世界的ヒット『イカゲーム』はなぜ韓国で生まれたのか、元駐韓大使が解説
10/12(火) 6:01配信
イカゲームが生まれた背景にある 韓国社会の厳しい現実 韓国社会で起きていることはドラマとよく似ているといわれる。
まさにそれが、Netflixで配信されて世界90カ国で視聴回数1位となった韓国ドラマ「イカゲーム」である。
ドラマのあらすじやと人気の理由についてはダイヤモンド・オンラインの記事『なぜ超人気?韓国ドラマ『イカゲーム』が世界中でヒットした3つの理由』に詳しく紹介されているので再述しない。
しかし、こうしたドラマを生み出す背景には韓国社会の厳しい現実がある。
それは国民の公平促進を訴えてきた文在寅政権になって、社会の不公正と不平等に一層の拍車がかかったことが国民の夢を奪ってしまったということであろう。
韓国社会には元来上昇志向の強い国民性があった。しかし、今は貧困に打ち勝つことのできない人々が諦めにも似た気持ちで生活しており、それが株式や仮想通貨などで一獲千金を夢見させているのである。
『イカゲーム』は不平等が激化する韓国庶民の人生を描いたものである。
『イカゲーム』は貧困層と富裕層を対照的に描いた作品であり、2020年のアカデミー作品賞を受賞した『パラサイト 半地下の家族』と同じような脈絡で作られている。
ニューヨークタイムズは
「文在寅政権に入り住宅価格の暴騰は国民の不安を大きくした」
「『イカゲーム』中の456人の参加者のキャラクターは韓国の不安を直接表現しているが、社会進出の機会が見えない韓国の若年層から共感を呼んだ」
「土の箸とスプーン世代といわれる若年層は、仮想通貨や宝くじのように手っ取り早く金持ちになれる方法に執着する」と述べている。
● 国民所得は伸びたものの 生活の質は大きく低下
グローバル統計サイト「Numbeo」によると、今年の韓国の「生活の質(quality of life)」指数は130.02となり、評価対象国83カ国中42位となったとしている。
「Numbeo」は購買力、所得に対する住宅価格比率、生活費、汚染、安全など幅広い分野で生活の質を評価している。
ちなみには現政権が発足した2017年には「生活の質指数」162.49で67カ国中22位だった。
現政権になって指標が大きく悪化したのは住宅価格暴騰と生活費の負担増が大きな要因であると分析されている。
ランキングで韓国のすぐ上にあるのは南アフリカ(39位)、ルーマニア(40位)、プエルトリコ(41位)であるが、南アフリカとルーマニアは1人当たり国民所得がそれぞれ韓国の15%、43%の水準である。
韓国の国民所得は伸びたが、それは生活の質には反映されておらず、生活が苦しくなっていることをこの指標が反映している。
● 諦めの風潮が イカゲームを生んだ 先述の通り、韓国は上昇志向の強い、競争の激しい社会である。しかし、今の韓国ではいかに努力し、最高の教育を受けた人でも、権力者からの「引き」がないと出世街道には乗れない閉鎖社会になりつつある。
そして、今の権力者は革新系政治家であり、財閥である。
それゆえに既存の政治家と財閥に対する反発は強い。
現政権の中枢にいる人々は、長年、経済成長の果実から疎外されてきた。
しかし、こうした人々が政権を握ると過去の不公正や不平等を是正しようとするのではなく、自らが経済成長の果実にあやかろうとして、不動産投機にまい進し、蓄財を重ねてきたのである。
それが曺国(チョ・グク)元法相による娘の進学やファンド投資などを巡る不正や、韓国土地住宅公社の職員らによる不正な土地投機などの温床となった。
そして、政権幹部や与党議員は、こうして獲得した特権を手放さないよう、革新系による長期政権を志向している。
国家情報院や検察組織を自分たちに都合のいいように改革し、裁判所も人事を掌握することで政権の不正が暴かれないよう仕組みを改編した。
さらに言論仲裁法の改正によって言論統制を強化しようとした。
しかし、これはさすがに民主主義の表現の自由の根幹に関わる問題であり、国連や国際メディア組織などから激しい批判を浴び、中断せざるを得なくなった。
こうした社会の現実に直面し、国民は希望を失っている。「イカゲーム」はそうした社会への諦め、そして一攫千金の夢を唯一の希望とせざるを得ない国民の焦燥感を表したものであろう。
● 景気回復局面でも 格差拡大はなお続く 現代の韓国社会の二極化に激しく反発したのが、若年層であり、その結果がソウル・釜山の2つの市長選挙である。
さらに最大野党「国民の力」に36歳の若い代表を生んだ。
こうした反発で、文在寅大統領の支持率は一時、29%まで落ち込み、不支持は51%と差が開いた。
しかし、文大統領に対する支持は今では40%ほどに回復している。
そして来年3月の大統領選候補を選ぶ与党「共に民主党」の予備選では、最も過激な革新系である李在明(イ・ジェミョン)京畿道知事が選出された。
いずれにせよ、こうした特権を巡る争いを繰り返していては「イカゲーム」の社会は当分改められないかもしれない。
中央日報は「韓国、景気反騰は確かだが…『最悪の二極化(筆者注「格差拡大」の意)がくる』」という記事を掲載している。
韓国の経済学者の間では、韓国の景気は2017年9月から下がり始め、昨年2月から流行し始めた新型コロナの衝撃で急激に萎縮したが、昨年5月に底を打ち上昇局面に入ったと分析されている。
新型コロナの衝撃が大きかった反動に加え、災害支援金のような財政効果も景気回復を後押ししたという。
しかし、こうした景気回復は今年下半期に入って順調とはいえなくなった。
韓国開発研究院(KDI)は「7月の経済動向」でコロナ第4波により経済不確実性ができたと述べており、さらに8月、9月はこうした不確実性が拡大したと評価した。
韓国では輸出の好調と非対面サービスの普及の恩恵を受けた一部業種が景気回復をけん引する一方、自営業者を中心に内需停滞と失業増加が続いており、業種間の二極化が深まる「K字型回復」を懸念する声が出始めている。
2つの市長選挙で文政権への反旗を翻したのは若年層であったが、現在は、自営業者の間で現政権への不満が広がりつつある。
● 自営業者の廃業 経営者の自殺が相次ぐ 韓国遊興飲食業中央会議のチェ・ウォンボン事務総長は「コロナ以降1年6カ月のうち1年4カ月は営業できず、頭を丸め、血書きや約80回にわたる抗議デモを行ったが、政府は微動だにしない」と憤慨している。
自営業者は収入源により賃貸料を支払えず、人件費も賄えずに生活苦に陥っている。
新型コロナ対応全国自営業者非常対策委員会によると、この1年6カ月間に自営業者は66兆ウォン(約6兆円)を超える負債を抱え込み、1日平均1000店以上の店舗が廃業し、現在まで合計45万3000店が閉店したという。
これは冒頭の『イカゲーム』で繰り広げられるデスゲームに参加する債務者たちとも重なる。
実際、中央日報は『イカゲーム』の主人公について、会社から解雇された後、フライドチキン店や軽食店を開いて失敗し、4億ウォン(約3800万円)の借金を背負うことになったある自営業者がモデルになっているのではないかと述べている。
韓国随一の繁華街、ソウル市明洞(ミョンドン)中心街でも今や建物には空室が目立っている。
建物空室率を全数調査したところ81カ所のビルに入居する255店舗のうち106店舗分が空いており、空室率は41.6%だった。中でも化粧品店は58.6%が廃業した。
● 銀行融資を受けられない 自営業者の苦境 韓国銀行によると、本年3月末の自営業者向け貸付残高は831兆8000億ウォン(約78兆4000億円)だという。1年前より18.8%増加している。
3月末に借金をしている自営業者は245万6000人だった。そのうち金融会社3社以上から借り入れた多重債務者は126万人で、彼らの負債は500兆ウォン(約47兆850億円)に達するという。
自営業者の中には「コロナ禍が1年半を過ぎ、自営業者たちはこれ以上融資を受けられず、銀行以外を当たっている」と打ち明ける者もいた。
すでに高利の貸金業者にまで手を出した自営業者も多いという。
そういうところでは「金利が20%を超える」ものもあるようだ。
そして銀行以外からの融資を受けると、信用度がさらに低下し、さらに高利の貸金業者からしか借りられないという悪循環に陥るようである。
ハンギョレによれば、今年第1四半期の自営業者の銀行融資残高は550兆6000億ウォン(約51兆9000億円)で、前年比16.2%増加した。
この間、ノンバンクの融資残高は282兆2000億ウォン(約26兆5800億円)で24.4%増えている。特に貸金業などは21兆9000億ウォン(約2兆650億円)で前年より71.8%増えている。
政府集計などに反映されない高利の貸金業者なども増加している。
韓国経済研究院が自営業者500人にアンケート調査したところ、39.4%が廃業を考えているという。
これはコロナの影響が大きいとはいえ、現政権が4年にわたって自営業者などを圧迫する政策を取ってきたのが原因である。
9月16日付の中央日報は、新型コロナ対応全国自営業者非常対策委員会のキム・ギホン共同代表が「この2~3日で極端な選択(自殺)をしたという情報提供が22件入ってきた。
真偽が確定すれば遺族の同意を得て事例を公開する予定」と述べたことを紹介している。
韓国では財閥などに縁故がなければいい就職口は見つからないという悲観論が最近高まってきていた。
また土地投機で金もうけをすることも金持ちでない限り難しくなっている。
個人が保有する土地の32%が上位1%に集中しているという。
一般の韓国国民の希望は株と仮想通貨でもうけることくらいである。
そうした不公平感が朴槿恵時代の崔順実(チェ・スンシル)事件を生みろうそくデモに広がっていった。
しかし、社会の不公平感はその時以上に広がっているとの世論調査結果もある。
それでも文政権が揺るがないのは不思議である。
● 景気の下方リスク増大で 韓国経済の前途は多難 新型コロナの感染拡大による「社会的距離」で内需産業が枯死する状況に加え、ここに来て景気回復をけん引してきた輸出にも黄色信号がともり始めているという。
経済開発研究院が10月7日公表した「経済動向報告書」によれば「最近、韓国経済は対面サービス業の不振で回復傾向が鈍る中、グローバル景気の不確実性も拡大し、下方リスクが増大している」と評価した。
宿泊・飲食店業は季節調整済みで生産指数の前月比増加率は7月の0.1%から8月にはマイナス0.6%に下落した。
製造業の鉱工業生産指数も0.2%からマイナス0.7%と大きく下落した。
飲食業については「コロナの再拡大と貿易措置の強化が長期間継続したこと」、製造業については「中間財の受給不安定で自動車など一部の業種の生産が萎縮し、企業心理指標が低下したこと」などを挙げている。
また、好調な半導体についても、10~12月期以降の半導体市場は「くもり」と予想している。
「イカゲーム」のテーマは格差拡大であったが、韓国経済は格差どころか共倒れの恐れすらあるようだ。
(元駐韓国特命全権大使 武藤正敏)