日本と世界

世界の中の日本

日本は「まことに小さな国」か?

2021-01-26 18:30:58 | 日記

国際派日本人養成講

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2021年01月17日

No.1199 日本は「まことに小さな国」か?

The Globe Now 中国:政治 同盟


「まことに小さな国」という歪んだ自己認識を改めて、自由を求める諸国との連帯に立ち上がるべき時。

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■1.「日本の皆さん、自由を持つている皆さんがどれくらい幸せなのかをわかってほしい」

 香港の民主化運動リーダーの1人アグネス・チョウ(周庭)さんは、香港国家安全維持法違反で10か月の実刑を言い渡されました。アグネスさんは、同法が成立する直前、ツイッターでこう語っていました。

__________
香港で自由や民主主義のために戦う人たちは、自由や命を失うことも考えないといけないということが、本当に悲しい。私も、たくさんの夢を持っているのに、こんな不自由で不公平な社会で生き、夢を語る資格すらないのか。これからの私は、どうなるのか...

いつかまた日本に行きたいなぁ。
- Agnes Chow 周庭 (@chowtingagnes) June 27, 2020
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 翌日の発信はこうでした。

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今日の香港での報道によると、香港版国家安全法は火曜日(30日)に可決される可能性が高い、そして「国家分裂罪」と「政権転覆罪」の最高刑罰は無期懲役という。日本の皆さん、自由を持つている皆さんがどれくらい幸せなのかをわかってほしい。本当にわかってほしい…
- Agnes Chow 周庭 (@chowtingagnes) June 28, 2020
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 24歳の女性が自由と民主主義を求めるデモをしただけで、10か月も投獄される。「たくさんの夢を持っているのに」それらの夢が押しつぶされようとしています。「日本の皆さん、自由を持つている皆さんがどれくらい幸せなのかをわかってほしい」という叫びが、我々の胸に突き刺さります。




■2.「まことに小さな国が開花期を迎えようとしていた」

 しかし、こういう香港人を救おうと考える日本人は少ないでしょう。そういう事はアメリカのような大国がやるべきで、日本は小国として、せいぜいアメリカの後についていくだけだ、という自己認識が一般的だと思います。

 そんな小国意識をこの正月に、いやというほど見せつけられました。NHKがテレビシリーズ化した司馬遼太郎の『坂の上の雲』をオンデマンドで見たのですが、各回の冒頭、「まことに小さな国が開花期を迎えようとしていた」というナレーションが流れるのです。これは歴史歪曲ではないか、と毎回、ひっかかりを覚えました。

 司馬遼太郎が『坂の上の雲』などの小説で明治の先人たちの生き様をいきいきと描いたのは、それまでの自虐的歴史観を修正したという点では大きな功績ですが、このメッセージには、さらに深い自虐的な自画像が込められているのです。

 このナレーションを当然と受けとめるは、日本を「世界の片隅の小さな変わった国」と思っているのではないでしょうか? そして、そう思い込んでいる限り、アグネスさんには同情しつつも、日本は何もできない、と思い込んでしまうでしょう。

 アメリカ国内が大統領選で真っ二つになり、次の大統領は中国との裏のつながりが噂されているバイデン。日本は主体的に自由を求める諸国と連帯しながらやっていかなければなりません。そんな時に、この小国意識は大きな障害となります。


■3.鎖国をといてわずか50年で「世界一流の海軍国」

 そもそも幕末の時点で、日本は本当に「まことに小さな国」だったのでしょうか? 人口で見てみれば、幕末時点で日本は3200万人。黒船艦隊を送ってきた当時のアメリカは2350万人で、日本はその1.4倍です。イギリスに至っては1800万人で、日本は1.8倍。

「人口が多くても、鎖国が続いて世界の進歩から取りのこされた国だった」という歴史認識もありますが、技術力の差の実態は、黒船来航の10年後の薩英戦争で見ることができます。イギリス艦隊が生麦事件の賠償金を払え、と薩摩藩に押し寄せた時の戦いです。

 イギリス艦隊は鹿児島湾に入り、戦艦7隻が最新鋭のアームストロング砲で城下を砲撃しました。薩摩側は旧式の大砲ですが、鹿児島湾内の10カ所の洋式台場から92門の砲で反撃しました。

 その結果、死傷者では英国側60余名、しかも旗艦の艦長、副長も戦死。1隻は自力航行できないほどの損傷を受け、友艦に曳航されて引き上げました。薩摩藩の犠牲者は戦闘員10名、市民9名ですから、犠牲者数から見れば薩摩藩の勝ちです。これが白人と黄色人種が最初に戦った近代戦です。[JOG(1099)]

 薩摩藩は名君・島津斉彬公以来、西洋技術の導入を積極的に推し進め、製鉄溶鉱炉を持ち、大砲や砲弾の製造も行っていました。こういう技術的蓄積が基盤となって、わずか半世紀後には日本海海戦でロシアのバルチック艦隊をほぼ全滅させるという偉業を成し遂げる事ができたのです。アメリカの新聞「ニューヨーク・サン」は次のように社説で述べています。

__________
 日本艦隊がロシア艦隊を潰滅したことは、海軍史のみならず世界史上例のない大偉業である。日本が鎖国をといたのはわずか50年前であり、海軍らしい海軍を持ってから10年にもたたぬのに、早くも世界一流の海軍国になった。
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 幕末時点では確かに世界の最先進国のイギリスには技術的に遅れをとっていましたが、戦争で完敗するほどの差ではありませんでした。その遅れも50年ほどで取り戻して、我が国は「世界一流の海軍国」にのし上がったのです。


■4.ヨーロッパを凌駕していた教育

 国力の基盤となる教育面ではどうでしょうか? 幕末に日本にやってきたプロイセン海軍のラインホルト・ヴェルナー艦長は、こう述べています。[JOG(997)]

__________
 日本では、召使い女がたがいに親しい友達に手紙を書くために、余暇を利用し、ボロをまとった肉体労働者でも、読み書きができることでわれわれを驚かす。民衆教育についてわれわれが観察したところによれば、読み書きが全然できない文盲は、全体の1%にすぎない。世界の他のどこの国が、自国についてこのようなことを主張できようか?
(ラインホルト・ヴェルナー『エルベ号艦長幕末記』)
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 教育の普及では欧米をはるかに凌駕する水準でした。このダントツの教育水準が、50年で「世界一流の海軍国」にのし上がる基盤となったのです。

 こうした教育面を見ても、世界の片隅の「まことに小さな変わった国」という自己認識は史実に違(たが)う、歪んだものです。いや「変わった国」というのは、良い意味で正しいかも知れません。なにせ19世紀中葉で、召使い女やボロをまとった肉体労働者が読み書きしている国など、世界にありませんでしたから。

 その後、経済発展を遂げた現代日本は、近年の停滞にもかかわらず国民総生産では世界第3位。軍事力5位。ノーベル賞受賞者数(21世紀、自然科学部門)2位という押しも押されぬ大国なのです。


■5.中国から世界を護る日本の責務

 そんな大国日本が直面すべき課題が、中国共産党の全体主義です。中国は近年、世界の覇権を握ろうという野望を隠さなくなっており、多くの発展途上国を「一帯一路」のプロジェクトに誘い込んで借金漬けにし、近隣諸国には軍事的圧力を加え、国内のチベット、ウイグルでは非人道的な弾圧を加えています。

 そのなかで、チェコのビストルチル上院議長が中国の怒りを承知で台湾を訪問したり[JOG(1183)]、オーストラリアのモリソン首相が新型コロナウイルスの調査を主張して、中国が同国からの牛肉輸入を停止したりしています。両国とも我が国よりもはるかに小さな国でありながら、中国を恐れずに筋を通している姿には感銘を受けます。

 日本の数分の1の大きさの国々がこれだけ真剣に奮闘しているのですから、日本は国力からいっても、中国共産党の全体主義から世界を守る、という課題に対して、リーダーシップをとる責務があります。しかし、「まことに小さな国」という歪んだ自己認識では、そういう気概は出てこないのです。


■6.フランケンシュタインを育ててしまった日本

 日本には中国から世界を護るべき特別の責務があります。中国を最初に国際社会に引き入れたのは、アメリカのニクソン大統領ですが、氏はかつて、世界を中国共産党に開くことで「フランケンシュタイン」を作り出してしまったのではないかと懸念している、と述べました。

 実は、このフランケンシュタインを育てたのには、アメリカ以上に日本に責任があるのです。1934年頃、中国共産党は蒋介石率いる国民党軍に敗れ、10万の兵力が数千人まで減って、滅亡寸前に追い込まれていました。それを助けたのが、日本軍と国民党軍を戦わせる、というソ連の戦略です。

 元朝日新聞記者でソ連のスパイだった尾崎秀實(ほつみ)が、日本国民に対中強攻策を煽って、泥沼の支那事変から抜け出せないようにしました。この時、せめて国民党軍と休戦していれば、蒋介石は中国共産党を滅ぼしていたでしょう。その蒋介石と日本は戦って、幼児だったフランケンシュタインを救ってしまったのです。[JOG(162)]

 その後、フランケンシュタインは蒋介石を追い出し、中国大陸を占拠しましたが、ニクソンが訪中すると、日中も負けじと国交回復を急ぎ、戦争中の「中国侵略」のおわびという意味合いで、総額3兆6千億円以上の経済援助をしました。[JOG(146)]

 日本国民一人あたり3万円ほどもつぎ込んで、経済発展を助けたのです。これで少年だったフランケンシュタインが青年に育ちました。

 さらにフランケンシュタインが残虐な本性を発揮して、天安門で数万人といわれる若者たちを虐殺し、世界から孤立していた時に、またしても中国共産党が目をつけたのが、日本でした。[JOG(162)]

 当時の日本は日中友好という甘言で、中国が経済発展すれば民主的になるだろうという甘い期待をマスコミや経済界が振りまき、対中投資などを再開しました。これでフランケンシュタインは完全に立ち直ってしまったのです。

 蒋介石軍との戦争、戦後の膨大な経済援助、天安門事件後の対中投資再開と、日本は3度も過ちを重ねました。日本の過ちがなければ、中国共産党は滅亡するか、少なくとも今日ほど強大にはなっていなかったでしょう。現在の国際社会にとってフランケンシュタインが手に負えないほどの怪物に育ててしまった最大の責任は日本にあります。その反省を我々はしなければなりません。


■7.結束こそ対中抑止成功のカギ

 怪物の押さえ込みの最大のポイントは、国内外の連帯です。トランプ政権で対中抑止の先頭に立っていたアメリカは、今回の大統領選の混乱で、国が真っ二つに割れています。欧州諸国は難民問題で、共同体としてのまとまりが崩れつつあります。中国にとっては笑いが止まらない状況でしょう。

 しかし、実は内部対立は中国共産党内でも同じで、習近平が汚職退治で多くの政敵を打倒する一方、対抗勢力も一帯一路プロジェクトの失敗、香港の強攻策で世界を敵に回した失政などで、習近平を突き上げているようです。

 100の力を持つ大国でも、60対40に仲間割れしていれば、出せる力はその差の20に過ぎません。30の力を持つ国でも勝つことができるのです。この点で、日本を含む自由主義諸国がいかに連帯するか、また日本国内でも中国の危険性について世論が結束する事が必要なのです。


■8.各国との連帯のための「和」の理想

 この連帯に関して、我が国は「和の国」としての伝統的理想で道を示すことができます。この理想を深めることによって、国内世論を結束させ、また諸国との連帯を強めることができるのです。

「和」の理想を大学生などに語ると、自分を殺して仲良くすること、というイメージを持っていて、それでは個性が圧殺される、自由にものが言えなくなる、などという反論が出てきます。

 しかし、これは「和」の理想を曲解した考えです。ラグビーで考えて見ましょう。スクラムを組む屈強なフォワード、全体の状況を瞬時に判断する司令塔、ボールを持って俊足でゴールを狙う選手等々、多様な個性と能力のある選手が連帯して、一つの戦略を目指すところにチームの強さが生まれます。

 チームの戦略は皆でよく議論して、それぞれが納得していなければなりません。試合が始まったら、その時々の状況で、各人がそれぞれの持ち場で自分が何をすべきなのか、自分で判断して行動する主体性が求められます。中央からの指令に従ってロボットのように動くのでは、瞬時に変化する状況には対応できません。

「和」の理想も同じことで、弊誌なりにまとめれば、「多様な個性と能力を持った国民一人ひとりがそれぞれの処を得て、自由・平等・主体的に連帯して共同体を支えていく」という生き方を理想としています。このような理想が、神武天皇の建国宣言、聖徳太子の17条憲法、さらには明治天皇の五カ条のご誓文などで、徐々に深められてきました。

 この理想は西洋の自由、人権、平等、民主という理想にも深い処で繋がっています。これらは人類共通の理想であって、西洋世界も我が国も、それぞれの歴史を通じてて深めてきたものです。世界の国々はそれぞれ独自の「根っこ」を持っていますが、深い処では繋がっているのです。

 人類が共有しているこれらの理想を踏みにじり、特権階級が富と権力を独占して自国民を搾取し、周辺民族を弾圧しているのが、中国共産党なのです。彼らから世界を守り、「いつかまた日本に行きたいなぁ」と願うアグネスさんが、我が国の青年たちと自由に夢を語り合う、そんな世界を目指す責務が我々にはあるのです。
(文責 伊勢雅臣)


■おたより

■日本は「自由」もタダだと思っている(Kimioさん)

 トランプさんが大統領の地位を諦めなければならない現実に、小生はハラハラしています。ナゼナラ、トランプさんの対中政策は、日本の安全保障に大きくかかわっているからです。

 ところが日本のマスゴミは、 日本の安全保障を維持するためには、「どういう対中態度」をとるべきかに関してまともな報道しようとはしません。

 ヒョットしたら「水と空気と安全、日本人はタダだと思っている」との名言を故山本七平さんは残しましたが、そんなMentalityを記者が持っているかもしれませんね。それにしても、周庭さんが置かれた状況を考察しますと、その三つの上に「自由」も加えるべきと思えます。


■伊勢雅臣より

 日本は「自由」もタダだと思っている、とは名言です。「日本の皆さん、自由を持つている皆さんがどれくらい幸せなのかをわかってほしい」という周庭さんの悲痛な叫びと通じています。

 古来から、美しい環境と、比較的安心のできる共同体に護られた日本人の「甘え」が感じられます。

■リンク■

・JOG(1196) 地政学で対中戦略を考える ~ 北野幸伯『日本の地政学』を読む
 地政学的に見れば、21世紀初頭の日中関係は20世紀初頭の英独関係にそっくり。台頭するドイツを英国はいかに抑えたのか?
http://blog.jog-net.jp/202012/article_3.html

・JOG(1183) なぜ中国はかくも傲慢なのか?
 そして、なぜこの国は「中国は一つ」「日中友好2千年」などと、虚妄のスローガンを叫び続けなければならないのか?
http://blog.jog-net.jp/202009/article_3.html

・JOG(1099) 薩英戦争 ~ 大英帝国を驚かせた和魂洋才
 軍艦7隻も送れば、薩摩藩も恐れをなして、すぐに生麦事件の賠償金を支払うだろうと、イギリス側は高をくくっていたが、、
http://blog.jog-net.jp/201902/article_1.html

・JOG(263) 尾崎秀實 ~ 日中和平を妨げたソ連の魔手
 日本と蒋介石政権が日中戦争で共倒れになれば、ソ・中・日の「赤い東亜共同体」が実現する!
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h14/jog263.html

・JOG(236) 日本海海戦
 世界海戦史上にのこる大勝利は、明治日本の近代化努力の到達点だった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h14/jog236.html

・JOG(162) 天安門の地獄絵
 天安門広場に集まって自由と民主化を要求する100万の群衆に人民解放軍が襲いかかった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h12/jog162.html

・JOG(146) 対中ODAの7不思議
 軍事力増強に使われ、民間ビジネスに転用され、それでいてまったく感謝されない不思議なODA
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog146.html


高度な平凡性から見る韓国疲れ(Korea Fatigue)

2021-01-26 18:06:12 | 日記
 

 日本と韓国の間には、消えない過去と歴史があります。本ブログの「日本はなぜアメリカと戦争したのか」というシリーズは、単にわが国の歴史を知るだけではなく、韓国をも含む周辺近隣諸国との関係を紐解くことにも些か役立つのではないかと存じます。しかし日本側の事情だけで捉えられないのが国際関係です。相手国の歴史や事情も知ることが必要になるからです。

先ずは歴史を大観すると、朝鮮半島に五百年続いた李氏朝鮮(1392-1897)は、大韓帝国(1897-1910)を経て日本統治の時代(1910-1945)となり、終戦によって連合軍軍政期(1945-1948)を迎え、冷戦構造のなか大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国に分裂(1948)して今日に至っています。

日本は李氏朝鮮とは朝鮮通信使などを介した交流を、主に14世紀から15世紀半ばまでと、江戸時代におこなってきました。日本側では室町時代の外交史書「善隣国宝記」を1470年に瑞渓周鳳が編集して、朝鮮との外交の歴史と外交上留意すべきことを書き残し、朝鮮側では通信使の書状官として日本を訪問した高名な領議政、申叔舟(シン・スクチュ)がその晩年の1475年、成宗に遺言として「願わくは、わが国は日本との和議を失うことのなきよう」と言い残したといいます。この言葉が示す両国の戦乱の歴史としては、古くは神功皇后による三韓征伐(三世紀)があり、唐に滅ぼされた百済復興救援のための白村江の戦い(七世紀)があり、有名な鎌倉時代の元寇:文永・弘安の役(十三世紀)を経て、豊臣秀吉による朝鮮征伐:文禄・慶長の役(十六世紀)がありました。特にこの戦乱は朝鮮半島に住む人々には大義名分のない侵略戦争として記憶されることになります。尤も元寇もその意味では同じなのですが。

その後、徳川幕府が天下を統一した江戸時代には1607年の第一回通信使から1811年の第12回通信使までが訪日しました。そして幕末維新を経て明治時代となっても1876年、1880年、1881年、1882年に朝鮮修信使が派遣され、明治天皇に拝謁したり外務卿と会見したりしています。維新以降の日本の近代化を見たこれらの人々の中から「開化派:独立党」と呼ばれる一派が台頭し、自主的に日本と結んで清からの独立と近代化(文明開化)を目ざそうとする金玉均・朴泳孝などの両班の青年官僚が慶應義塾関係者等の支援を受け、清と結ぶ守旧派の「事大党」や攘夷主義者と対立し、日本公使や少数の駐在日本陸軍将兵(150名)の助力にて、甲申政変(クーデター)を1884(明治17)年に起こしますが、決行直前に当時の井上馨外務卿が支援を取りやめ、宗主国として漢城(ソウル)に駐兵していた袁世凱の率いる清国軍(1300名)が軍事介入し、三日間で鎮圧されてしまいました。もしこの開化派の政権が維持できていたら、韓国の運命もまた変わっていたかもしれません。

これに先立つ幕末期の李氏朝鮮は、高宗の父君たる興宣大院君が朱子学に基づく「華夷秩序」を守るという基盤を更に発展させて反西洋・親中国の「衛正斥邪」という攘夷政策を執り、キリスト教布教を弾圧し(丙寅教獄:1866年)、フランス艦隊(丙寅洋擾:1866年)やアメリカ艦隊(辛未洋擾:1871年)とも戦い局地的な勝利を得たことで益々硬化し、開国や近代化を勧める日本に対しても「倭洋一体」とする西洋諸国との同一視のもとに、強硬な姿勢を崩しませんでした。西洋近代文明を否定・排斥して、鎖国政策による旧来の儒教的支配体制を堅持しようとした大院君からすれば、日本は夷狄に化したとして明治新政府の外交文書の受け取りを拒否し、これが日本国内では所謂「征韓論」論争から明治六(1873)年の政変となり、西郷隆盛や江藤新平、後藤象二郎、副島種臣、板垣退助などが下野して、後の西南戦争(明治十(1877)年)へとつながってゆくのです。

 その後の李氏朝鮮王朝では、大院君を失脚させた閔妃(高宗の后)が国の実権を握り、その時々に清国やロシアに接近してその力を背景にして対外的にも対内的にも乗り切ろうとするのですが、失政や汚職・腐敗も多く、閔妃自身は巫堂(ムダン)という呪術的宗教儀式に入れ込み国庫の六倍以上の国費を浪費したといいます。日本自身はこの時期、西洋列強の植民地化の危機意識に基づいて、尊王攘夷から明治維新を経て開国・近代化による富国強兵と殖産興業に必死に取り組み、特に海軍力の増強を図って国の独立を護ろうとしていたことと対比するに、李氏朝鮮王朝の攘夷政策は半ば理解できるところもあります。それは島国として地政学的に海洋に守られた独立性を国土が帯びていたわが国とは異なり、古来常に地続きの大陸からの侵攻に曝されてきた朝鮮半島という地政学的条件に置かれていたことから、冊封関係といういわば中国の属邦として「華夷秩序」によって国の生存を図ってきた李氏朝鮮としては、アヘン戦争に敗れたとはいえ、まだまだ大国であった宗主国の清国に頼ろうとすることも致し方のなかったことだと思われます。

 日本からすれば、李氏朝鮮が開国と近代化を推し進める近隣国として清国の冊封体制から脱却して独立してくれれば、英仏米などの西洋列強はもとより旧宗主国清国や南下政策を執る帝政ロシアによる朝鮮半島支配を避けることにより、日本自体の独立性を維持する地政学的基盤も強化されます。しかしもしこれに失敗して西洋列強による分割や、特にロシアによる属国化がなされると、日本の独立維持にとっても看過できない状況を招来することが強く懸念されたのです。この最も近隣国である朝鮮半島情勢がわが国の外交や安全保障にとって極めて重要であるという地政学的な位置付けは、現代でも全く変わらないのです。お隣さん宅が火事になるかどうかは、自宅にとっても重要な危機であることに変わりはないのです。このことが、日清戦争を経て、朝鮮半島への主な影響力を持つ外国が清国から帝政ロシアに移り、そしてわが国の存亡を賭けた日露戦争によりロシアが後退した後、日本が朝鮮半島への影響力を強めてゆく流れとなったことは、李氏朝鮮王朝そしてその後身たる大韓帝国とその臣民にとっては悲劇であると共に、少し厳しい見方をすれば、自国を存立させ独立を維持するだけの国家体制と国力や軍事力を涵養できず、清国や帝政ロシアという大国に頼ろうとした朝鮮半島末期政権の失策もあったと分析することができるのです。だから日韓併合も生じたのだとまでは言いませんが、むしろ日韓併合に反対していた伊藤博文を暗殺したことが皮肉なことに山縣有朋らの帝国陸軍閥の影響力を強め、日韓併合を促進してしまう結果にもつながっているのです。

 一方で、以前本ブログの「汎アジア主義と親中派の相克と矛盾」でご紹介した樽井藤吉の「大東合邦論」、即ち彼は「アジアの同盟をもって西欧侵略に対抗すべきであると説いた。そして、その第一歩として隣国韓国と合邦すべきであると言うのである。樽井の議論の中で最も注目すべきは、東洋の道義的文化に価値を認め、これを基底とするアジアの連帯によって西欧のアジア侵略に対抗しようとする点である。彼は、日韓合邦は両国とも完全に対等の立場で行わる(*ママ)べきであり、そのためには、両国とも日本、韓国の国号もすて、その名も大東国として完全平等な立場で連邦国家をつくるべき」という論が、明治18(1885)年に発表されています。

( https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12382555566.html )

これには日本の汎アジア主義者のみならず、当時大韓帝国にあって、李氏朝鮮時代からの両班(貴族階級)による果てし無い権力闘争や、賄賂や官職売買の横行、下層の民衆からの搾取や虐待など封建体制下の腐敗構造から脱却できないことに絶望した「開化派」の、日本に頼って国を改革するしかないと考えた「親日派」の朝鮮知識人たちも、この「大東合邦論」の思想には共鳴し希望を寄せたのです。しかし結果は理想的な対等の日韓合邦とはならず、現実的な国力比を反映した日本による併合がなされ、大韓帝国は消滅して大日本帝国の一部となってしまったのです。もっとも日本は、西洋列強がその植民地を一方的に搾取したのと全く同様のことを朝鮮半島で行ったわけではなく、特にインフラ整備などの資本を投下して近代化を押し進め、や白丁というの身分解放も行い、こうした下層の民衆をも含めた教育の機会均等も促進して識字率を向上させるなどの努力もしたのです。ただ、誇り高き民族である彼らからすれば、母国が消滅したという屈辱は「恨」として深く心の傷となって刻まれることになったのです。日本は大東亜戦争に敗北し、アメリカを中心とする連合国軍に全土を占領されましたが、幸い再独立を果たすことができました。しかしもし本土決戦を強行していたならば、ドイツや朝鮮半島のように東西で分断され、例えば西日本の一部はアメリカ合衆国ジャパン準州となり、東日本の一部はソ連の占領下で社会主義圏の日本人民民主共和国となっていたかもしれません。そうするとまさに母国が消滅する悲哀を味わうことになり、その場合には朝鮮半島の人々の気持ちも同じ立場としてわかることができたかもしれないのです。(因みに韓国の「恨(ハン)」については、当ブログの「韓国の『恨』と台湾の『徳』に想う」をご参照のこと)

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12389797396.html )

しかし、こうした民族的な悲哀には同情することもできますが、現在の韓国の政治姿勢には納得できないものがあることも事実です。そこで、本ブログで度々使用してきた「高度の平凡性」という分析の窓から、この問題を眺めて見ることにしましょう。

 明治期の朝鮮半島を巡る「地政学的」構図は、英仏米などの西洋列強の東アジア侵出のさなか、アヘン戦争に敗れた大清帝国は冊封体制で属邦としてきた李氏朝鮮を未だ離そうとせず、帝政ロシアはその南下政策により満洲から朝鮮半島までその触手を伸ばしてきていました。当時の日本としては、これらの諸外国のいずれの勢力によってでも、朝鮮半島を実質的に支配されることになれば、日本の独立とその維持にとっては極めて危険な状況が現出することになりました。朝鮮半島はまさに日本列島に直接向けられた匕首ともなり得るからです。一方で満洲を挟んで対峙する二大国、即ち東方征略を目論む帝政ロシアと、老いて傷ついたと雖も依然東洋最大の大国である大清帝国からしても、朝鮮半島は東アジアの政治的かつ軍事的要衝となり得る位置に存在しており、ここを握れば東西南北のいずれの方角に対しても睨みを利かせることが可能となります。ところが肝心の李氏朝鮮王朝は独立自尊には至らず従来通りの冊封体制に依拠して清国に縋って鎖国政策と封建体制の維持を図ろうとするかと思えば、国内の権力争い(興宣大院君と閔妃の争い)の次第によっては帝政ロシアに縋ろうともします。そして中には明治維新に習って日本に接近して開国と近代化を図ろうとする勢力も台頭して来て、国内的にも纏まらず内政の混乱が続きます。これではその影響を大きく受ける隣国日本としては不安でなりません。

 そして先ずは日清戦争に勝利して、清国の勢力を朝鮮半島から退けますが、露独仏の三国干渉により、帝政ロシアの勢力が満洲と朝鮮半島に及ぶようになります。そこで臥薪嘗胆して軍備を整え、国家の命運を賭けた日露戦争に勝利してようやく朝鮮半島と満洲から帝政ロシアの勢力を後退させることに成功したのです。例えば閔妃が帝政ロシアに売り払った李氏朝鮮の関税権を買い戻すことも行われたのです。しかし大韓帝国となっても依然国内改革や近代化が進まない朝鮮半島の状況に、大韓帝国内部の日韓合邦論者の推進や、第二次日英同盟(英)、ポーツマス条約(露)、桂・タフト協定(米)などにより、英米露の合意のもと大日本帝国は大韓帝国の支配権を承認され、保護国化から日韓併合へと進んだのです。これで日本は朝鮮半島からの直接的脅威をようやく完全に無くすことができたのです。その後さらに満洲で日露戦争により得た満洲鉄道の権利などを基に、満洲事変に向かって進んでゆくことになるのですが、朝鮮半島については、より直接的な安全保障上の要域としての意義が大きかったことに注目しなければならないのです。

 そしてこの朝鮮半島の持つ「地政学的構造」は、現代においても根本的には変わらない性質があるのです。もちろん明治とは状況は異なります。現代では、大韓民国と北朝鮮が朝鮮半島を二分しており、これを取り巻くアメリカ、ロシア、中国、そして日本があるわけです。このうち、中国は中国共産党一党独裁政権が支配しており、北朝鮮も同様の朝鮮労働党の一党独裁体制です。ロシアはソ連崩壊により体制は変わりましたが、現在は強力なプーチン大統領の長期政権下にあり、西欧の自由民主主義国とは些か異なる様相を見せている国です。そして現在はトランプ大統領が率いるアメリカ合衆国。日本はそのアメリカと同盟関係にあります。大韓民国もアメリカとは同盟関係にあるものの、近年THAAD(終末高高度防衛ミサイル)の韓国内配備を巡って、そのレーダーの探知距離(一千キロ)内に入る中国やロシアは反発を強めています。そこに登場した左派の文在寅大統領政権が、対北接近政策と反日的政策を展開しているというわけです。

 さてここで、地政学的に朝鮮半島が東アジアの要衝に位置しているという事実から、周辺の各国からすれば、この半島を政治的ないし軍事的に勢力圏下に収めたいという思惑が出てくることは当然であるとも言えましょう。北朝鮮はもとより、中国やロシアにとっても、朝鮮半島に米軍基地がありその軍事力が所在すること自体が脅威となります。一方で、もし米軍が朝鮮半島から撤退すればどうなるのか。それは大韓民国がどうなるのかにも密接に連関しているのですが、もし文在寅左派政権が民族感情と反日感情を梃子にして「南北統一」を図り、例えば朝鮮連邦(一国二制度)や朝鮮連合(EUのような二国参加型)などの成立を実現したとすれば、結果的に北朝鮮の軍事力・統制力がモノをいうことになり、統一した反日国家が朝鮮半島を支配することになり得るのです。昔から内政に問題があれば外敵を作って国内を纏めるという古典的政治手法は現代でもよく用いられています。体制の異なる南北が統一できるのは「反日」という民族感情を昂揚させ、それによって一つに纏まるという構図は十分考えられる手法なのです。中国共産党政権が近年採ってきた反日の姿勢も詰まる処、これと同様の政略的意図があるものと思われます。またロシアはソ連時代の北朝鮮建国の歴史からしても比較的に北朝鮮とのつながりが強く、実質上の主導権を北朝鮮が握ることによる影響力の向上と、米軍の朝鮮半島からの撤退により、東アジアでの軍事的優位性が増すというメリットがあります。

一方アメリカにとっては、韓国を失っても、日本という強力な同盟国が米軍の地政学的足場として、南は沖縄から九州、本州を経由して北海道まで、弓なりに存在しており、いわば日本列島はアメリカ本土にとっての有力なイージス(盾)となるわけですから、韓国に疲れ(Korea Fatigue)てきたアメリカとしては韓国は放棄し、日本に立て籠ればよいという発想が出てくるとしてもおかしくはないのです。しかし、日本にとっては全く異なります。今まで曲がりなりにも韓国という同じ自由民主主義体制の国が朝鮮半島南部に存在し、北朝鮮や中国、ロシアと対峙しているゆえに、直接的な政治的・軍事的圧力は幾分間接的なものとなって緩衝されていましたが、朝鮮半島南部の先端まで「反日国家」が支配するようになると、地政学的にはいわば喉元に匕首を突きつけられた恰好になるのです。このことを私たち日本国民は十分認識しなければなりません。感情的に嫌韓論で盛り上がることよりも、真に日本と日本国民のことを考えるのであれば、より脅威が増すのは一体どういう状況となることなのかを冷静冷徹に見抜くことが肝要なはずです。嫌いなら喧嘩すればいいというような子供じみた態度ではなく、もっと老成した大人の考えで、大局と本質を捉えなければならないのです。そのためには感情的には嫌いであっても、韓国内に親日勢力を増やす努力を地道にしなければならないのではないか、それが真の日本を想い憂う道ではないのか、少なくともある一定程度の民度を持つ誇り高き日本国民ならば一考すべき事柄ではないのか、そう思われてなりません。

 

そして少なくとも一般国民よりも、もっと重責を直接的に国民と国家に対して背負っているはずの国会議員の先生方は、より一層の智慧と深謀遠慮を働かせて貰いたいと思います。もちろんレーダー照射事件も許せないし、その再発防止は確約させなければならないし、国際法上も解決済みの徴用工問題や二国間で政治的に完全かつ不可逆的に解決したはずの慰安婦問題の蒸し返しなどは、国としての信義に悖るものとして絶対に許せません。しかし政治家の皆さんは、そうした一般国民の心情や感情をよく引き受けた上で、安易にその国民感情の背中に乗っかるのではなく、真の日本の国益のため、時としては国民からの感情的指弾・反発を受けても、こういう時こそ敢えて日韓の関係改善と友好親善に尽力するのが、国を想う真の勇者のなすべきことなのではありませんか。地政学的、すなわち国家戦略的には、日本は韓国の反日感情を鎮静化させ、少しでも親日的感情を醸成し、韓国の保守派と連携して韓国を日米の同盟的位置に留め、日米韓のトライアングルの構造を維持・発展・強化し、以って日本国民を拉致して返さない北朝鮮に対峙し、尖閣諸島への侵犯行為を繰り返す中国や、北方領土問題を抱えるロシアにも、毅然とした姿勢で対峙し続けなければならないのではないでしょうか。それが政治家を職業とする皆さんの真の責務ではないのですか。その意味で、韓国を教科書検定基準の「近隣諸国条項」から除外するなどの小手先の感情的対応をするのではなく、もっと大局観と長期的観点を持って「国家百年の計」に鑑み、真に日本を愛する心で行動してもらいたいと願っています。


日韓関係の歴史戦に関する考察(1)

2021-01-26 17:42:05 | 日記

日韓関係の歴史戦に関する考察(1)

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 隣り合ったお国とお国、民族と民族の問題は、古今東西を問わず誠に難しいものです。

「遠交近攻」は兵法三十六計の第二十三計にあり、地理的に遠い国とは親交を結び、近接する国を攻めるという二千数百年前の古代中国の戦術です。

例えば西洋の歴史でも、イギリスとフランス、フランスとドイツ、イギリスとアイルランドなど近隣国同士の戦争や紛争の歴史があるように、隣国であるから親交があってずっと仲が良かったというわけでは必ずしもないのです。

むしろ隣国であるがゆえに、国境紛争をはじめ何かと争いになるタネは多いのが実情です。

日本にとってのもっとも地理的に近い隣国は韓国・北朝鮮や台湾、そして中国とロシアであり、地形的には朝鮮半島が日本の九州や山陰に突出して近接する形状になっています。

海から日本を攻める以外に陸続きの延長線上で日本に侵入するとすれば、北は樺太や千島列島からのラインと、南は朝鮮半島からのラインが近いので、特にユーラシア大陸の地続きである朝鮮半島は、大陸方面から日本を攻める地理的拠点としては重要です。

こういう地理的な形状を、国際政治面、経済面、軍事面での関連に注目して巨視的に捉えるのが地政学(Geopolitics)という分野です。

日本ではナチスドイツとともに戦前に流行した関係で戦後は忌避されてきましたが、最近また注目されるようになりました。

もちろん現代のイギリスやアメリカでも研究されているので、何らかの思想的偏向と見てこの地政学的研究領域を忌避すべきではなく、むしろ現代日本にとってはリアリズムに基づいた地政学的分析が必要となっていると思われます。

これは日本を取り巻く直近のアジア領域のみならず、環太平洋や、インド洋、中近東など、世界中の国際関係状況を読み解くための必須の重要なツールなのです。

 さて、最近は日韓関係の悪化から、特に右寄りの人々の間では嫌韓論が盛んですが、今から約二年前に書いた本ブログの「高度な平凡性から見る韓国疲れ(Korea Fatigue)」(2019年3月2日付 https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12443985437.html ) でも取り上げたことがある通り、

こういう時こそ「日本にとっての本当の国益」について、今一度「冷静な賢慮かつ冷徹なリアリズムの視点」から考えなければならないと思います。

明治時代、帝政ロシアの議会(Duma)召集(明治38(1905)年8月)に先駆けて、近代的議会を開設した日本では、明治23(1890)年12月に開催された第一回帝国議会における山縣有朋首相の施政方針演説の中で、当時の用語で「主権線の守備」から「利益線の保護」に向かわねばならないという趣旨の発言があります。

要は、日本の国境線という物理的かつ地理的な「主権線」を守るだけでは、本当に日本を守ることはできない。

当時の「利益線」という用語は、後の「日本の生命線」という言葉に連なってゆく「地政学的な概念」としての、言わば「間接的な接続領域・緩衝地帯を含む防衛線」を意味していました。

つまりは明治時代でさえ、もはや国境線の守備である狭義の専守防衛だけでは日本を守れず、地政学的な緩衝地帯・接続領域を含む国家としての生命線を攻勢防御しなければならないという考え方があったということです。

その意味での日本の「生命線」とは朝鮮半島だったのです。

そして明治時代も令和時代も日本列島と朝鮮半島の地理的位置関係は全く変わっていません。

山縣有朋公爵(元帥陸軍大将)の後を継いで帝国陸軍と帝国政府を率いた桂太郎公爵(陸軍大将)が、日露戦争開戦時にどのように朝鮮半島を捉えていたかを、ここで少し見てみましょう。

やはり本ブログの別シリーズ「なぜ日本はアメリカと戦争したのか(68)明治期の政府・統帥部の首脳と『天皇親政』」でも取り上げた次の部分です。(2019年5月8日付https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12459787258.html ) 

・・・政府は早速ロシアとの間に談判を開始したが、予想通り、「朝鮮は其の一部たりとも、如何なる事情あるに関せず、之を露国に譲歩せざること」という目的を達成する見込みは立たず、いよいよ日露開戦の覚悟を固めなければならなくなった。桂は『自伝』の中で次のように述べている。

 予は最初より露国と戦わざるを得ざる決心をなし居れり、其故は、抑も露国の極東政策たる、従来の極東政策に一歩を進め、東清鉄道を旅順港に延長し、一方支那海を制せんが為要塞を増築し、又日本海を彼が有とせんが為め、朝鮮東海岸より南海岸に手を伸し、現に馬山浦をして彼が軍港になさんとするの政策は早く明白のみならず、彼れ一度東清鉄道を南満洲に通し旅順港に延長せば、必ずや朝鮮は自衛上略収せざるべからざるは当然の要求なり、如何となれば、彼れ朝鮮を取て我にのぞめば、我は日本海を失い、対馬海峡を把握し能わざるは勿論、南北に延長せる島帝国の領土は腹背敵を受け、啻(*ただ)に自ら防御は勿論、国家の生存上、独立を保ち得ざること、論者を俟たずして明らかなり、又露国にして朝鮮を失わんか、彼は哈爾濱(*ハルビン)・旅順間の連絡を保つのは不可能なり、其の故は、我が鴨緑江を越え、彼の側面を攻撃せば、南北の連絡は一朝にして失い、彼の目的を達し得ざるのみならず、極東政策の根本も翻さざる可からざるに至らん、右の如く論じ来れば、彼には是非朝鮮を略取するの必要あり、我に於ても亦彼れに朝鮮を譲ること能わざるの理由あり、到底談判を開始せんとせば、戦は最初に於て決心し置かざるべからず。・・・(坂田吉雄著「天皇親政」(思文閣出版1984年刊)252~253頁より。*裕鴻註記)

 このような情勢分析こそ「地政学的分析」なのです。

日清戦争後の露独仏による三国干渉(明治28(1895)年4月)により、日本が清国に返還した遼東半島をロシアが租借(明治31(1898)年5月)して、特に重要な海軍基地となる旅順港を入手する一方で、明治29(1896)年2月の「露館播遷(ろかんはせん)」により李氏朝鮮王朝の高宗とその世子純宗は、しばらく漢城のロシア公使館内に身を寄せて親露的政策を採り、それ以降ロシアは、明治29(1896)年6月の露清密約や明治33(1900)年11月の第二次露清密約により、ロシア軍の満洲駐留権や東清鉄道(のちの中東鉄道)の敷設権を得て、満洲全域の鉄道(つまりは兵站)、行政、軍事を支配下に置きます。こうして着々とロシアの南下政策は実を結び、まさに満洲からさらに朝鮮半島に至る情勢となって上記の桂首相の見解に至るのです。

ロシアは明治27(1894)年の日清戦争前、既に朝鮮半島東岸の永興湾(元山)占有を当時の朝鮮王朝に働きかけていました。

この時は同じく朝鮮の巨文島を占領した英国とロシアとの角遂の状況下にあって、当時朝鮮の宗主国であった清国宰相の李鴻章が英露間を調整し、明治20(1887)年3月に英艦隊の巨文島撤退を実現させると共に、ロシアの永興湾(元山)租借を断念させました。

しかし日清戦争で清国は朝鮮の宗主国ではなくなったために、ロシアは着々と再度の朝鮮半島支配に乗り出そうとしていました。

もしも朝鮮半島南端までが大国ロシアの支配下となれば、日本はわき腹に匕首を突き付けられたのも同然の情勢となってしまい、国の独立さえも脅かされる状況となる深刻な危機感を抱きます。ここに日露戦争が発生する根本要因が存在するのです。

 満洲にしても朝鮮にしても、確かにそこに住む人々からすれば他国の軍隊が勝手に入ってきて戦うという事態そのものが現代的感覚からすればあり得ないレベルでの異常なのですが、当時の世界情勢の中ではまことにやむを得ない状況だったのです。

そもそも超大国の大清帝国が天保11~13(1840~1842)年の阿片戦争以来、その度重なる敗戦や失政により次々と西洋列強による租借地を広げている危機的情況のなかで、永らく「華夷秩序」における冊封関係に従属してきた李氏朝鮮の行く末を憂慮した明治日本は、朝鮮の開国と近代化を促すことにより、日本と連携して西洋列強の侵略を防ごうと焦慮していたのです。

しかし幕末維新を経て文明開化と殖産興業による富国強兵で国の独立を護ろうとした明治日本とは異なり、より儒教社会の規範性が強くまた守旧の意識が強い両班(ヤンバン)という貴族階層の勢力が強かった李氏朝鮮王朝では、こうした独立開化や近代化への障碍と抵抗が極めて強かったのです。

そこに朝鮮の悲劇の大きな要因があるのではと思われます。

 当時の李氏朝鮮王朝では、第26代国王高宗の父君である大院君(興宣大院君)が摂政として文久3(1863)年から朝廷を支配していました。

もちろん歴史上の人物は、毀誉褒貶を免れず、大院君についても様々な批判はあるでしょう。

しかしわたくしは、大院君の根本的な姿勢から拝察するに、この方ご自身としては、気骨のある大変立派な人物であったと思っています。

日本でいう「尊王攘夷」にも通ずる「衛正斥邪」という実質的な意味での王政復古と徹底した鎖国攘夷を図り、腐敗した両班による官僚政治からの脱却としての摂政大院君による親政の体制を敷き、税制財政を整理し貪官汚吏を粛正しました。

より具体的には、朱子学に基づく「華夷秩序」を守るという基盤を更に発展させて儒教王政を強化し、反西洋・親中国の「衛正斥邪」という鎖国攘夷政策を執り、キリスト教布教を弾圧し(丙寅教獄:1866年)、フランス艦隊(丙寅洋擾:1866年)やアメリカ艦隊(辛未洋擾:1871年)とも戦い局地的な勝利を得て追い返したことで、益々攘夷の姿勢を硬化し、開国や近代化を勧める日本に対しても「倭洋一体」とする西洋諸国との同一視のもとに、強硬な姿勢を崩しませんでした。

西洋近代文明を否定・排斥して、鎖国政策による旧来の儒教的支配体制を守り堅持しようとした大院君からすれば、日本は「夷狄に化した」として、明治新政府の外交文書の受け取りを拒否し、これが日本国内では所謂「征韓論」論争から明治6(1873)年の政変となり、西郷隆盛や江藤新平、後藤象二郎、副島種臣、板垣退助などが下野して、後の西南戦争(明治10(1877)年)へとつながってゆくことになります。

この時代の大院君は「親清国、反西洋・反日本」です。

 一方でその後の李氏朝鮮王朝では、慶応2(1866)年に王妃となった閔妃(高宗の后)が、明治6(1873)年に大院君を失脚させて国の実権を握り(癸酉政変)、その時々に日本、清国、ロシアに接近し、その大国の力を背景にして対外的にも対内的にも乗り切ろうとするのですが、閔妃は聡明で政治的手腕も持った女性であったという評価の一方で、失政や汚職・腐敗も多く、閔妃自身も巫堂(ムダン)という呪術的宗教儀式に入れ込み、国庫の六倍以上の国費を浪費したといいます。

この大院君と閔妃の対立と、朝鮮国内の「守旧派」と「開化派」の争いは、朝鮮半島を取り巻く清国、ロシア、日本などの周辺国の争いと相俟って、不幸なことにこの重大な国家的危機の時代の朝鮮により一層の影を落とすことになります。

これらの対立抗争の過程を、以下に年表的に整理しつつ辿って見ましょう。

明治3(1870)年2月 明治政府は外交使節を朝鮮に派遣するも大院君が拒絶

明治6(1873)年10月「明治六年政変」西郷隆盛ら征韓論派が下野

明治6(1873)年12月 大院君が失脚・引退し、閔妃派が政権掌握

明治8(1875)年9月「江華島事件」日本海軍砲艦「雲揚」と朝鮮砲台が交戦

明治9(1876)年2月 日朝間の丙子修好条規(江華島条約)締結、「朝鮮開国」同年より、閔妃政権は日本に三次に亘る修信使を派遣し、開化政策を推進

明治14(1881)年 漢城(現ソウル)に日本公使館開設

明治14(1881)年 閔妃が率いる朝鮮王朝は、統理機務衙門(近代的行政機関)と別技軍(近代軍、教官は日本公使館付武官の堀本礼造陸軍中尉を招請)を設置

明治15(1882)年 米朝修好通商条約締結 (同年、米清間に「商民水陸貿易協定」も締結され、この中で清国は朝鮮の宗主国であることが明記される)

 こうして文久3(1863)年から明治6(1873)年末までの「第一次大院君時代」の10年間は「衛正斥邪」による鎖国攘夷政策でしたが、明治7(1874)年から明治15(1882)年6月までの8年間は「第一次閔妃時代」となって開国開化政策となります。

この時代の閔妃はむしろ「親日本」であったとも言えるのです。しかし、ここでまた大院君への短期間の政権交代が生じます。

 明治15(1882)年7月、二千数百名いた旧式軍への俸禄米の遅配や不正供給への不満から旧式軍兵士による「壬午の軍乱」が発生、閔妃政権に不満を持つ民衆の一部も暴徒となって8日間に亘る騒擾となります。

この背景には大院君派の活動家も暗躍していました。

反乱を起こした旧式軍兵士たちは、優遇されていた別技軍兵舎を襲い、日本人教官の堀本中尉も殺害。

また日本公使館を襲撃したため、花房義資公使以下は応戦しつつ脱出、2名が殺害されましたが残る26名は済物浦(仁川港)から小型ジャンクで逃れ、沖合に停泊中の英国海軍測量艦フライング・フィッシュ号に救助されます。

実は閔妃は日本の花房公使に対し、公使館が襲撃されるとの警告を事前に伝えてくれていました。

そのことからも当時は「親日的」であったと言えましょう。

一方、宮殿では反乱兵が閔妃を殺害しようとしますが、女官の一人が身代わりとなって服毒自害した隙に、閔妃は宮殿を脱出して忠州の田舎に隠棲しました。

この騒擾を利用して、大院君は国王高宗から事態収拾の命を受けて宮廷での復権を果たし、閔妃政権が進めていた近代化政策を覆し、統理機務衙門を廃止、衛正斥邪政策に戻します。

この時大院君側近が要職に就き、反対勢力の数百名が殺されたともいいます。しかしこの体制も長くは続きませんでした。この時の大院君はもちろん「反日的」です。

 もともと江華島条約により朝鮮に入った日本商人たちが大量に青田買いを行ったため朝鮮の米価が暴騰し、貧困層の民衆には広く日本に対する反感や不満が募っていたため、「壬午の軍乱」で日本公使館が焼討ちされる事態となってしまったのですが、花房公使以下が逃げ帰った日本では朝野がこれに憤激して、花房公使に800名の護衛兵をつけて朝鮮に帰任させ、その他に軍艦4隻と1500名の軍隊を同行させます。

一方で、朝鮮国の宗主国を以って任ずる清国は、天津訪問中の朝鮮の開化派官僚、金允植・魚允中に意見を求め、大院君の復古路線に反対する二人の清国軍派遣による介入要望を受けて、李鴻章宰相の腹心、馬建忠が同行する軍艦3隻と軍隊3000名を派遣します。委細は省略しますが、この結果、馬建忠は花房公使と朝鮮政府との調停を行う一方で、大院君を拉致し、清国軍艦に乗せて清国の保定で監禁してしまいます。

日本政府は明治15(1882)年8月末に「済物浦条約」を締結し、日朝の紛争事態は収束しますが、その一方で清国も「清国朝鮮商民水陸貿易章程」を締結し、おおらかさを伴っていた「華夷秩序」の冊封体制から、清国を宗主国とする明確な属国扱いとなり、清国軍隊が常駐し、朝鮮政府内に清国顧問を置いて内政、外交、軍事を支配する体制を固めました。

首都漢城(現ソウル)を制圧した3000名の清国軍隊の弾圧は過酷で「百名以上にものぼる人たちを捕え、あらゆるおとしめを加えて彼らを処刑し、その切りさいなまれた首は城壁に、死体は犬の餌にと糞塊の中に、これを投げ捨てたのであった」(F・A・マッケンジー『朝鮮の悲劇』渡部学訳より。

永沢道雄著「日本人はどこで歴史を誤ったのか」2011年刊光人社NF文庫、42頁に引用記載のもの)と記述されています。

これは日本軍兵士による蛮行虐殺ではなく、あくまで当時の清国軍(中国軍)兵士によるものであることは銘記すべきです。片や首都漢城の日本公使館警備のために常駐した日本軍200名は、この時期は行儀良く振舞っていました。

 重要なのは、この時点以降の朝鮮国は実質的に独立国ではなくなり清国の属国となってしまったことです。

朝鮮政府内では、大院君の衛正斥邪派は没落し、清国派遣政府顧問の馬建常(馬建忠の兄)と清朝お雇いドイツ人メルレンドルフのもと、宮殿に戻ってきた閔妃を囲む「守旧派」が主流となり、その中でも清国の力を頼む「事大党」(じだいとう「小(朝鮮)を以て大(清国)に事(つか)える」の意)と、漸進的な改良主義を旨とする一派に分かれます。

その一方で、「守旧派」と対立する「開化派」の「独立党」は、清国の影響を脱して近代化することを目指し日本を頼るのです。

こうした朝鮮国内の各勢力の内部抗争が、代表者としての「大院君と閔妃」という対立軸と、外国の後ろ盾としての「清国対日本」、そして日清戦争後は「ロシア対日本」という外国勢力との結びつきをもう一方の対立軸として、その順列組合せが様々に変貌するのです。

 この後、明治16(1874)年に、朝鮮と英、独、伊、露、仏の各国とで修好通商の条約が締結され、明治18(1885)年には李鴻章の計らいで袁世凱の護送により大院君が帰国し蟄居の身となります。

そして「第二次閔妃時代」は明治15(1882)年8月から明治17(1884)年12月までの約2年間続きます。

この時代の閔妃は「親清国、反日本」で、同時に上述したように巫堂(ムダン)という呪術的宗教儀式に入れ込み、国庫の六倍以上の国費を浪費して財政難に陥り、清国派遣政府独人顧問のメルレンドルフ献策による悪貨鋳造が経済混乱に追い打ちをかけます。

そこで「開化派」の若手官僚である金玉均や朴泳孝ら「独立党」は、竹添進一郎日本公使の支援を得てクーデターを計画、明治17(1884)年12月4日夜に実行したのが「甲申事変」です。

閔氏政権の大物を殺害し、高宗と閔妃は身柄を昌徳宮から景祐宮に一旦移され、「独立党」は新綱領を発表、「清国への朝貢の廃止、門閥の根絶と人民の平等の権利、人材の登用、宦官の廃止、地租法の改革、警察制度の整備、特権商人の廃止、軍制の改革など」の十四項目は自由民権思想に貫かれたものでした。

しかし新政府の武力は、朝鮮人士官候補生7名を中心とする李朝軍隊約400名の少数兵力と250名の日本軍のみであったので、閔妃の密かな救援要請を受ける形で、駐留していた千数百名の清国軍が動き王宮を攻撃、新政府側は寡兵よく戦うも竹添公使以下は撤退を決意して、仁川の日本領事館を経て日本船「千歳丸」に乗船し日本に脱出しました。

この時、金玉均らに冷たく対応した竹添公使をよそに千歳丸の辻勝三郎船長は金玉均らの引き渡しを断固拒否して日本に亡命させました。

しかし表向き日本政府はクーデターの後援を否定し、日本軍は国王守護に出動したのみだとする立場から、日本はその後は彼らを厄介者扱いして小笠原や北海道に送り、それから十年を経た明治27(1894)年に上海に渡った金玉均は、朝鮮政府の放った刺客に射殺され、遺体は清国軍艦で漢城に運ばれて、閔氏政権は「大逆不道」の罪人として遺体を八つ裂きにした上で街頭に晒し、彼の実父も絞首刑に処せられました。

私見としては、日本政府は断固としてこの開化派の金玉均ほかのメンバーを擁護し、適切な時機に彼らをして朝鮮国の自らの手による近代化を支援すべきであったと思います。

それをしなかったことが、今日にまで至る日韓関係の澱を招いたのではないでしょうか。

こういう時こそ「国家百年の計」が必要であり、日本を頼っていた朝鮮の若き開化派の人々をもっと大切にするべきだったのです。

一方の閔妃は、清国軍営へと王宮から脱出した後、また政権に復帰しますが、一旦清国軍に頼った以上は残った「守旧派」の閔妃政権にはもはや自立・独立の道はなく、朝鮮半島は清国、日本、英国、ロシアの地政学的勢力争いの舞台と化してしまいました。

決して日本のみが武力で朝鮮を脅かしたのではなかったのが、この時期の歴史的事実なのです。(今回はここまで)


餓死した英霊たち

2021-01-26 16:56:08 | 日記

「餓死した英霊たち」

 
 「餓死した英霊たち」(藤原彰 青木書店)読了。まずは衝撃的な一文から。
 この戦争で特徴的なことは、日本軍の戦没者の過半数が、いわゆる名誉の戦死ではなく、餓死であったという事実である。
「靖国の英霊」の実態は、華々しい戦闘の中での名誉の戦死ではなく、飢餓地獄の中での野垂れ死にだったのである。(p.3)
 藤原氏の推計による病死者、戦地栄養失調症による広い意味での餓死者は、合計で127万6240名に達し、全体の戦没者212万1000名の60%強という割合になるそうです。
 
戦死よりも戦病死の方が多い。
 
それが一局面の特殊な状況ではなく、戦場の全体にわたって発生したことが、この戦争の特徴であり、そこに何よりも日本軍の特質をみることができます。
 
著者は本書の目的として、悲惨な死を強いられた若者たちの無念さを思い、大量餓死をもたらした日本軍の責任と特質を明らかにして、そのことを歴史に残すこと。
 
そして大量餓死は人為的なもので、その責任を死者に代わって告発すること、と述べられています。
 
まずはその凄惨な状況を、さまざまな証言をもとに紹介されています。
 
例えば、アウステン山では、飢えた兵士の間に次のような不思議な生命判断が流行り出したそうです。
 
そしてこの非科学的・非人道的な生命判断は決して外れなかったとのことです。

 立つことの出来る人間は…寿命三〇日間
 身体を起して坐れる人間は…三週間
 寝たきり起きられない人間は…一週間
 寝たまま小便するものは…三日間
 もの言わなくなったものは…二日間
 またたきしなくなったものは…明日 (p.20)

 なおレイテ島で同様の経験をされた大岡昇平氏は『野火』(新潮文庫)の中で、餓死に瀕した兵士を次のように描写していましたっけ。
彼は膝の間の土をつかんで、口に入れた。尿と糞の臭いがした。
「あは、あは」
 彼は眼を閉じた。
それを合図のように、蠅が羽音を集め、遠い空間から集って来た。
顔も手も足も、すべて彼の露出した部分は、尽くこの呟く昆虫によって占められた。
 
蠅は私の体にも襲いかかった。私は手を振った。
しかし彼等は私と、死につつある彼と差別がないらしく―事実私も死につつあったのかもしれない―少しも怖れなかった。

「痛いよ。痛いよ」
 と彼はいった。それからまた規則正しい息で、彼は眠るらしかった。
 
雨が落ちて来た。
水が体を伝った。蠅は趾(あし)をさらわれて滑り落ちた。
すると今度は山蛭が雨滴に交って、樹から落ちて来た。
遠く地上に落ちたものは、尺取虫のように、体全体で距離を取って、獲物に近づいた。

「天皇陛下様。大日本帝国様」
 と彼はぼろのように山蛭をぶら下げた顔を振りながら、叩頭した。(p.128~130)
 さてそれでは、なぜこのような大量餓死が引き起こされたのか。
 
著者は、兵士の人権に配慮しない日本軍の体質に、その原因を見ています。
 
例えばフランス軍は、革命によって解放され独立自営の農民が中心であり、彼らは革命によって成立したフランス国家を守ることは、解放された自分たちの身分と土地を守ることになるのを知っていたのですね。
 
それだからこそ、自発的な戦闘意志と愛国心をもち、ナポレオン軍の連戦連勝を支えたわけです。
 
しかし明治維新は独立自営の農民層を生み出さず、貧困な小作農民を再生産させただけであったため、彼らを徴集してつくった日本軍ではフランス国民軍にみるような自発的戦争意志を期待することは不可能でした。
 
よって兵士に対して、服従が慣性化するまで兵士を「監視」し、きびしい懲罰を加えることで服従を強制することになり、兵士の人権を蔑ろにする体質を生み出したと述べられています。
 
さらに日露戦争の呪縛も指摘されています。
 
日露戦争では、砲兵火力の劣勢・装備の不足という大きな弱点を持つ日本陸軍が、やっとの思いで勝利を得たため、軍中央は精神力で勝てたのだと信じ込んでしまったのですね。
 
以後も軍備の劣勢は改善されず、そのため白兵戦を主体とする積極果敢な攻撃至上主義が作戦の中心となり、兵站や補給、給養や衛生は軽視されます。
 
つまり、兵士の生命を病気や飢えで失うことへの罪悪感が欠落していたのですね。
 
そして決定的だったのが、積極果敢な攻撃至上主義を徹底させるための捕虜の否定と降伏の禁止です。
 
そのため、孤立しあるいはとり残されて、全体の戦況に何の寄与することもなくなり、ただ自滅を待つだけとなった部隊でも、降伏が認められない以上、餓死か玉砕以外に選ぶ道はないという場面が頻出したわけです。
 
もし降伏が認められていれば、実に多くの生命が救われたでしょう。
 
さらに責任の所在は、補給輸送を無視した作戦第一主義で戦闘を指揮し、大量の餓死者を発生させた陸海エリート軍人たちにあると厳しく指摘されています。氏は具体的に大本営陸軍部の三人の名をあげられています。
 大本営陸軍部(参謀本部)の中でも、とくに第一(作戦)部長田中新一中将、第二(作戦課長)服部卓四郎大佐、作戦課の作戦班長辻政信中佐の作戦担当責任者の発言権は絶大であった。
対米英開戦から初期の南方作戦を指導したのもこのトリオであって、田中、服部は同じ部長、課長として、辻は戦力班長からシンガポール攻略の第二十五軍参謀としてその名を轟かせた。
いずれも名うての積極論者、強硬論者で、つねに攻勢主導を主張し作戦をリードしたことでも知られている。(p.146)
 この三人がたてた、兵站を無視した無謀な作戦のせいでいったい何人ぐらいの日本兵士が死へと追い込まれたのでしょう。
 
気になってウィキペディアで調べてみると、戦犯として訴追もされず、反省の言もなく、戦後を悠々と生き延び(辻は衆議院議員を四期、参議院議員を一期歴任)、天寿を全うした(辻は東南アジア視察中に行方不明)ようです。
 
独善、専行、人命と人権の軽視、モラルと責任感の欠如、第二第三の田中・服部・辻をつくらないためにも、彼らの所行を教科書で取り上げるべきだと思いますが、今の文部科学省の見識では全く期待できません。
 
その結果が、いまだに国民の命や暮らしを軽視して経済成長第一主義を主導するエリートを再生産されつづける状況につながっているのではないでしょうか。
 
福島第一原発の大事故も、東北・関東大震災の甚大な被害も、これと無縁ではないと思います。
 
日本の近現代史を貫く「人権の軽視」という心性を理解するうえでも、万人必読の書、お薦めです。

宮崎兄弟と辛亥革命

2021-01-26 16:50:34 | 日記

宮崎兄弟と辛亥革命

更新日:2011年11月9日

孫文

孫文の写真1866年、孫文は広東省香山県で生まれました。12歳で長兄の孫眉を頼ってハワイに渡り、西洋文化に触れると、5年後に帰国し、広東・香港の医学校に学びました。

1894年に革命組織・興中会を結成すると、孫文は翌1895年に広東での蜂起を計画しましたが、失敗し亡命を余儀なくされます。しかし、1897年の宮崎滔天との出会いをきっかけに、日本の志士との交流を深めたことで、1905年の中国同盟会の結成に至り、彼はその指導理念として三民主義を唱えました。

孫文を中心とする革命派たちの活動により多くの若者に革命思想が普及した結果、1911年に辛亥革命が勃発します。革命により清朝は倒れ、アジア初の共和国である中華民国が誕生、孫文は臨時大統領に選ばれました。孫文は、1925年3月12日に59歳で亡くなりましたが、宮崎民蔵・滔天兄弟との友情は最後まで続き、孫文自伝には「革命におこたらざる者」として「宮崎兄弟」の名が挙げられています。


孫文と滔天集合写真

孫文と滔天集合写真

(1913年)大正2年 孫文革命成功謝礼のため荒尾市上小路宮崎民蔵家を来訪

 

写真(背景)宮崎兄弟の生家。大正2年3月撮影。再来日した孫文を囲んでの記念撮影。中央左側の背広姿が孫文、その右隣の着物姿が滔天。

背後の梅の木は、現在も生家施設敷地内にあり、樹齢は250年から300年と伝わる。

辛亥革命

1840年から1842年のアヘン戦争や、1894年から1895年の日清戦争の結果、清朝は西欧の帝国主義により半植民地化されていきました。中でも日清戦争で生じた膨大な賠償金は、清朝の財政を圧迫し、半植民地化に拍車をかけました。

そのような中、孫文は、清朝による中国支配をくつがえし、新しい政治体制を創設することを目指す革命運動を展開しました。孫文たちは幾度となく蜂起し、ことごとく失敗しましたが、1911年10月10日武昌蜂起の成功をきっかけに、中国全土の革命的蜂起を促しました。これがいわゆる辛亥革命の起こりです。1911年12月29日、孫文は、南京政府臨時大総統に選出され、翌1912年、国号を中華民国と定めました。1912年2月12日に清朝の宣統帝が退位したことで、270年に及ぶ清朝の歴史が終わり、また、アジア初の共和国の誕生は、長きにわたる中国王朝政治の終焉ともなりました。