時間って矛盾の拡大の中で広がっていくものだと思うんですよ。
何かを決断し、それに向かって真っ直ぐ進んでいる時は
時間はすごい速さで経過していきます。
そもそも、時間という絶対性はこの世界にありませんよね?
誰かがその考え方を概念として用意して、
そういう解釈や説明がわかりやすかった、
そういうことですよね?
人は本質的に独りっきりだという話はよく聞きます。
どこかで何度も何度も聞いたような話です。
でも、それが100%の孤独であったのなら、
そもそも最初からあまり問題にならないと思うんですよ。
自意識が100%自分を肯定し、
誰とも出会う事が無いのなら、
そもそも他者性や、出会う事の不思議や、
未来や、愛と呼ばれている何かに、
人が翻弄される事はありません。
大人になっていく過程で、
多くの人が既成概念、
用意された答え、
外にある正しさ、
そういうものに屈服して
「生きる」を受け入れてしまっていると思うんですよ。
それでその延長に何があるかというと、
「確定」なんですよ。
可能性がどんどんと死滅していって、
生のパーセンテージがどんどん増加していき、
100%に達した瞬間に全ての世界が死に絶えます。
全てが生で満たされる事、
それは絶望的に未来が失われている状態
でも、逆もそうなんですよ。
心の中で死が充ち満ちていて、
あらゆる生が奪われていく事
それもまた、絶望です。
矛盾した二つのエネルギーが激しくぶつかっている時に、
それらを超える形で、新しい方向性が生まれますよね?
全てがXであることと、全てがマイナスXであることは、
同じくらい馬鹿馬鹿しい軸ですよね。
もっとXとマイナスXが鬩ぎ合っていないと、
Y軸が生まれない。
僕の中で、心はずっと前から死んでいます。
小学生の頃、死を予感した時から、
自殺を決めたときから、
僕の世界は○く閉じてしまいました。
しかしその時から、身体は凄い速さで老化しています。
内側の選択肢と、外側の選択肢とが、凄い速さで交差して、
その混乱の中で、常に僕の選択肢は内側にロックされています。
もしも、この世界に、僕以外の存在が居ないのなら、
これはその時僕が感じている走馬燈の中に、
ただ僕がインサイドしているだけの状態です。
常に内側を選び続ける惰性というのは、
いつもいつも自分が神になって創造した世界の中でだけ遊ぶ、
という繰り返し行為なんですよ。
僕が生を選ぶのではあれば、
僕は宇宙の外を目指さねばなりません。
この世界はとても広い様相を呈したトリックに包まれているけれど、
その実、この宇宙は胎児のちょっと先までしかありません。
羊水の中で生き続ける胎児にとって、
深い眠りは彼の世界の生そのものです。
ですが、それは新しい世界に対して、まったく誕生していないんです。
僕らが現実と呼ばれる世界で生き残るために選ぶ選択肢、
それはいつもこの世界から一歩も動かないための膠着でしかありません。
本当に生きようと思うのならば、
全世界にある生物を神の力で殺し続け、
それを食べ続け、永遠に近い途方もなく長い時間を生き抜き、
自分の大きさと宇宙の大きさを重ね合わせの状態まで持って行かねばなりません。
残念ですが僕はそのような生の痛みには耐えられそうもありません。
意志があまりにも薄弱だからです。
あなたが言う暗示に弱いというのと似ているのかもしれません。
僕は残りの時間そのものを、どちらかの極論に確定させて、
縮める事を望んでいるわけではないですよ。
砂時計を、無重力空間に置いてみて、
その上から下か、どちらかに心を置いてしまうのなら、
砂は凄い速さで流れていきます。
この世界で一歩も動けなくなるほど、
あなたが自分を消耗してしまったのなら、
あなたはそこで休んでいてもいいと思うんですよ。
何も選ばずに、何も行動しなくてもいいと思うんですよ。
だけどそれが「迷い」の状態にある限り、
あなたはその世界から出られないと思います。
だからこそ、あなたには死が、衝動的に、発作的に
救いのように映るのではないですか?
僕はこの世界に「意志」と呼ばれる精神性が存在するのかどうか、
とても疑っています。
もしも僕が自殺に成功したのなら、
それは僕の意志がこの世界に介入することの現れではありますが、
僕の意志と呼ばれる抽象性は、
いつも他者である全ての世界の外側に内包されてロックされてると思うんですよ。
生に偏る事も、死に偏る事も、この世界の日常の中に包含されますよね。
黒い服着たお祭りであるか、
喜び泣き叫んで臍の緒を切断する儀式であるか、
そうした日常性の中を出られませんよね?
それは僕の望んでいる終わりとは違うんですよ。
僕の意志の力で、宇宙が自殺する事、
それが望みです。
みんながみんな、具体化の流れの中で他者を望むようになったら、
この世界はどうしようもく膠着して
シュミレーションとパズルだけが支配するようになっていきます。
僕が望んでいる事は他殺ではありません。
なので手伝いは要りませんよ。
でも、観察する人は、外部の目線は、
永きに渡りあって欲しいなぁ、と思います。
それを読者という具体性に代入するかどうかは、
まぁそれぞれが勝手にやってくれれば良いのですけど。
何かを決断し、それに向かって真っ直ぐ進んでいる時は
時間はすごい速さで経過していきます。
そもそも、時間という絶対性はこの世界にありませんよね?
誰かがその考え方を概念として用意して、
そういう解釈や説明がわかりやすかった、
そういうことですよね?
人は本質的に独りっきりだという話はよく聞きます。
どこかで何度も何度も聞いたような話です。
でも、それが100%の孤独であったのなら、
そもそも最初からあまり問題にならないと思うんですよ。
自意識が100%自分を肯定し、
誰とも出会う事が無いのなら、
そもそも他者性や、出会う事の不思議や、
未来や、愛と呼ばれている何かに、
人が翻弄される事はありません。
大人になっていく過程で、
多くの人が既成概念、
用意された答え、
外にある正しさ、
そういうものに屈服して
「生きる」を受け入れてしまっていると思うんですよ。
それでその延長に何があるかというと、
「確定」なんですよ。
可能性がどんどんと死滅していって、
生のパーセンテージがどんどん増加していき、
100%に達した瞬間に全ての世界が死に絶えます。
全てが生で満たされる事、
それは絶望的に未来が失われている状態
でも、逆もそうなんですよ。
心の中で死が充ち満ちていて、
あらゆる生が奪われていく事
それもまた、絶望です。
矛盾した二つのエネルギーが激しくぶつかっている時に、
それらを超える形で、新しい方向性が生まれますよね?
全てがXであることと、全てがマイナスXであることは、
同じくらい馬鹿馬鹿しい軸ですよね。
もっとXとマイナスXが鬩ぎ合っていないと、
Y軸が生まれない。
僕の中で、心はずっと前から死んでいます。
小学生の頃、死を予感した時から、
自殺を決めたときから、
僕の世界は○く閉じてしまいました。
しかしその時から、身体は凄い速さで老化しています。
内側の選択肢と、外側の選択肢とが、凄い速さで交差して、
その混乱の中で、常に僕の選択肢は内側にロックされています。
もしも、この世界に、僕以外の存在が居ないのなら、
これはその時僕が感じている走馬燈の中に、
ただ僕がインサイドしているだけの状態です。
常に内側を選び続ける惰性というのは、
いつもいつも自分が神になって創造した世界の中でだけ遊ぶ、
という繰り返し行為なんですよ。
僕が生を選ぶのではあれば、
僕は宇宙の外を目指さねばなりません。
この世界はとても広い様相を呈したトリックに包まれているけれど、
その実、この宇宙は胎児のちょっと先までしかありません。
羊水の中で生き続ける胎児にとって、
深い眠りは彼の世界の生そのものです。
ですが、それは新しい世界に対して、まったく誕生していないんです。
僕らが現実と呼ばれる世界で生き残るために選ぶ選択肢、
それはいつもこの世界から一歩も動かないための膠着でしかありません。
本当に生きようと思うのならば、
全世界にある生物を神の力で殺し続け、
それを食べ続け、永遠に近い途方もなく長い時間を生き抜き、
自分の大きさと宇宙の大きさを重ね合わせの状態まで持って行かねばなりません。
残念ですが僕はそのような生の痛みには耐えられそうもありません。
意志があまりにも薄弱だからです。
あなたが言う暗示に弱いというのと似ているのかもしれません。
僕は残りの時間そのものを、どちらかの極論に確定させて、
縮める事を望んでいるわけではないですよ。
砂時計を、無重力空間に置いてみて、
その上から下か、どちらかに心を置いてしまうのなら、
砂は凄い速さで流れていきます。
この世界で一歩も動けなくなるほど、
あなたが自分を消耗してしまったのなら、
あなたはそこで休んでいてもいいと思うんですよ。
何も選ばずに、何も行動しなくてもいいと思うんですよ。
だけどそれが「迷い」の状態にある限り、
あなたはその世界から出られないと思います。
だからこそ、あなたには死が、衝動的に、発作的に
救いのように映るのではないですか?
僕はこの世界に「意志」と呼ばれる精神性が存在するのかどうか、
とても疑っています。
もしも僕が自殺に成功したのなら、
それは僕の意志がこの世界に介入することの現れではありますが、
僕の意志と呼ばれる抽象性は、
いつも他者である全ての世界の外側に内包されてロックされてると思うんですよ。
生に偏る事も、死に偏る事も、この世界の日常の中に包含されますよね。
黒い服着たお祭りであるか、
喜び泣き叫んで臍の緒を切断する儀式であるか、
そうした日常性の中を出られませんよね?
それは僕の望んでいる終わりとは違うんですよ。
僕の意志の力で、宇宙が自殺する事、
それが望みです。
みんながみんな、具体化の流れの中で他者を望むようになったら、
この世界はどうしようもく膠着して
シュミレーションとパズルだけが支配するようになっていきます。
僕が望んでいる事は他殺ではありません。
なので手伝いは要りませんよ。
でも、観察する人は、外部の目線は、
永きに渡りあって欲しいなぁ、と思います。
それを読者という具体性に代入するかどうかは、
まぁそれぞれが勝手にやってくれれば良いのですけど。