日本と世界

世界の中の日本

餓死した英霊たち

2021-01-26 16:56:08 | 日記

「餓死した英霊たち」

 
 「餓死した英霊たち」(藤原彰 青木書店)読了。まずは衝撃的な一文から。
 この戦争で特徴的なことは、日本軍の戦没者の過半数が、いわゆる名誉の戦死ではなく、餓死であったという事実である。
「靖国の英霊」の実態は、華々しい戦闘の中での名誉の戦死ではなく、飢餓地獄の中での野垂れ死にだったのである。(p.3)
 藤原氏の推計による病死者、戦地栄養失調症による広い意味での餓死者は、合計で127万6240名に達し、全体の戦没者212万1000名の60%強という割合になるそうです。
 
戦死よりも戦病死の方が多い。
 
それが一局面の特殊な状況ではなく、戦場の全体にわたって発生したことが、この戦争の特徴であり、そこに何よりも日本軍の特質をみることができます。
 
著者は本書の目的として、悲惨な死を強いられた若者たちの無念さを思い、大量餓死をもたらした日本軍の責任と特質を明らかにして、そのことを歴史に残すこと。
 
そして大量餓死は人為的なもので、その責任を死者に代わって告発すること、と述べられています。
 
まずはその凄惨な状況を、さまざまな証言をもとに紹介されています。
 
例えば、アウステン山では、飢えた兵士の間に次のような不思議な生命判断が流行り出したそうです。
 
そしてこの非科学的・非人道的な生命判断は決して外れなかったとのことです。

 立つことの出来る人間は…寿命三〇日間
 身体を起して坐れる人間は…三週間
 寝たきり起きられない人間は…一週間
 寝たまま小便するものは…三日間
 もの言わなくなったものは…二日間
 またたきしなくなったものは…明日 (p.20)

 なおレイテ島で同様の経験をされた大岡昇平氏は『野火』(新潮文庫)の中で、餓死に瀕した兵士を次のように描写していましたっけ。
彼は膝の間の土をつかんで、口に入れた。尿と糞の臭いがした。
「あは、あは」
 彼は眼を閉じた。
それを合図のように、蠅が羽音を集め、遠い空間から集って来た。
顔も手も足も、すべて彼の露出した部分は、尽くこの呟く昆虫によって占められた。
 
蠅は私の体にも襲いかかった。私は手を振った。
しかし彼等は私と、死につつある彼と差別がないらしく―事実私も死につつあったのかもしれない―少しも怖れなかった。

「痛いよ。痛いよ」
 と彼はいった。それからまた規則正しい息で、彼は眠るらしかった。
 
雨が落ちて来た。
水が体を伝った。蠅は趾(あし)をさらわれて滑り落ちた。
すると今度は山蛭が雨滴に交って、樹から落ちて来た。
遠く地上に落ちたものは、尺取虫のように、体全体で距離を取って、獲物に近づいた。

「天皇陛下様。大日本帝国様」
 と彼はぼろのように山蛭をぶら下げた顔を振りながら、叩頭した。(p.128~130)
 さてそれでは、なぜこのような大量餓死が引き起こされたのか。
 
著者は、兵士の人権に配慮しない日本軍の体質に、その原因を見ています。
 
例えばフランス軍は、革命によって解放され独立自営の農民が中心であり、彼らは革命によって成立したフランス国家を守ることは、解放された自分たちの身分と土地を守ることになるのを知っていたのですね。
 
それだからこそ、自発的な戦闘意志と愛国心をもち、ナポレオン軍の連戦連勝を支えたわけです。
 
しかし明治維新は独立自営の農民層を生み出さず、貧困な小作農民を再生産させただけであったため、彼らを徴集してつくった日本軍ではフランス国民軍にみるような自発的戦争意志を期待することは不可能でした。
 
よって兵士に対して、服従が慣性化するまで兵士を「監視」し、きびしい懲罰を加えることで服従を強制することになり、兵士の人権を蔑ろにする体質を生み出したと述べられています。
 
さらに日露戦争の呪縛も指摘されています。
 
日露戦争では、砲兵火力の劣勢・装備の不足という大きな弱点を持つ日本陸軍が、やっとの思いで勝利を得たため、軍中央は精神力で勝てたのだと信じ込んでしまったのですね。
 
以後も軍備の劣勢は改善されず、そのため白兵戦を主体とする積極果敢な攻撃至上主義が作戦の中心となり、兵站や補給、給養や衛生は軽視されます。
 
つまり、兵士の生命を病気や飢えで失うことへの罪悪感が欠落していたのですね。
 
そして決定的だったのが、積極果敢な攻撃至上主義を徹底させるための捕虜の否定と降伏の禁止です。
 
そのため、孤立しあるいはとり残されて、全体の戦況に何の寄与することもなくなり、ただ自滅を待つだけとなった部隊でも、降伏が認められない以上、餓死か玉砕以外に選ぶ道はないという場面が頻出したわけです。
 
もし降伏が認められていれば、実に多くの生命が救われたでしょう。
 
さらに責任の所在は、補給輸送を無視した作戦第一主義で戦闘を指揮し、大量の餓死者を発生させた陸海エリート軍人たちにあると厳しく指摘されています。氏は具体的に大本営陸軍部の三人の名をあげられています。
 大本営陸軍部(参謀本部)の中でも、とくに第一(作戦)部長田中新一中将、第二(作戦課長)服部卓四郎大佐、作戦課の作戦班長辻政信中佐の作戦担当責任者の発言権は絶大であった。
対米英開戦から初期の南方作戦を指導したのもこのトリオであって、田中、服部は同じ部長、課長として、辻は戦力班長からシンガポール攻略の第二十五軍参謀としてその名を轟かせた。
いずれも名うての積極論者、強硬論者で、つねに攻勢主導を主張し作戦をリードしたことでも知られている。(p.146)
 この三人がたてた、兵站を無視した無謀な作戦のせいでいったい何人ぐらいの日本兵士が死へと追い込まれたのでしょう。
 
気になってウィキペディアで調べてみると、戦犯として訴追もされず、反省の言もなく、戦後を悠々と生き延び(辻は衆議院議員を四期、参議院議員を一期歴任)、天寿を全うした(辻は東南アジア視察中に行方不明)ようです。
 
独善、専行、人命と人権の軽視、モラルと責任感の欠如、第二第三の田中・服部・辻をつくらないためにも、彼らの所行を教科書で取り上げるべきだと思いますが、今の文部科学省の見識では全く期待できません。
 
その結果が、いまだに国民の命や暮らしを軽視して経済成長第一主義を主導するエリートを再生産されつづける状況につながっているのではないでしょうか。
 
福島第一原発の大事故も、東北・関東大震災の甚大な被害も、これと無縁ではないと思います。
 
日本の近現代史を貫く「人権の軽視」という心性を理解するうえでも、万人必読の書、お薦めです。

宮崎兄弟と辛亥革命

2021-01-26 16:50:34 | 日記

宮崎兄弟と辛亥革命

更新日:2011年11月9日

孫文

孫文の写真1866年、孫文は広東省香山県で生まれました。12歳で長兄の孫眉を頼ってハワイに渡り、西洋文化に触れると、5年後に帰国し、広東・香港の医学校に学びました。

1894年に革命組織・興中会を結成すると、孫文は翌1895年に広東での蜂起を計画しましたが、失敗し亡命を余儀なくされます。しかし、1897年の宮崎滔天との出会いをきっかけに、日本の志士との交流を深めたことで、1905年の中国同盟会の結成に至り、彼はその指導理念として三民主義を唱えました。

孫文を中心とする革命派たちの活動により多くの若者に革命思想が普及した結果、1911年に辛亥革命が勃発します。革命により清朝は倒れ、アジア初の共和国である中華民国が誕生、孫文は臨時大統領に選ばれました。孫文は、1925年3月12日に59歳で亡くなりましたが、宮崎民蔵・滔天兄弟との友情は最後まで続き、孫文自伝には「革命におこたらざる者」として「宮崎兄弟」の名が挙げられています。


孫文と滔天集合写真

孫文と滔天集合写真

(1913年)大正2年 孫文革命成功謝礼のため荒尾市上小路宮崎民蔵家を来訪

 

写真(背景)宮崎兄弟の生家。大正2年3月撮影。再来日した孫文を囲んでの記念撮影。中央左側の背広姿が孫文、その右隣の着物姿が滔天。

背後の梅の木は、現在も生家施設敷地内にあり、樹齢は250年から300年と伝わる。

辛亥革命

1840年から1842年のアヘン戦争や、1894年から1895年の日清戦争の結果、清朝は西欧の帝国主義により半植民地化されていきました。中でも日清戦争で生じた膨大な賠償金は、清朝の財政を圧迫し、半植民地化に拍車をかけました。

そのような中、孫文は、清朝による中国支配をくつがえし、新しい政治体制を創設することを目指す革命運動を展開しました。孫文たちは幾度となく蜂起し、ことごとく失敗しましたが、1911年10月10日武昌蜂起の成功をきっかけに、中国全土の革命的蜂起を促しました。これがいわゆる辛亥革命の起こりです。1911年12月29日、孫文は、南京政府臨時大総統に選出され、翌1912年、国号を中華民国と定めました。1912年2月12日に清朝の宣統帝が退位したことで、270年に及ぶ清朝の歴史が終わり、また、アジア初の共和国の誕生は、長きにわたる中国王朝政治の終焉ともなりました。


必見!フィリピン人の性格

2021-01-26 16:02:08 | 日記

 

必見!フィリピン人の性格

フィリピン人は基本的に優しい性格です。人に気を使ったり、手を差し伸べてくれたり、すぐに仲間に入れてくれたり寛容です。しかし意外な一面に遭遇し戸惑う事もあります。フィリピンを訪れた時、無用なトラブルを避け、楽しく滞在するためにフィリピン人の性格を把握しておく事は大切な事です。ここでは長い付き合いのフィリピンで個人的に感じた事、また多くのフィリピン経験者の意見の中でなるほどと思った事をまとめてみました。

*フィリピン人は家族が一番大事と考える

自分の家族をもっとも大切なものと考え何事にも最優先にします。
フィリピンはどちらかと言うと大家族で、2世帯、3世帯が一つ屋根の下に住む事も普通です。

日本の家族観や家庭環境とはまるで違い普段の付き合いの中でなじめない事も多くありますが、ファミリーへの考え方を尊重してフィリピン人と付き会うべきです。

またフィリピン人を誘った時「今日は娘の誕生日だから」などと断られる場合無理強いはしないことです。


*フィリピン人はプライドが高い

自分の面子をつぶされる事は大嫌い。一方、相手の面子を潰さないことにも気を使います。

人前で怒ったり怒鳴りつけたりしない事…ある日系企業のマニュアルにはミスをしても絶対に人前で叱らない、別室に呼び出し2人だけで注意するように書かれているようです。

道路上で怒ったり大声を出したりしない、周りの人たちから反感の眼差しが、時には口出しまでしてくる場合もあります。


フィリピン人は気に入った人にはとても親切

気に入った人には惜しみなく手助けをしてくれます。嫌われると完全無視。


*フィリピン人は時間にルーズ

約束した待ち合わせ時間に来る事はほとんどありません。時間の重要性が日本人の感覚とまるで違います
1時間遅刻は当たり前。交通機関が発達していないので時間通りに目的地に着きません、それを言い訳にすれば誰も文句を言わないという風潮もあるようです。

約束の時間は念には念を入れて伝える事、もしくは最初から遅れてくるもんだと思っておく事。


*フィリピン人は分からない事まで分かったと言う

タクシーに乗った時行き先を言うと、OKという返事が返ってきます。

しかしある程度進むと…どこに行く?なんて返答が返ってきたりもしますフィリピン人、わからないことをわからないって言わないんです。

とにかくその場をしのぎ、後々の事は何とかなる!という考え。

とにかく!!こちらの人のノープロブレム!!!という言葉は信じてはいけません(笑)


*フィリピン人は楽天的金銭感覚

お金はある時にあるだけ使って貯金などしません。無くなったらその時はその時、何とかなるという考え方。

いっぺんに多くの金や余分な金を渡さないこと。エ~そんなものまで買っちゃったの~と言う事になり「お金がたりない」と言われる事になります。


*フィリピン人はおしゃべり好きしかも声がでかい

とにかくよく喋ります。そして会話が最初の内容からどんどん外れていきます。
気を許すと何時間でもしゃべるはめになるので切り上げ時をうまく作るか用意しておくこと。重要な話は横道に外れた場合無理矢理にでももとの道に戻すようにする事。そうしないといつまでも結論が出なくなります。


*フィリピン人は噂話が大好き

おしゃべり好きだから結局こうなります。
特に男女関係の噂が大好きで伝わるのも早いです。結果的に秘密ごとを守る事ができません。

フィリピン人に「この話は内緒だけど」って言ったら、全員に伝えてくれと同じ意味になります。


*フィリピン人は記憶力がいい

何かの記念日などは年月日までしっかり覚えている。約束したことなどは忘れない。

誕生日はもちろん、結婚記念日、誰かが無くなった日など恐ろしく多くのデータが頭の中にインプットされていて「今日は誰々の何の日だね」など突然言い出されます。

また「今日は犬のハチが死んだ日だ」というような事まで。

特に重要な日はメモなどして忘れないようにした方がいいです。また約束事などには
気を使いましょう。


*基本的に恥ずかしがり屋です、が…

対人関係ではシャイなところが多いですが楽しむときは別です。

恥ずかしがり屋の割には人前でのカラオケやダンスなどが大好き。イベントなどへの飛び込み参加も大好きで我先にと突進します。そのギャップに驚かされます。フィリピン人と仲よくなる一番の早道はカラオケです。


*自己主張の強い女性が多い 

フィリピンでは女性の社会地位が比較的高く自分の考え方、主義、主張をきちんと表現します。

職場などでは生意気という態度を取らずにきちんとコミュニケーションをとる事がトラブルを防ぎます。

家庭内では働き手の男が仕事がなかったり、給料が安かったりする事があり、結果的に女性の意見が強く反映されるという一面もあります。


*近所迷惑という感覚があまりない

路上での大騒音のカラオケ、犬の吠える騒音などに文句を付ける事がありません。

日本ではすぐにトラブルになるような事がフィリピンでは寛容であったりします。

実際は近所の人たちも迷惑なはずですが口に出して言わないのは、どこでも同じような事をするのでお互い様という感覚なんでしょう。

そういう状況になったらできるだけ我慢するか、やんわりとその家の奥さんに伝えるしか方法はなさそうです。

フィリピンでは細かい事は気にしないで広い心で過ごさなくてはやっていけないと思います


なぜ今「フィリピン」なのか?世界中の投資家が注目する理由

2021-01-26 15:36:40 | 日記

なぜ今「フィリピン」なのか?世界中の投資家が注目する理由

配信

 
LIMO

爆発的な人口増加をベースに、日本の高度経済成長と重なる勢いを見せるフィリピン。そんなフィリピンには今、世界中の投資家が注目しています。

なぜ今?フィリピンに注目が集まっている理由とは

注目が集まる「コールセンター・アウト・ソーシング事業」

私がフィリピンで金融事業を始めた理由

フィリピンと日本の架け橋に

インタビュイーのプロフィール

高橋 あき


「プーチン宮殿」暴露動画の衝撃 遠藤良介

2021-01-26 15:20:24 | 日記
2021.01.25 (月)

「プーチン宮殿」暴露動画の衝撃 遠藤良介(産経新聞論説委員、前モスクワ支局長)

 猛毒の神経剤による毒殺未遂に遭ったロシアの反体制派指導者、ナワリヌイ氏の陣営が、プーチン露大統領は南部の黒海沿岸に秘密の「豪華宮殿」を保有しているとインターネット上の動画で告発した。

政権は反体制派の抑圧に邁進する構えだが、プーチン氏の威信低下にはもはや歯止めがかかりそうにない。

敷地はモナコの39倍

動画は「プーチンのための宮殿 最大の賄賂の歴史」と題され、2時間近くに及ぶ。

ナワリヌイ氏はこの中で、南部クラスノダール地方にある宮殿がプーチン氏のもので、建設費は少なくとも推定1000億ルーブル(約1400億円)、敷地面積は「モナコ公国の約39倍にあたる7800ヘクタール」だとしている。

これがプーチン体制の「汚職の実態だ」と訴えた。

ドイツで治療を受けていたナワリヌイ氏は17日にロシアへ帰国した直後、空港で司法当局に拘束された。

ナワリヌイ氏が率いる「汚職との戦い基金」は1月19日、報復としてこの動画を公開し、政権との対決姿勢を鮮明にした。

動画の再生回数は25日時点で8000万回を超え、ロシア人の2人に1人は視聴した計算になる。

ナワリヌイ氏らは当局の警備をかいくぐってドローンを飛ばし、宮殿の空撮に成功。

建設関係者の証言や入手した設計図をもとに、宮殿には屋内スケートリンクやカジノ、劇場などが備えられ、ぶどう畑やワイン工場が併設されていると指摘した。

登記簿や企業の財務記録などから、プーチン氏の友人である実業家や国営企業の資金が宮殿建設に回されたことも突き止めた。

政権にボディブロー

23日には動画の呼びかけに応じて全国各地でナワリヌイ氏の釈放を求める大規模デモが行われ、モスクワでは約4万人が参加した。

ロシアでは9月、経済低迷が長期化する中で下院選が予定され、与党の苦戦と政権基盤の弱体化が予想されている。

政権は反体制派を抑圧する法制の整備を急速に進めており、当面は国内の締め付けを強めるのが必至だ。

23日のデモでは全国で3000人以上が治安当局に拘束された。

しかし、プーチン氏とその友人らが国を食い物にしている実態が今回の動画で暴かれたことは、ボディブローのようにじわじわと政権に打撃を与える。

政権が締め付けを強めれば強めるほど、反体制運動が先鋭化していくに違いない。

最近は政権の統制が効きにくいネットメディアでプーチン氏の愛人やその蓄財に関する疑惑も報じられるなど、国民思いの指導者を演じてきたプーチン氏のイメージは急速に悪化している。

ロシアの内政は流動化の時期に入ったとみるべきだ。