韓国揺さぶる北朝鮮 金正恩の思惑とは
礒﨑敦仁 (慶應義塾大学教授)
澤田克己 (毎日新聞記者、元ソウル支局長)
澤田克己 (毎日新聞記者、元ソウル支局長)
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新型ミサイル開発に再び拍車をかけている北朝鮮が、韓国に対しては柔軟な姿勢をアピールしている。
残り任期が7カ月しかない文在寅大統領の足元を見て、取り込みを図ろうというのだろう。
場合によっては「金正恩訪韓」などのカードをちらつかせて、揺さぶりを強めるかもしれない。
一方で新型コロナウイルス対策の国境封鎖による苦境の中でも、「普通の国」志向の金正恩国務委員長らしさが垣間見える場面がある。
9月28、29日に開かれた最高人民会議(国会)を通して見えてきた北朝鮮の戦略を考えてみたい。
米韓へのメッセージとなった施政演説
金正恩は代議員ではないが、2日目の会議に出席して「社会主義建設の新たな発展のための当面の闘争方向について」と題する「施政演説」を行った。
金正恩の施政演説は2019年4月の最高人民会議に続く2回目だが、いま施政演説をしなければならない国内的事情はうかがえない。
注目される軍事分野については踏み込んだ言及があった可能性が高いものの、公表された要約にある内容は今年1月の第8回党大会での演説の焼き直しだった。
そうであれば、この時期に演説したのは、米韓両国に対するメッセージを明確にするためだったのだろう。
目についたのは、韓国への揺さぶりだ。硬軟織り交ぜた揺さぶりで相手に譲歩を迫るのは北朝鮮の常とう手段である。
金正恩は、米韓合同軍事演習を非難して「南朝鮮(韓国)当局が引き続き米国に追随」していると不満を表明。
文在寅が9月の国連総会演説で提案した終戦宣言については、宣言より先に「相手に対する尊重が保障され、他方に対する偏見的な視角と不公正な二重的態度(ダブルスタンダード)、敵視観点と政策」を撤回しろと主張した。
そして、南北関係が「和解と協力の道へ進むか、そうでなければ対決の悪循環の中で引き続き分裂の苦痛をなめるかという深刻な選択の別れ道に置かれている」と述べるとともに、文在寅に対して「言葉ではなく実践で民族自主の立場を堅持し、根本的な問題から解決しようとする姿勢」を要求した。
金正恩の妹である金与正・党宣伝扇動部副部長が会議前に出していた談話でも、終戦宣言を肯定的に評価したり、南北首脳会談の開催に言及したりしながら、そのためには韓国の「正しい選択」が必要になると強調していた。
金正恩の演説ではさらに、10月初めから南北連絡通信線を再び復元する意思が一方的に表明された。
新型ミサイルで圧迫しながら、融和策を一方的に表明
ボールはあくまで韓国側にあると投げかけ、北朝鮮問題で成果を上げて政治的レガシー(遺産)にしたいという文在寅を圧迫している。
終戦宣言という餌をぶら下げて韓国抱き込みを図ろうというもので、韓国側が柔軟な姿勢を見せるのなら、18年9月の首脳会談で約束した金正恩の訪韓など他のカードも切ってくるだろう。
訪韓が実現すれば、首脳会談に中身がなくても韓国内の融和ムードを高めることはできる。
来年3月の韓国大統領選で、融和路線を引き継ぐ候補に有利な環境を作れるという計算もありそうだ。
北朝鮮は9月になってから、長距離巡航ミサイル(11、12日)、鉄道機動ミサイル(15日)、極超音速ミサイル「火星8型」(28日)、新開発の対空ミサイル(30日)を立て続けに発射した。
1月の党大会で金正恩はミサイル開発の大号令を掛けており、それが実行に移された形である。
軍事力強化を着実に進展させ、それをテコにどこかのタイミングで米国との交渉に持ち込みたい思惑であろうが、現段階でバイデン米大統領はトランプ前大統領ほど北朝鮮問題に熱心ではない。
金正恩も米国の現状を理解し、すぐに米国との対話が始まるという期待はしていないようだ。
バイデン政権が北朝鮮に対する「外交的関与」と「前提条件のない対話」を主張していることについて、「自分らの敵対行為を覆い隠すためのベールにすぎず、歴代の米政権が追求してきた敵視政策の延長にすぎない」と切り捨てた。
金正恩の狙いは結局、まずは文在寅を抱き込んで米国と距離を置かせる、もしくは北朝鮮に歩み寄るべきだと米国を説得するよう仕向けるということになるのだろう。
投票や開かれた会議を〝演出〟
今回の最高人民会議は、第14期第5回会議と呼ばれる。
建国以来14回目の選挙で選ばれた代議員による5回目の会議という意味だ。
金正恩が初めて施政演説をした19年4月の会議が、現在の代議員によって初めて開かれた第14期第1回会議だった。
自由な投票は事実上できない仕組みになっているものの、北朝鮮でも選挙という最低限の形式は演出されるのである。
こうした演出を従来以上に重視するのが金正恩のスタイルだ。
スイス留学の経験があるからか、「普通の国」としてのプロセスを見せたがる傾向がある。
今回の会議でも脱「シャンシャン会議」を目指す姿勢が目についた。
法律の採択にあたって、従来通りの官製討論だけでなく、「研究・協議会」と称する別室での分科会まで開催された。
1月の党大会でも「部門別協議会」が開催されており、実務を担う幹部に責任感を持たせる意味合いもあろう。
これは、金日成時代の会議開催方式を復活させたものでもある。
また、かつては会議の開催が公表されないことも珍しくなかったが、近年は金正恩が出席する主要な会議の開催はすべて公表しているようだ。
それまで単に「党政治局会議」を開催したと報じられてきたものが、昨年6月から「第7期第13回政治局会議」などとナンバリングされるようになったのである。
詳細な中身が出てくるわけではないが、金正恩の方針なのだろう。
リサイクルの強化も経済制裁に耐える「自力更生」策
今回の会議では1日目に、「市、郡発展法」と「青年教養保障法」の採択、「人民経済計画法」の改正が行われたほか、「再資源化法」の執行状況が報告、討議された。
2日目には、国営航空会社「高麗航空」を運営する高麗航空総局を国家航空総局に改称することを決定したほか、金与正を国務委員に選出するなどの「組織問題」(人事)が発表された。
経済政策については、経済制裁が続くことを前提にした「自力更生」の意思が改めて示された。
金正恩は施政演説で、「全ての貿易活動が経済部門の輸入依存性を減らし、自立性を強化する方向で拡大、発展する」ことを指示した。
これまでも輸入に頼るなと「輸入病」を戒めてはきたが、現在は新型コロナ対策として中国との貿易も事実上遮断された状態にある。
それにもかかわらず「輸入依存性」に警鐘を鳴らしたのは、今後も自力更生を経済建設の柱にしていくという強い姿勢の表れだ。
演説では、「8月3日一般消費財」への言及が復活した。
金日成時代の1984年8月3日に、廃棄物を利用して生活必需品を生産しようという運動が提起されたことを指す。
今回の会議2日目に「再資源化法」が議題とされたことと合わせて考えれば、自力更生のためにリサイクル推進が必須だという事情をうかがうことができる。
苦しい台所事情を示すとも言えるが、北朝鮮側から見れば自力更生への強い意気込みということになるのかもしれない。
金与正を抜擢した意図とは
人事では、北朝鮮の「最高政策指導機関」である国務委員会メンバーが大幅に入れ替わった。
金正恩が務める国務委員長の英語表記はPresidentで、米国の大統領や中国の国家主席と同列とされる。
第1副委員長と副委員長が1人ずつ、各分野での実務責任者となる国務委員は今回の人事で1人減って10人となった。
ちなみに韓国でも、閣議のことを国務会議、閣議に出席する閣僚らを国務委員と呼んでいる。
今回の国務委員人事は、これまでの党人事を追認するものが多かった。唯一のサプライズは、1月に党中央委員会政治局メンバーから外れていた金与正が抜擢されたことだ。
金正恩の妹という特殊な人物であり、金正恩体制では他の高官もひんぱんに降格と昇格を繰り返しているのだが、金与正の存在感はさらに高まるのかもしれない。
国務委員は1人減ったのに、外交・対南担当は4人体制が維持されたと言える。
これまでのメンバーは、対南担当である党統一戦線部の金英哲部長と外交トップの金衡準・前党国際部長、李善権外相、崔善姫・第一外務次官だった。
このうち金衡準と崔善姫が抜けたものの、金与正とともに金成男・党国際部長の2人が加わったからだ。
金与正は、トランプとの米朝首脳会談に際して実務を担当した崔善姫の代わりに就任したと考えられる。
金与正は昨年3月以降、韓国や米国を非難するメッセージを発信するなど、米韓に対して外交的意思を示す役割を担ってきた。2018年の平昌冬季五輪に合わせて訪問した韓国社会での認知度はきわめて高い。今回の抜擢は、北朝鮮が対南関係を本気で動かそうとしていると文在寅政権に期待させる効果をもたらすことにもなる。