日本と世界

世界の中の日本

掲載者の熱き思い

2021-01-21 17:19:41 | 日記

掲載者の熱き思い

日本の歴史教育の再考を

歴史教科書は日本の誕生から説き起こす。

邪馬台国がどこにあったかの如き論争は日本の将来を考える時、副次的論争である。

古代・中世・近世・江戸時代と時系列に説き起こすではなく、今、日本が直面する問題を真剣に若い人に説き起こすべきである。

開国を迫られた幕末・欧米列国の植民化から独立を保持するため苦闘した先覚者の苦闘。

大国ロシャと生存をかけた日露戦争。辛うじて勝利した日本の変質。

孫文の理想。日本と清が手を結びアジアの開放する理想から逸脱し欧米の帝国主義の仲間になった日本。

領土拡張・帝国主義国家として中国の領土の簒奪に変身 挙げ句の果ての無謀な戦争。数百万の兵士・国民の戦死・死亡。

昭和20年8月15日の敗戦、廃墟から復興に懸命な努力を教えることが歴史家の使命である。

歴史教育は幕末・明治から説き起こすべきである。

確かに昭和時代の昭和20年8月15日の敗戦を説き起こすことは過度の愛国心を刺激する恐れはあるが、栄光と悲惨・復興・日本を取り巻く現実を教える。

 

 

 

 


台湾駐米代表が正式出席 大統領就任式、断交後初

2021-01-21 17:10:00 | 日記

台湾駐米代表が正式出席 大統領就任式、断交後初

2021.1.21 14:36国際米州

 バイデン米新大統領の就任式が行われた連邦議会議事堂=20日、ワシントン(UPI=共同)その他の写真を見る(1/2枚)

  バイデン米新大統領の就任式が行われた連邦議会議事堂=20日、ワシントン(UPI=共同)

 

台湾の台北駐米経済文化代表処(駐米代表部に相当)の蕭美琴代表は20日、バイデン米大統領の就任式に出席した。

台湾メディアによると、正式な招待を受けての出席は米台が断交した1979年以来初めて。

 米国務長官に指名されたブリンケン氏は19日に対中強硬政策を維持する考えを表明。

台湾外交部(外務省)はブリンケン氏がこの中で「台湾が国際社会でより重要な役割を果たすことを望んでいる」と述べ、バイデン政権として台湾支持を継続していく方針を明確にしたとして、謝意を表明した。

 蕭氏はフェイスブックに「非常に光栄だ。民主主義と自由は台米の共通価値であり、経済の繁栄と地域の安定は台米の共通利益」と書き込み、関係強化への期待を表明した。(共同)


日本人秘書として8年間仕えてきた早川友久さんが明かす、李登輝元総統の「遺言」とは――?

2021-01-21 16:44:55 | 日記

日本人秘書として8年間仕えてきた早川友久さんが明かす、李登輝元総統の「遺言」とは――?

写真:代表撮影/ロイター/アフロ

 秋晴れ、というよりは真夏が戻ってきたかの陽気だった。

 9月19日、総統府が主催する李登輝総統の追悼礼拝が行われた。

 礼拝が行われたのは淡水にある真理大学キャンパスの大礼拝堂だった。淡水は台北市北部の河口に広がる街で、日本統治時代から現在に至るまで風光明媚な観光地として人気だ。

 なぜこの場所で追悼礼拝が行われたかには理由がある。

まず、李登輝も夫人の曾文恵も、この淡水の北にある三芝で生まれ育ったことだ。

生家である「源興居」は現在も保存され、土地の人々の手で守られている。

また、李登輝は中学時代をこの淡水の街で生活している。

淡水中学で学び、寮に入っていたからだ。

さらに、真理大学は李登輝の信仰と同じキリスト教長老教会系の大学で、大人数を収容できる礼拝堂を有しているということもあった。

これらの理由で、淡水が会場となったのである。

 また、それとは別に、ご家族の意向もあったようだ。

というのも、実は私も李登輝の口から聞いたことがあるが、人生を振り返ると一番楽しかったのは淡水中学の時代だった、というのだ。

 確かに、李登輝の人生をなぞれば、淡水中学を終えて台北高等学校へ進学したものの、時代は1940年代、戦争の足音が聞こえ始め、学校にも暗い影を落とし始めていたし、京都帝国大学では学業半ばで学徒兵に志願している。

戦後は国民党独裁下の白色テロが横行する時代、息をつく暇もなかっただろう。

台湾に「安心して夜眠れる」自由な社会がもたらされたのは、自身が総統として民主化を進めたからこそだった。

 そう考えると、李登輝の人生のなかで、もっとも安心して心から笑って過ごせたのがこの淡水中学の時代だったのはむべなるかなと思える。

だからこそ総統退任後に李登輝事務所や群策会(現在の李登輝基金会の前身)の事務所を、台北市中心部まで多少距離があるという不便さを知りつつも淡水に置いたのだし、そうした李登輝の気持ちを汲んだ家族の意向も大きく働いたのだろう。

 礼拝会場となった真理大学には李家と親しい人々や、蔡英文総統をはじめとする五院の院長、政府関係者、各界の名士、そして日本からは森喜朗元首相や米クラック国務次官、各国大使らが出席して執り行われた。隣接する淡江中学(李登輝が通った淡水中学の後身)には、パブリックビューイングが設けられ、一般の人たちも李登輝を偲べるようになっていた。

 実は追悼礼拝の前日にも、予行演習が行われていた。

李登輝が終のすみかとした故宮博物院裏手の翠山荘(李登輝邸の通称)から会場となる真理大学まで交通管制が敷かれた。

台湾では、総統経験者の乗る車列が通過する場合、信号はすべてコントロールされる。

だから李登輝が外出するときも赤信号で停まることはなかった。

この日の車列にも同じように交通管制が敷かれたが、違うのは、車上の人が李登輝の遺骨を抱いた孫娘と家族たちに変わったことだった。

式典の空気が一瞬にして変わったワケ

 礼拝当日、空は真夏のように澄みきり気温も高かった。

憲兵隊の白バイに先導された車列は、先に到着していた蔡英文総統らに出迎えられ、礼拝堂に到着した。

李登輝は身長が180センチ以上ある偉丈夫で、私が何か耳打ちしようとするとちょっと背伸びをするほどだったが、孫娘に抱かれた遺骨を見て、改めて「小さくなられてしまった」というのが実感だった。

 礼拝に先立ち、蔡英文総統から家族へ「褒揚令」が贈られた。

「褒揚令」とは、国家に対してとりわけ偉大な貢献があった人に授けられる、いわば勲章のようなものだ。

「褒揚令」を贈る理由として、6度にわたる憲法改正、動員戡乱時期臨時条款の廃止、万年国会の改選、総統直接選挙の実現、台湾の地位の確立、「静かな革命」と呼ばれる自由民主化の実現によって「民主化の父」と称賛された、などが述べられた。

 悲しみに包まれつつも、和やかな雰囲気で進んだ礼拝の式典の空気が変わったのは、司会が次のように告げたときだった。

 「日本の安倍晋三前首相から哀悼の言葉が届いております」

 つい2週間ほど前に、体調不良によって総理を辞任する会見を開いた安倍前首相は、追悼礼拝の2日前に、総理を退任していた。

安倍前首相からの哀悼の言葉が、交流協会台北事務所の泉裕泰代表(駐台湾大使に相当)によって代読され始めると、一種の引き締まったような、ピンとした空気が会場を包み込んだ。

 この空気の変化は、端的にいってしまえば「やはり李登輝はすごい」という感嘆だったのではないかと思う。

つい2日前まで日本の現職総理だった人物が、李登輝の追悼礼拝の式典にメッセージを寄せている。

ここでは、安倍前総理は、退任したからメッセージを贈れたのではないか、などという政治的な都合を穿って考えるのはよそう。

ともかくも、出席した人々は、李登輝の日本との結びつきの強さ、日本における存在の大きさを改めて感じ、あるいは改めて認識したのだろう、と思う。それほどまでに李登輝と日本の関係は特別だった。

 礼拝も終わりに近づき、李登輝の来し方を振り返るビデオが流された。そのビデオの最後に流されたのは、2012年に、蔡英文が初めて総統選挙に挑戦した投票日前夜の集会の模様だった。

 私もこの日のことはよく覚えている。

李登輝はそのわずか2カ月前に大腸がんの手術を受け、まだ静養中の身だった。

それでも李登輝が無理をしてまで登壇したのは、蔡英文をなんとか現職の馬英九に勝たせなければ、台湾の未来が奪われるからだった。

 このときの挑戦では、結局蔡英文は敗れたが、馬英九政権は過度に台湾を中国へ接近させる事態を招いた。

結果、2014年には「ひまわり学生運動」が勃発し、2016年の蔡英文政権誕生に繋がっていくのである。

 1月の雨もちらつく寒い夜だった。

李登輝は蔡英文の応援演説を終えたあと、もう一度司会者にマイクを要求する。そして絞り出すような声で訴えたのだった。

 「台灣要交給你們了!(台湾のことは皆さんにまかせましたよ!)」

 つい2カ月前に大手術をして静養中の、90近い老人の、文字通り絞り出すような声色だった。

 李登輝はいつも言っていた。

 台湾にとって日本はなくてはならないが、日本にとっても台湾はなくてはならないんだ、と。

だから「台湾のことはまかせた」という言葉は、日本人の私たちにも向けられた言葉だということを忘れてはならない。

 「台湾のことは皆さんにまかせましたよ!」

 この言葉こそ、李登輝の「遺言」だ。そして、この遺言を受け継いでいくことが、私と李登輝の約束なのである。

早川友久(李登輝 元台湾総統 秘書)
1977年栃木県足利市生まれで現在、台湾台北市在住。早稲田大学人間科学部卒業。大学卒業後は、金美齢事務所の秘書として活動。その後、台湾大学法律系(法学部)へ留学。台湾大学在学中に3度の李登輝訪日団スタッフを務めるなどして、メディア対応や撮影スタッフとして、李登輝チームの一員として活動。2012年より李登輝より指名を受け、李登輝総統事務所の秘書として働く。

「私は死んだのですか」運転手に聞いたタクシー客 震災と幽霊の深い関係

2021-01-21 16:23:27 | 日記

「私は死んだのですか」運転手に聞いたタクシー客 震災と幽霊の深い関係

2021-01-21 16:08:53 | 日記

「私は死んだのですか」運転手に聞いたタクシー客 震災と幽霊の深い関係

1/21(木) 11:42配信

被災地の幽霊体験を研究した金菱清・関西学院大教授=本人提供

東日本大震災で多くの人が突然、大切な人との別れを余儀なくされた。

幽霊、手紙、夢……。のこされた人たちと「死者とのつながり」を記録し続ける社会学者が見た、東日本大震災からの10年とは。

「災害はこちらから呼んで来るものではなく、向こうから突然来るもの。被災者と接するうちに、死者との関係性を置き去りにしたままでは震災を記録できないのではないかと考えるようになった」。

関西学院大の金菱清教授(45)はそう説明する。

1995年に阪神・淡路大震災を経験し、「強い印象が残っていたが、個人の身の丈にあった体験の記録が少ない」と感じていた。

2011年の東日本大震災では、東北学院大の准教授(14年から教授)として、「震災をしっかり記録におさめよう」と調査・研究に取り組んだ。

ゼミの学生とともにまとめた『呼び覚まされる霊性の震災学』は、幽霊の目撃談で注目を集めた。

学生が宮城県石巻市のタクシー運転手に幽霊現象について聞き取りを繰り返すと、こんな話があった。

震災から3カ月ほどたった初夏の深夜、石巻駅周辺で真冬のコートを着た30代ぐらいの女性が乗車してきた。

目的地をたずねると「南浜まで」と答えたので、「あそこはほとんど更地ですけど、かまいませんか」と聞くと、「私は死んだのですか」と震える声で話した。

驚いて後部座席を見ると、誰も座っていなかった。

他にも、8月なのに厚手のコートを着た20代ぐらいの男性客が、目的地に着いたときには姿がなかった話。

8月の深夜にコートにマフラーをした小学生の女の子が手を挙げて乗車、運転手は迷子だと思い、女の子が答えた家の場所まで送りとどけると、「ありがとう」と言って降りたとたんに姿を消した話。

そんな体験談が記されている。

こうした体験談には「思い込み」や「勘違い」とは言いきれない面がある。

タクシーは人を乗せて走り出した時点でメーターを「実車」や「割増」に切りかえるため、乗せた「幽霊」は無賃乗車扱いになって運転手自ら肩代わりしており、記録が残っているという。

この本が新聞や雑誌で紹介されると、多くの反響を呼んだ。

金菱さんは「幽霊の目撃談が科学的な調査の対象になるとは思っていたが、記事が出た後も非科学的といった批判はほとんどなく、学問としての共感が大きかった」と振り返る。


カリフォルニア州ロサンゼルス出身の詩人アマンダ・ゴーマン氏(22)が詩を朗読した。

2021-01-21 15:22:16 | 日記

米ワシントンで20日に行われたジョー・バイデン氏の大統領就任式で、カリフォルニア州ロサンゼルス出身の詩人アマンダ・ゴーマン氏(22)が詩を朗読した。大統領就任式に招かれた詩人としては史上最年少。

ゴーマン氏は、就任式のために書き起こした自作の詩「The Hill We Climb」(私たちが登る丘)を約5分半にわたって朗読した。この動画ではその一部を紹介する。

就任式に先立ち、ゴーマン氏は「自分の言葉を使って団結や協力、一体感」を表現したかったと、BBC番組「ニューズアワー」で語った。

ゴーマン氏は19歳の時にアメリカ初の青年桂冠詩人に選ばれた。