲しいなぁ、と思います。
それを読者という具体性に代入するかどうかは、
まぁそれぞれが勝手にやってくれれば良いのですけど。

名乗る必要のない名無しから名前を奪い取るために。

2007年07月19日 04時20分02秒 | 駄文(詩とは呼べない)
嫉妬。

難しい感情です
僕のことを羨ましいと言った人はいるけれど
僕に嫉妬してるとか、
僕の才能に嫉妬してるなんてことを
ハッキリ明言するような人は
これまで居なかったので
どう答えていいのかなかなか混乱します。

ただ、ひとつだけ勘違いしないでもらうために
釘を刺しておきます。

テキストというのは
そこに置かれているだけではただの墓標とかわりません。

そこにある記号のような
意味不明ででたらめな言葉の羅列を、
読み取る事の出来る読者が居て、
初めてそれはその人にとっての言葉となります。

僕の中に、唯一のものが、
たった一つの何かが見えているのだとしたら、
それはあなたに自分自身の中にある
たった一つだけのものが、
何かしら、僕のテキストを通して見いだせて居る事になります。

逆に言えば、それはもちろん孤独を生きるための才能だと思います。
だってこの世界に

たった一つしか。

それが無いのですから。

僕は一つの才能が世界の何かを凌駕し、
この世界を変えるきっかけとなるのかどうか、
今ひとつ自信が持てないでいます。

もちろん僕には
僕自身の唯一無二の何かがあるのかどうか、
それ自体自身では判別できていません。

ただ、僕の見ている世界は,
おそらく僕にしか見えていないのだろうな、
という気はしています。

それを思うとときおりどうしようもない気分になるのですけど、
それを言い表すのがとても難しいんです。

僕の見ている世界を、
どれだけ必死に伝えようとしても、
あまりにも膨大な途方もない渾然一体となった悪意が
鍵を開こうとするたびにドッと押し寄せてくるのに似た絶望があるからです。

そのことの一つが、
僕の世界にある感覚を、
僕の見ている曖昧さを、
そのままアナログなものとして
ここに持ってこれないというどうしようもなさがあります。

僕が考える時の、僕だけの世界が感じる感触は日本語ではありません。
それを誰かに伝えようとする以上、
伝える想いが必死であるほど、
それは日本語の様態を崩壊させてぐちゃぐちゃになります。
そのことでずいぶんと責められました。
多くの人から、「お前の言ってる事は意味がわからない」
という突き刺さるような圧力を感じます。
それを感じるたびに、僕は相手の言葉が見えない事と、
自分の言葉が相手に見えない事の、
その間で妥協のような、譲歩のような、
なんとも言えない悪意の間で揺さぶられます。

ほとんどの人が、
「オレにわかる言葉で説明してくれ」
「普通に誰でもわかるような言い方に直してくれ」
と、僕に要求してきます。

それは本質的におかしな主張です。

テスト用紙に書いてある4次方程式が解けない時、
問題を3次方程式に書き直して出題してくれと
紙に向かって迫るような行為だからです。

だから僕が何かを言い直すたびに、
もとあった僕のオリジンは失われます。

それは僕の記憶が改ざんされるのと似たような暴力性を持っています。
けれど、その痛みは、何かしら相手に奇妙な同情のような、
得難いふらつきのようなものとして、
相手に振動が伝わっているような気もしてくるのです。

そしてまた相手は僕に
その痛みの本質のなんたるかを見つめるまなざしを送ります。
そうして僕はまた、
ここで僕が苦しんでいるもどかしさをぐちゃぐちゃの言葉で書き殴るのです。

おかしいでしょうか?
僕の書いている事は、どこかおかしなことでしょうか?
そんなに意味のわからない文章なんでしょうか。

どうしたらいいんでしょうか。
僕が、当たり前の言葉、普通の言葉、誰でもわかる言葉、
みんなに共通の言葉、日本語、標準語、
そういう固いものに毒されて、気化していくその感情を失ってしまえばいいのでしょうか。

全てを受け入れるには、あまりにもこの世界は
現実と呼ばれる曖昧で漠然としてインチキな固定概念に充ち満ちていると思いませんか?
その固さを受け入れるたびに、僕たちの中にある
生まれつき持っている何かが壊されていく気がしませんか?

そしてそれは、本質的には柔らかさの位置にあるような気がしませんか?
ソフトウェアをハードウェアで破壊する行為のような気がしませんか?

僕は弱さを失いたくありません。
自分がいつも死にたいと思っているその感じを、
手放したくありません。

自殺は本人にとって、その本人に宿る意志にとってとても貴重な、
誰にも奪われない尊いものだと思います。
けれどそれは、おそらく生や存在を信じるものにとっては、
異端の神と同じくらいの暴力性を持っているのだと思います。

死に神は蘇る。
「神は死んだ、そしてその時、死に神が生まれた。」

始まりの終わり。
終わることによる始まり。