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堀栄三 渾名マッカーサー参謀

2020-05-26 23:32:06 | 日記
堀栄三


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曖昧さ回避 「堀栄造」とは異なります。


堀 栄三

Eizo Hori.jpeg

渾名
マッカーサー参謀

生誕
1913年10月16日
日本の旗 日本 奈良県 吉野郡西吉野村

死没
1995年6月5日(81歳没)

所属組織
大日本帝国陸軍
陸上自衛隊

軍歴
1934 - 1945(日本陸軍)
1954 - 1967(陸自)

最終階級
陸軍中佐(日本陸軍)
陸将補(陸自)

除隊後
1991年(平成3年)-1995年(平成7年) 奈良県吉野郡西吉野村長
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堀 栄三(ほり えいぞう、1913年(大正2年)10月16日 - 1995年(平成7年)6月5日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官。階級は陸軍中佐、陸将補。

正確な情報の収集とその分析という過程を軽視する大本営にあって、情報分析によって米軍の侵攻パターンを的確に予測したため、「マッカーサー参謀」とあだ名された。

戦中の山下奉文陸軍大将、そして戦後海外の戦史研究家にもその能力を高く評価されている。

参議院議員、国土交通大臣(2011年4月 - 2012年6月)の前田武志は堀の甥である[1]。


目次 [非表示]

1 陸軍軍人として
2 戦略の失敗を戦術や戦闘で逆転することは出来ない 2.1 航空戦が怪しい
2.2 台湾沖航空戦での戦果判定
2.3 第14方面軍情報部への配置転換
2.4 戦後

3 人柄
4 エピソード
5 著述物
6 脚注 6.1 注釈
6.2 出典

7 関連項目

陸軍軍人として[編集]

奈良県吉野郡西吉野村(現五條市)出身。伊藤祐一郎の子に生まれ、陸軍航空本部長・第1師団長や留守航空兵団司令官を務めた堀丈夫陸軍中将の養子となる。

明倫中学から1927年(昭和2年)4月、東京陸軍幼年学校に入り、1930年(昭和5年)3月から陸軍士官学校に進む。

なお、この陸軍士官学校時代に、上海戦の陣地突破のケーススタディーより物量の前には精神主義が役に立たないという教訓を得、後の情報分析の基本的な考えとなった[2]。

1934年(昭和9年)6月卒業(士官候補生46期)。同年10月に騎兵少尉に任官。騎兵第26連隊に配属された堀は、1936年(昭和11年)10月に騎兵中尉に進級し、1937年(昭和12年)3月に騎兵第16連隊に移る。

同年11月から陸軍騎兵学校丙種学生として学んだ後、1938年(昭和13年)3月から陸軍予科士官学校教官を務め、同7月に騎兵大尉に進級。

1940年(昭和15年)12月に陸軍大学校に入り、1942年(昭和17年)11月卒業(陸大56期)。なお、同年(1942年)8月、陸大在学中に少佐進級。同年12月から陸軍戦車学校に勤務。

1943年(昭和18年)4月から陸軍士官学校戦術教官。同年10月1日から大本営陸軍部第2部参謀として、大本営に勤務。

ドイツ課とソ連課を経て(それぞれの課では両極端な分析方法を採用しており、それが後の分析手法に役立ったとの記録を残している)、アメリカ課に勤務。

そこで、アメリカ軍戦法の研究に取り組み、その上陸作戦行動を科学的に分析して1944年(昭和19年)6月に『敵軍戦法早わかり』を完成させ、米軍への水際での突撃や夜間の銃剣突撃は自滅するので行わないようにという内容を伝達した。(内容自体の伝達は、同年3月16日から始めている。)

戦略の失敗を戦術や戦闘で逆転することは出来ない[編集]

『敵軍早わかり』を最初に伝達し、ペリリュー島の戦いにおいて、米軍2個師団を相手に1個連隊を基幹とする約5千名で、2ヶ月以上奮戦した中川州男がいた。

寡勢の上に制空制海権は米軍にあるなか中川大佐以下水戸健児の戦いぶりは世界を震撼させた。

堀は、中川連隊やその他の諸処のの戦場での勇戦奮闘と殉国の精神を讃える一方、戦略の失敗を戦術や戦闘でひっくり返すことは出来なかったと述べている。

太平洋という戦場の特性を情報の視点から究明し、戦争の10年以上も前に「軍の主兵は航空なり」「鉄量にもって鉄量をもってする」という戦略を提唱していた。

堀は、著書で『国破れ企業破れて反省しても遅い、敗れ去る前に自ら襟を正すべきであるが、その中でも情報を重視し、正確な情報的視点から物事の深層を見つめて、施策を立てることが緊要となってくる。』と述べている[3]。

なお、この『敵軍戦法早わかり』が伝達されるまでは、中国戦線での戦訓に基づいて米軍との戦いを行っており、士気が非常に低く突撃によって逃げ出す相手に対する戦い方をとる事で日本軍の損害が非常に増えていた側面もある。

この資料の完成後は、硫黄島の戦い及び沖縄戦に代表されるように米軍の被害は増加することになる。なお、サイパンの戦いには内容の教授に間に合わなかったと記録に残している[4]。

なお、『敵軍戦法早わかり』以降、大本営内部で意見の調整が行われ、各師団に軍事作戦(戦略)を説明するときに同時に現地情勢及び相手の戦闘方法の情報についても伝達するように切り替わった[5]。

航空戦が怪しい[編集]

『敵軍戦法早わかり』完成の約1年前。堀を中心とする米軍戦法研究グループは、各種の統計を取っているうち昭和18年11月5日~17日にわたって行われたブーゲンビル島沖航空戦と、11月21日から29日にわって行われたギルバード沖海軍航空戦の戦果に注目していた。

大本営海軍部の発表を総計すると、米海軍の艦隊はすべて撃沈されたことになっていた。

しかし実際には、一隻もいなくなったはずの米海軍の反撃はかえってピッチを上げ、奇襲から強襲に変わっていった。

堀たちのグループが抱いた疑問の第一が、なぜゼロになった米海軍が大艦砲射撃を強行できるかということであった。

「第一線の航空部隊では、各飛行機の報告をどのように審査しているのだろうか?」

これを調べなければ正確なことはわからない。この疑問が後の台湾沖航空戦の戦果の判定に繋がっていく。

台湾沖航空戦での戦果判定[編集]

1944年(昭和19年)10月13日、『敵軍戦法早わかり』の内容を前線部隊であるフィリピンの第14方面軍に知らせるため、汽車で新田原飛行場に移動したが、折りしも台湾沖航空戦が発生しており、汽車の中でも乗客達はその大戦果の話で持ちきりであった。

新田原では空襲警報が発令されいていることを理由に便乗を断られたが、堀はいままでの戦法研究で疑問が払拭できなかった航空戦を直に確認するため、参謀の威令を発揮し、九州鹿屋の海軍飛行場まで連絡機で移動した。

鹿屋の海軍飛行場脇の大型ピストの前では、大勢の兵士が慌ただしく行き来し数人の幕僚達に戦果を報告していた。

黒板には戦果が次々と書き込まれ、報告のたびに歓声が上がった。

戦法研究中から堀の脳裏を離れなかった「航空戦が怪しい」と考えていたものが目の前で展開されていた。

堀は、戦果の報告を終え、ピストから出てきたパイロット達に矢継ぎ早に質問をした。

「どうして撃沈とわかった?」

「どうしてアリゾナとわかった?」

「アリゾナはどんな艦型をしていた?」

「どうして自分の爆弾でやったと確信していえるのか?」

「戦果確認機のパイロットは誰だ?」

堀の質問にパイロット達の答えがだんだん怪しくなってくる。

米軍研究の結果、米軍艦の識別は頭の中にたたき込まれていたため、堀にはパイロットたちの返事の曖昧さがよくわかった。

『戦果はこんなに大きくない。誰がこの戦果を確認してきたのだ。

誰がこれを審査しているのだ。やはりこれが幻の戦果の実体だったのだ。』堀はそう直感した。ブーゲンビル沖航空戦では、後になってみると大本営発表の十分の一にも足りない戦果だった。

堀は、10月13日19時、大本営陸軍部第二部長(堀の所属長)宛に「この成果は信用出来ない。いかに多くても2、3隻、それも航空母艦かどうかも疑問」と緊急電報を打った[6]。

後年の堀は

「堀が大本営陸軍部第二部長に打った緊急電報を、大本営陸軍部では承知していたと想像されるが、これが握り潰されたと判明するのは戦後の1958年(昭和33年)夏だから、不思議この上ないことである。

しかし大本営陸軍部の中のある一部に、今(1989年(平成元年))もって誰も覗いていない密室のような奥の院があったやに想像される」
と記している[7]。

保坂正康は、この緊急電報が、当時、大本営の作戦参謀であった瀬島龍三によって握り潰された可能性を指摘している[8]。

真相は不明だが、現在もこの電報の現物が行方不明なのは事実である。

ただし、当該電報の後(15日20時)に堀が打った“特緊(特別緊急)電報”は現存している[9]。

15日、鹿屋からマニラへの移動中機体は台北飛行場上空を通過したが、堀は飛行場施設の損害を間近で確認し、上陸に先立って周辺地域の航空基地を念入りに叩く米軍の戦法に違いない旨確信を抱いた。

実際、米軍はレイテ島上陸を目的としたキングII作戦を3段階に区分し、第2段階まではそのような目的の空襲として計画していたのである。

台湾沖航空戦の大戦果発表を鵜呑みにした陸軍は、急遽作戦計画を変更し、レイテ決戦を行うことになる。

それはまさに地獄への引導のようものだった。その深層には、陸軍と海軍が双方とも何の連絡もなく勝手に戦果を発表していたため、陸軍は海軍の発表を鵜呑みにするしかないという日本最高統帥部の組織的欠陥があった。

堀は、10月15日にマニラに到着後、17日に南方総軍司令部第2課で台湾沖航空戦の戦果に再検討を加え、米軍の健在な空母を12隻と計算し、第14方面軍司令官の山下奉文大将、参謀副長の西村敏雄少将に報告した。

報告時、折りしも米軍艦載機によるマニラ空襲が行われており、山下大将と西村少将は堀の報告を信じた[10]。

同月19日には、憲兵隊から、撃墜した米軍艦載機のパイロットを尋問した結果、ルソン島を空襲中の米軍正規空母が12隻であること、その艦名が全て判明したことが報じられた。

大本営海軍部(陸軍部にあらず)の発表した台湾沖航空戦の戦果は全くの誤りで、堀が大本営陸軍部第二部長に打電し、山下大将に説明した通りであったことが明らかになった[11]。

次に述べる第14方面軍時代もそうだったが、結果として堀の予想は正確であることが多かった。

しかし、世の中には堀がどうしてそのような正確な予想が出来たのか、著述物だけでは納得しない研究者がいる。

戦史叢書の編纂経験がある近藤新治[注釈 1]は奈良県の堀宅を訪ね、この点について突っ込んだ質問を行い[注釈 2]、次のような答えを得た。

堀さんがなぜ当てたんだろうという疑問を持ちまして、ところが 『回想録』 なんかには全然そういうものは載ってないんですね。

(中略)それでインタビューでずばりいったんです。どうしてあれだけの的確性というか、正確性が出たんですかといったら、堀さんは、そんなことはわけないことなんだというんです。

十四方面軍の情報部に下士官だけで十名ぐらいいて、将校が三名かな、毎日毎日、ともかく基礎的な情報をざーっと書かして、積み上げていった。

例えば台湾沖航空戦の戦果判定についても、すぐに堀さんは疑問を出すんです。

山下奉文と武藤章に対して、危ないですよという。

そんなことをおっしゃったのは、何を根拠にといったら、こういうことをいっていました。

直後の空襲で捕まえた各米軍のパイロットの尋問をして、発艦した母艦名を尋問をして並べてみたら、全部そろったというわけですね[注釈 3]。

これはおかしいじゃないか。ピンピンしているじゃないかということで(中略)果たして、マッカーサーの回し者ではなかったんで、まさに正攻法でやった方でございましたね。

— 近藤新治「太平洋戦史研究部会第二回セッション コースト・ウォッチャーズ」『太平洋学会誌』1987年(昭和62年)1月、20頁

第14方面軍情報部への配置転換[編集]

10月27日から第14方面軍作戦参謀、1945年(昭和20年)2月1日からは再び大本営陸軍部第2部第6課(米国班)参謀を歴任し、終戦後の9月に陸軍省軍務局課員、10月に予備役編入(最終階級は陸軍中佐)。郷里の奈良県吉野郡西吉野村に帰り、健在であった父の堀丈夫中将と共に農耕に従事。

戦後[編集]

戦後、1954年(昭和29年)に陸上自衛隊に入隊。吉田茂首相の軍事ブレーンとして、自衛隊の創設に大きな力を有した辰巳栄一陸軍中将の「情報の分野で働くように」という勧めに応じたものだった。

[12]陸上幕僚監部第二部国外班長に就任、1959年(昭和34年)10月24日から初代駐西ドイツ大使館防衛駐在官(駐在武官に相当)に就任し、キューバ危機をヨーロッパで体験した。

ラインの軍需物資輸送の情勢判断から米ソ開戦せずとの判断を東京に逸早く打電した。1963年(昭和38年)10月末には統合幕僚会議第二室(防衛省情報本部の前身)室長に就任する。

防衛庁内の雰囲気に納得できず、1967年(昭和42年)3月、陸将補で退官。

1974年(昭和49年)から大阪学院大学ドイツ語講師となる。

1991年(平成3年)4月から郷里の西吉野村の村長を務め、名産吉野柿の普及に力を入れた。二期目在職中の1995年(平成7年)6月5日、ガンのために死去、享年82。

人柄[編集]

戦後の堀は、陸上自衛隊を陸将補で退官した後、郷里の奈良県吉野郡西吉野村に戻り、大阪の大学でドイツ語を講じ、戦争中のことについては一切口にしなかった。

堀が回想録 『大本営参謀の情報戦記』 を公刊する直接的な動機となったのは、1986年(昭和61年)に、ある雑誌の座談会(堀は出席せず)で「台湾沖航空戦の過大戦果を戒めた堀の電報を、大本営陸軍部作戦課が握り潰したからだ」と発言したのがきっかけに堀が戦時中に携わった情報の仕事への各方面の注目が高まり、日本の敗因を情報の見地から解明しては、と勧めを受けたためである[13]。

1984年(昭和59年)春から、戦史研究家の保阪正康が堀への取材活動を始めたことも影響した[14]。従って太平洋戦争(大東亜戦争)の回想録としては遅い1989年(平成元年)に上梓されている。

なお、保阪が堀に最初に取材を申し込んだ所、堀から面会を断る手紙を受け取ったが、保阪は逆に取材意欲を燃やしてアポなしで堀宅を訪問した。

その後、保阪が何度も訪問を重ねてから堀はようやく口を開き、信頼関係が出来てからは奈良や東京でしばしば会うようになった[14]。

ただし、堀は、同じ陸軍出身者の近藤が取材した際には快く会っている。

エピソード[編集]

情報分析では評価の高い堀であるが、陸軍大学校卒業後は大本営陸軍部第1部作戦課への配属を希望していた。

しかし、当時作戦課へは陸大の成績で5番以内の『恩賜組』でないと配属されない不文律があり、卒業時の成績が6番であった堀は第2部(情報)への配属となった[15]。

1960年(昭和35年)冬に、西ドイツのカールスルーエにある戦車工場を、駐在武官団(共産圏以外)の一員として視察することになった。

それと符合するように「日本で戦車を作っている会社」の技師たちが西ドイツに来て堀の私宅を訪れ「日本の防衛庁(当時)から、ドイツの戦車を参考にして、日本の新戦車を作る課題を出されているが、ドイツの戦車を見る機会がない。

(堀が)ドイツの戦車の特定部分の寸法を正確に測ってくれれば、あとは自然に全部分るのでよろしく頼む」と依頼された。

堀は、自分の指、携行する消しゴムつき鉛筆の各部分の寸法を精密に測定して寸法を測る準備をした。

工場見学の日、堀は、用意していた鉛筆を使って「特定部分」の寸法を一瞬で測り、大使館で待機していた技師たちにその情報を伝え、たいへん感謝された[16]。

奈良県吉野郡西吉野村和田(現:五條市)の堀家は、松本清張・樋口清行『奈良の旅』 光文社カッパ・ビブリア、1966年(昭和41年)、154頁で「吉野郡西吉野村和田にある、後村上天皇の賀名生行在所といわれる堀栄三氏宅も、足利時代初期に近い構造を一部残している」と紹介されている。

「堀家住宅(奈良県吉野郡西吉野村)」として、堀の生前の1979年(昭和54年)5月21日に重要文化財に指定されている[17]。2012年(平成24年)現在も保存されている。賀名生#歴史参照。



堀家住宅(賀名生行宮跡)
著述物[編集]
『悲劇の山下兵団』 1946年(昭和21年)にある出版社向けに執筆した[18]。原稿用紙に換算して400枚程度[注釈 4]。

父の堀丈夫中将に「負けた戦を得意になって書いて銭をもらうな」と叱責され、未発表のまま堀の手元で保存されていた[18]。

この原稿が手直しされて、1989年(平成元年)に 『大本営参謀の情報戦記』 として上梓された[21]。

『堀回想録』 近藤新治が1987年(昭和62年)に言及している。防衛研究所戦史部でも保有している。

『大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇』 (文藝春秋、1989年(平成元年) ISBN 4-16-343630-8
(文春文庫、1996年(平成8年) ISBN 4-16-727402-7


日本軍1万 vs アメリカ軍5万——ペリリューの戦いを指揮した中川州男に学ぶ将のあり方

2020-05-26 23:17:02 | 日記
日本軍1万 vs アメリカ軍5万——ペリリューの戦いを指揮した中川

2019年02月19日


日本の危機を救った21人の偉人たちの生き方を、知の巨人が紐解いた人物伝『忘れてはならない日本の偉人たち』(渡部昇一著/弊社刊)。

本日は本書からペリリュ―島の激戦を戦い抜いた名将・中川州男のエピソードをご紹介いたします。


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日本軍1万vsアメリカ軍5万


2015(平成27)年4月、天皇皇后両陛下が大東亜戦争の激戦地の一つ、パラオ共和国のペリリュー島を訪れ、英霊たちを慰められたことは記憶に新しいと思います。


ペリリューの戦いは日本兵1万人が米兵5万人を迎え打ち、その戦況は熾烈(しれつ)を極めました。

島の規模は小さく、米国の海兵連隊は圧倒的な兵力で、当初2~3日間で決着をつけるつもりでいました。

しかし、日本軍は実にここで72日もの間、必死に戦い抜いたのです。

日本軍守備隊長を務めたのは、中川州男(くにお)という陸軍大佐でした。結果的に見れば日本軍は玉砕、中川も自刃したとはいえ、2か月以上に及ぶ戦闘に耐え抜き、敵軍を著しく消耗させたのは、この中川の卓越したリーダーシップによるものでした。

今回は日本人にはほとんど知られていない、この中川州男という名将にスポットを当ててみたいと思います。

中川州男は1898(明治31)年に熊本で生まれました。

陸軍士官学校を卒業し陸軍歩兵少尉に任官の後は、歩兵第48連隊中隊長などを歴任。

1937(昭和12)年盧溝橋事件が勃発、シナ軍との全面戦争に突入すると、中川は野戦指揮官として手腕を発揮し、その功績によって陸軍大学校に学び、陸軍大佐へと昇進します。

歩兵第2連隊長となった中川は、連隊に所属する第14連隊が満洲から日本の統治下にあったパラオ諸島に配属されたのに伴い、ペリリュー島守備隊長に就任することになります。

想定外の現実に対し中川はどう立ち向かったか

米軍がペリリュー島へと上陸作戦を開始したのは、その翌年の1944(同19)年9月のことでした。

中川は陸軍大佐です。

島での戦いに的を絞って訓練を重ねた米国の海兵連隊とまともに交戦すれば勝ち目がないことを知っていました。

驚くべきことですが、それまでの日本軍には島での交戦を想定した戦略や戦術の蓄積は全くありませんでした。

同年、日本の生命線であるサイパン島が陥落し、日本本土が米軍の攻撃の照準に入るまで、日本軍には島嶼(とうしょ)戦という発想がなかったのです。



大東亜戦争まで、日本陸軍の一貫した敵国はソ連であり、太平洋でアメリカと一戦を交えるといった発想自体がそもそもありませんでした。

中川は熟考を重ねて戦略を練り上げていきました。

実は、中川は満洲からパラオに配置換えになった時、大連の港を出発する直前、参謀本部で島嶼戦について一人で研究していた堀栄三の話を聞き、それを詳細にメモしていました。

そこで中川が初めて耳にしたのが艦砲射撃という概念でした。

米軍の軍艦の大砲は、陸軍のそれとは全く比較にならないほど強烈な破壊力がありました。

軍艦一隻の大砲は、陸軍の兵力の5個師団にも相当し、その威力は厚さ2メートル以下のコンクリートはたちまち吹き飛ばされてしまうというのです。

パラオに移る直前に知らされたこの現実は、中川にとっては衝撃だったに違いありません。

事実、米軍はペリリュー島に軍艦を寄せ、中川隊の5倍の先鋭部隊を投入してきました。力の差は歴然でした。

では、中川はどのようにしてこれに対峙したのでしょうか。

中川がまずやったのは、音を立てずに米軍の上陸をじっと待ち構えることでした。

米兵の多くが上陸してしまえば、米軍は下手に艦砲射撃はできないと読んだのです。

この読みは当たりました。

戦闘に当たって中川は500以上ともいわれる島内の洞窟に坑道を掘って島全体を要塞化していました。

そして米軍の上陸とともに徹底したゲリラ戦法を展開したのです。


硫黄島の戦いに引き継がれたペリリューのゲリラ戦法


この戦いによって日本軍は僅か1連隊にして、米軍の海兵連隊や陸軍歩兵師団に大打撃を与え、交替を余儀なくさせました。

これは特筆に値することです。兵隊の決死の努力は言うに及ばず、しっかりした指揮官がいなければ、ここまでの戦いはできなかったでしょう。

中川が主導したゲリラ戦法は硫黄島の戦いにも応用されることになります。

ペリリューの戦いの時、私は中学2年でしたが、新聞やラジオで毎日のように、その激戦ぶりを報道していたことを思い出します。

天皇陛下も島の兵士たちをいたく気遣われ、軍事面での特別の功労があった兵士たちに贈られる嘉賞(かしょう)を中川隊に11回も出されています。

実際に兵士たちに届いたのは2回まででしたが、生還者の話では、この嘉賞は兵士たちを大いに奮い立たせたようです。

陛下が見守ってくださっていると思えば、千人力、万人力を得た思いだったことでしょう。

大東亜戦争が終結した後も、34名の兵士たちが2年間洞窟内で生き延びました。

アメリカ軍が残した食糧で食い繋ぎ、米軍兵士の鉄砲を手にしてゲリラ戦を続けていたことも日本軍の精神力を物語るものです。


与えられた条件をすべて生かして戦い抜いた陸軍の名将


このペリリューの戦いをとおして、私たちは当時日本軍が抱えていた様々な問題点を知ることができます。

島嶼戦を続けるための海兵隊を組織しなかったこともそうでしょう。

サイパン島が陥落するまで島の守りに無頓着だったことが、日本を敗戦に追い込む引き金となりました。

大正時代から準備していたアメリカとの差が大きかったのです。

だが、一方でそういう負の一面に立ち向かった将がいた事実を忘れてはいけません。

中川はまさにそういう人でした。中川は人一倍の胆力の持ち主だっただけではありません。

戦いに臨むに当たっては徹底して戦略や戦術を練り上げ、僅かの期間に準備をしたのです。

そして現に兵数、物量ともに劣る絶対的に不利な条件にも関わらず、敵が予想しなかった驚くべき互角の戦いを展開したのです。

そこに、将として本来あるべき姿を見るのは私だけではないでしょう。


(本記事は弊社刊『忘れてはならない日本の偉人たち』〈渡部昇一・著〉から一部抜粋・編集したものです。

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『忘れてはならない日本の偉人たち』渡部昇一・著

定価=本体1,300円+税

◇渡部昇一(わたなべ・しょういち)
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昭和5年山形県生まれ。30年上智大学大学院西洋文化研究科修士課程修了。ドイツ・ミュンスター大学、イギリス・オックスフォード大学留学。平成13年から上智大学名誉教授。著書は専門書の他に『伊藤仁斎「童子問」に学ぶ』『日本の活力を取り戻す発想』『歴史の遺訓に学ぶ』など多数。最新刊に『渡部昇一一日一言』(いずれも致知出版社)。

発信者特定へ制度改正検討 総務相、ネット中傷問題

2020-05-26 21:24:00 | 日記
発信者特定へ制度改正検討 総務相、ネット中傷問題

社会・くらし

2020/5/26 12:49 (2020/5/26 15:08更新)



高市早苗総務相は26日の閣議後記者会見で、SNS(交流サイト)で誹謗(ひぼう)中傷を受けていた女子プロレスラーの木村花さん(22)が23日に死去したことに関し、インターネット上の発信者の特定を容易にし、悪意のある投稿を抑止するため制度改正を検討する意向を示した。

年内に改正案を取りまとめる方針で「スピード感を持って対応したい」と強調した。

木村さんはフジテレビで放送の人気リアリティー番組「テラスハウス」に出演していた。SNSで番組内での言動に対する非難を受け、自殺を図ったとみられる。

プロバイダー責任制限法は、ネット上に匿名で権利侵害情報が投稿された場合、接続事業者(プロバイダー)が削除などの措置を取れると規定。

被害者が発信者に損害賠償を求める上で、発信者関連の情報開示をプロバイダーに直接請求できることも定めている。

ただ、実際には「権利の侵害が明白でない」との理由から開示されないケースが大半で、訴訟手続きを経ると被害者負担が大きい点が課題となっている。

高市氏は「ネット上の誹謗中傷を抑止し、被害救済を図るには発信者の情報開示の手続きが適切に運用されることが必要だ」と指摘した。

4月に発足した総務省の有識者会議は現行制度の見直しに向けて議論。発信者関連の情報を拡充する案などが示されているが、「表現の自由」が損なわれると警戒する声もある。

一方、武田良太国家公安委員長は26日の閣議後記者会見で「インターネット上の誹謗中傷については、社会全体で多角的に議論すべき重要な課題だ。警察においてもさまざまな分野の方々と連携し、適切に対応していきたい」と述べた。

〔共同〕

韓国人、あと1カ月は日本に行けない…日本がビザなし入国停止を延長

2020-05-26 20:24:40 | 日記
韓国人、あと1カ月は日本に行けない…日本がビザなし入国停止を延長

日本政府が新型コロナウイルス感染防止のため実施している韓国人に対するビザなし入国制度効力停止がさらに1カ月間延長されることになった。

 NHKの報道や日本の法務省によると、日本政府は25日、韓国人が90日以内に日本にビザ(査証)なしで滞在できるようにする、いわゆる「ビザ免除入国制度」の効力停止を来月末まで延長することにしたとのことだ。



日本のビザなし入国制度効力停止は今年3月初めに始まり、その期限は90日後の今月末までの予定だったが、日本政府はこれを1カ月間延長したものだ。

日本政府はまた、韓国に滞在した後に日本に入国した人々に対して2週間ホテルなどに隔離し、公共交通機関を利用できないようにするなどの入国隔離措置も同様に1カ月間延長した。 

日本の安倍晋三首相は同日、日本国内の緊急事態宣言を解除する記者会見で、「国際的な人の往来を部分的、段階的に再開できるかについて、対象国、対象者、手続きを含めて慎重に検討して、その上で政府として適切なタイミングで総合的に判断をしていく考え」と、日本と相手国の状況に応じて、入国制限措置を段階的に解除することを明らかにした。

これに対して韓国外交部は

「日本側から入国制限措置を延長する予定だということを今日午後、外交ルートを通じて通知があり、外交ルートを通じて遺憾の意を伝えた」

「韓国政府は新型コロナウイルス感染拡大防止のための域内協力とは別に、日本の入国制限措置の速やかな解除を日本政府に引き続き促していくだろう」と述べた。

また、日本政府は、今回の効力停止と共に、当初100カ国・地域だった入国制限対象地域に、インドなど11カ国を追加することを明らかにした。
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2020/05/26/2020052680001.html



今の韓国は、新型コロナウイルスによる事態で内需低迷と輸出減少というダブルパンチに見舞われ、韓国の中小企業の雇用指標が最悪の状況にまで悪化している。

300人未満の企業の就業者数減少は47万6000人を上回った。

対面接触の割合が高い宿泊・飲食店業、教育サービス業などで雇用の悪化が深刻になった。だがこれに加え、中小企業のみならず大手外資系企業のリストラも進んでいるはず。

自国メディアは報じていないが、現実はさらに多くの雇用減となっているとみる。

文大統領は政府傘下企業で、雇用促進したが、給料は税金であるから、これは後に大きなツケとなるのは間違いない。

また公的新投入で維持した自国経済成長率は限界点となり、雇用維持すら難しい状況下に追い込まれている。

赤字受注の韓国造船業や航空業界に自国貢献度の高い現代自は特に悪化している。

世界企業から後れを取るほどに現代自は低迷するだけとなる。



日本のトヨタでさえ、前年同時期と比較し営業利益はマイナス80%減となる。と言う事を考慮すれば、韓国の大半の外資系企業は利益が出ない状態と考えれば尋常ではない。

ある程度ウイルス感染が終息した時点で、技術力があれば加速的に回復する可能性があるが、今の韓国外資系企業にその力は無い。

また日本企業とて莫大な内部留保金に助けられるとはいえ、低迷している企業は新型ウイルス感染での倒産連鎖が加速するだろうし、日本政府の対応策では心もとない。

日本でさ大変なのだが、更に大変なのか韓国の実態となる。

通貨危機にならない様に米国が600億ドルを優遇し、通貨危機にならないように抑え込まれるほどに、韓国は恐ろしいほど住みにくい国と化すが…。

手を上げるのは自国政府の判断となる。
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『韓国 行き過ぎた資本主義』というタイトルの新書(金敬哲著、講談社現代新書、11月20日発行)が抜群に面白い

2020-05-26 19:06:38 | 日記
『韓国 行き過ぎた資本主義』というタイトルの新書(金敬哲著、講談社現代新書、11月20日発行)が抜群に面白い。

韓国は子供、青年、中年、高齢者と「無限競争社会」に陥っており、そのことが韓国経済を疲弊させ、ダウンさせていると、客観的データや実例から論証している。著者は、ソウル在住の韓国人ジャーナリストだ。

この本を読むと、最近の韓国経済の悪化は、戦後の韓国社会を貫く恒常的問題によるものと、文在寅(ムン・ジェイン)政権の失政によるものが重なって起こっていることが分かる。

文在寅政権の出現は、韓国社会にとって「泣きっ面にハチ」のようなものだったというわけだ。

「悪夢」再来を覚悟すべき経済状況

この本を読んだ後、ある韓国政府の関係者に、韓国経済に関して話を聞いてみたら、衝撃的なことを告白した。

「まだ文在寅政権は決して口にしないが、今年のわが国のGDP成長率は、2%を切りそうだ。

リーマン・ショック後の過去10年ほどで最悪の事態だ。もしもこの状況が来年も続くなら、われわれは20世紀末の悪夢だった『IMF時代』が再現することを覚悟しなくてはならないだろう」


『韓国 行き過ぎた資本主義』(金敬哲著、講談社現代新書)© JBpress 提供『韓国 行き過ぎた資本主義』(金敬哲著、講談社現代新書)

「IMF時代」とは1997年末、アジア通貨危機に伴って、金泳三政権時代の末期に韓国経済が破綻し、IMF(国際通貨基金)の管轄に、国家財政が移管されたことを意味する。当時、韓国を訪問すると、街は閑散とし、北朝鮮とあまり変わらない光景が広がっていて、唖然とさせられたものだ。

そうした「悪夢」が、20数年ぶりに再来するかもしれないというのだ。

そう言えば、左派の文在寅政権は、金大中政権-廬武鉉政権の流れを汲んでいると思われがちだが、いろんな点で、むしろ金大中政権の前の政権、すなわち金泳三政権と似ていると感じる。

国内の経済政策はトンチンカンで、外交政策は強硬な反日を貫いているからだ。

一言で言うなら、「素人政権」なのである。

日本で言うなら、2009年から2012年までの民主党政権とソックリだ。

ヤバい経済統計

今週12月3日、韓国の中央銀行にあたる韓国銀行は、韓国経済の第3四半期(7月~9月)の主要統計を発表した。

ちょうど『韓国 行き過ぎた資本主義』を読んで唖然とした直後だったので、この日に韓国銀行が発表した61ページにわたる統計資料に、詳細に目を通してみた。

その結果、「これはヤバい」と再認識した。

2017年5月に発足した文在寅政権は、「所得主導成長」と呼ぶ経済政策に舵を切った。

これは、右派の李明博政権が取っていた「落水効果政策」とは、真逆の経済政策と言えるものだ。

「落水効果政策」とは、主に韓国国内の「30大財閥」を、政府が手厚く補助し、富ませていく。

そうすることによって、上から下に水が流れ落ちるように、韓国経済全体が活性化していくというものだ。

それに対し、左派の文在寅政権が取ったのは、下から上に底上げしていく方式だった。

すなわち、まずは労働者の最低賃金を大幅にアップさせ、国民の所得を格上げする。

そうすると庶民の消費が増えるから、国家の税収も増えて、韓国経済が活性化していくという考え方だ。

だが文在寅政権は、2年間で約3割も最低賃金を増やした結果、賃金を払いきれない中小企業がバタバタと倒産していった。

その結果、韓国経済が不況に陥るという愚を犯してしまったのである。

その実態が、韓国銀行が公表した61ページの資料に、如実に表れていた。

まず「実質国内総生産と支出」では、「鉱工業成長率」が示されているが、そこには惨憺たるデータが並んでいた。

鉱業10.0%減、飲食料品5.6%減、繊維及び皮革製品9.9%減、木材、紙、印刷、複製3.0%減、コークス及び石油精製品5.1%減、化学物質及び化学製品1.0%減、非金属鉱物製品2.3%減、一次金属2.4%減、金属加工製品1.4%減、電気装備8.1%減、運送装備2.1%減、生活関連系5.3%減・・・。

続いて、「電気、ガス、水道事業の成長率」も、電気19.0%減、ガス0.9%減、水道3.2%減。「建設業」も、建物建設6.3%減、住居用5.7%減、非住居用6.9%減、土木建設7.3%減となっている。

サービス業の成長率は、宿泊及び飲食店0.3%減、情報通信2.9%減、事業サービス0.1%減、文化その他2.3%減・・・。

「総固定資本形成」の部門は、建設投資6.0%減、建物建設6.4%減、土木建設4.9%減、機械類投資2.6%減・・・。

「内需」は、文在寅政権が発足した2017年は3.9%増、翌2018年は1.2%増だったが、2019年第3四半期は0.7%減となった。

農林水産業も第3四半期は、5.2%減まで落ち込んでいる。

こうした結果、2017年のGDP成長率は3.2%だったが、翌2018年は2.7%となり、2019年は2.0%となる見込みだという。

だが、これだけあらゆる統計が「減、減、減・・・」となっているのだから、統計を操作でもしない限り、2.0%の経済成長率など不可能だろう。前述の韓国政府関係者の発言通りだ。

ASEAN首脳の前で面目丸つぶれの文大統領

文在寅政権は、こうした危機的な経済状況を打開しようと、11月25日、26日に、文在寅大統領のお膝元である釜山で、韓国ASEAN特別首脳会議を開催した。

そこでは、文在寅政権が、ASEANとの緊密な貿易関係をアピールする計43項目からなる共同声明を発表した。

『ファーウェイと米中5G戦争』(近藤大介著、講談社+α新書)© Japan Business Press Co., Ltd. 提供『ファーウェイと米中5G戦争』(近藤大介著、講談社+α新書)
 
だが、この一世一代の晴れ舞台のさなかに、韓国検察は、文在寅大統領の側近である柳在洙(ユ・ジェス)元釜山市経済担当副市長の緊急捜査に入り、釜山は騒然となった。

そして、韓国ASEAN特別首脳会議が閉幕した翌日の27日、収賄の疑いで、柳在洙元副市長を逮捕してしまった。文在寅大統領の面目は、丸潰れである。

12月16日には、日本と韓国の輸出管理に関する局長級の政策対話を、東京で行う予定だ。

これは韓国側が、11月22日に日韓GSOMIA(軍事秘密包括的保護協定)を破棄しなかったことによる合意事項だ。

前述のように韓国経済は、相当厳しい。そのため韓国側は日本に対して、早急に7月以前の状態に戻すことを求めてくるに違いない。日本側の対応が注目される。