「餓死した英霊たち」(藤原彰 青木書店)読了。まずは衝撃的な一文から。
この戦争で特徴的なことは、日本軍の戦没者の過半数が、いわゆる名誉の戦死ではなく、餓死であったという事実である。 「靖国の英霊」の実態は、華々しい戦闘の中での名誉の戦死ではなく、飢餓地獄の中での野垂れ死にだったのである。(p.3)藤原氏の推計による病死者、戦地栄養失調症による広い意味での餓死者は、合計で127万6240名に達し、全体の戦没者212万1000名の60%強という割合になるそうです。 戦死よりも戦病死の方が多い。
それが一局面の特殊な状況ではなく、戦場の全体にわたって発生したことが、この戦争の特徴であり、そこに何よりも日本軍の特質をみることができます。
著者は本書の目的として、悲惨な死を強いられた若者たちの無念さを思い、大量餓死をもたらした日本軍の責任と特質を明らかにして、そのことを歴史に残すこと。
そして大量餓死は人為的なもので、その責任を死者に代わって告発すること、と述べられています。
まずはその凄惨な状況を、さまざまな証言をもとに紹介されています。
例えば、アウステン山では、飢えた兵士の間に次のような不思議な生命判断が流行り出したそうです。
そしてこの非科学的・非人道的な生命判断は決して外れなかったとのことです。
立つことの出来る人間は…寿命三〇日間 身体を起して坐れる人間は…三週間 寝たきり起きられない人間は…一週間 寝たまま小便するものは…三日間 もの言わなくなったものは…二日間 またたきしなくなったものは…明日 (p.20) なおレイテ島で同様の経験をされた大岡昇平氏は『野火』(新潮文庫)の中で、餓死に瀕した兵士を次のように描写していましたっけ。 彼は膝の間の土をつかんで、口に入れた。尿と糞の臭いがした。 それを合図のように、蠅が羽音を集め、遠い空間から集って来た。 顔も手も足も、すべて彼の露出した部分は、尽くこの呟く昆虫によって占められた。 蠅は私の体にも襲いかかった。私は手を振った。 しかし彼等は私と、死につつある彼と差別がないらしく―事実私も死につつあったのかもしれない―少しも怖れなかった。
雨が落ちて来た。 水が体を伝った。蠅は趾(あし)をさらわれて滑り落ちた。 すると今度は山蛭が雨滴に交って、樹から落ちて来た。 遠く地上に落ちたものは、尺取虫のように、体全体で距離を取って、獲物に近づいた。 さてそれでは、なぜこのような大量餓死が引き起こされたのか。 著者は、兵士の人権に配慮しない日本軍の体質に、その原因を見ています。
例えばフランス軍は、革命によって解放され独立自営の農民が中心であり、彼らは革命によって成立したフランス国家を守ることは、解放された自分たちの身分と土地を守ることになるのを知っていたのですね。
それだからこそ、自発的な戦闘意志と愛国心をもち、ナポレオン軍の連戦連勝を支えたわけです。
しかし明治維新は独立自営の農民層を生み出さず、貧困な小作農民を再生産させただけであったため、彼らを徴集してつくった日本軍ではフランス国民軍にみるような自発的戦争意志を期待することは不可能でした。
よって兵士に対して、服従が慣性化するまで兵士を「監視」し、きびしい懲罰を加えることで服従を強制することになり、兵士の人権を蔑ろにする体質を生み出したと述べられています。
さらに日露戦争の呪縛も指摘されています。
日露戦争では、砲兵火力の劣勢・装備の不足という大きな弱点を持つ日本陸軍が、やっとの思いで勝利を得たため、軍中央は精神力で勝てたのだと信じ込んでしまったのですね。
以後も軍備の劣勢は改善されず、そのため白兵戦を主体とする積極果敢な攻撃至上主義が作戦の中心となり、兵站や補給、給養や衛生は軽視されます。
つまり、兵士の生命を病気や飢えで失うことへの罪悪感が欠落していたのですね。
そして決定的だったのが、積極果敢な攻撃至上主義を徹底させるための捕虜の否定と降伏の禁止です。
そのため、孤立しあるいはとり残されて、全体の戦況に何の寄与することもなくなり、ただ自滅を待つだけとなった部隊でも、降伏が認められない以上、餓死か玉砕以外に選ぶ道はないという場面が頻出したわけです。
もし降伏が認められていれば、実に多くの生命が救われたでしょう。
さらに責任の所在は、補給輸送を無視した作戦第一主義で戦闘を指揮し、大量の餓死者を発生させた陸海エリート軍人たちにあると厳しく指摘されています。氏は具体的に大本営陸軍部の三人の名をあげられています。
大本営陸軍部(参謀本部)の中でも、とくに第一(作戦)部長田中新一中将、第二(作戦課長)服部卓四郎大佐、作戦課の作戦班長辻政信中佐の作戦担当責任者の発言権は絶大であった。 対米英開戦から初期の南方作戦を指導したのもこのトリオであって、田中、服部は同じ部長、課長として、辻は戦力班長からシンガポール攻略の第二十五軍参謀としてその名を轟かせた。 いずれも名うての積極論者、強硬論者で、つねに攻勢主導を主張し作戦をリードしたことでも知られている。(p.146)この三人がたてた、兵站を無視した無謀な作戦のせいでいったい何人ぐらいの日本兵士が死へと追い込まれたのでしょう。 気になってウィキペディアで調べてみると、戦犯として訴追もされず、反省の言もなく、戦後を悠々と生き延び(辻は衆議院議員を四期、参議院議員を一期歴任)、天寿を全うした(辻は東南アジア視察中に行方不明)ようです。
独善、専行、人命と人権の軽視、モラルと責任感の欠如、第二第三の田中・服部・辻をつくらないためにも、彼らの所行を教科書で取り上げるべきだと思いますが、今の文部科学省の見識では全く期待できません。
その結果が、いまだに国民の命や暮らしを軽視して経済成長第一主義を主導するエリートを再生産されつづける状況につながっているのではないでしょうか。
福島第一原発の大事故も、東北・関東大震災の甚大な被害も、これと無縁ではないと思います。
日本の近現代史を貫く「人権の軽視」という心性を理解するうえでも、万人必読の書、お薦めです。
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宮崎兄弟と辛亥革命
孫文
1866年、孫文は広東省香山県で生まれました。12歳で長兄の孫眉を頼ってハワイに渡り、西洋文化に触れると、5年後に帰国し、広東・香港の医学校に学びました。
1894年に革命組織・興中会を結成すると、孫文は翌1895年に広東での蜂起を計画しましたが、失敗し亡命を余儀なくされます。しかし、1897年の宮崎滔天との出会いをきっかけに、日本の志士との交流を深めたことで、1905年の中国同盟会の結成に至り、彼はその指導理念として三民主義を唱えました。
孫文を中心とする革命派たちの活動により多くの若者に革命思想が普及した結果、1911年に辛亥革命が勃発します。革命により清朝は倒れ、アジア初の共和国である中華民国が誕生、孫文は臨時大統領に選ばれました。孫文は、1925年3月12日に59歳で亡くなりましたが、宮崎民蔵・滔天兄弟との友情は最後まで続き、孫文自伝には「革命におこたらざる者」として「宮崎兄弟」の名が挙げられています。
孫文と滔天集合写真
(1913年)大正2年 孫文革命成功謝礼のため荒尾市上小路宮崎民蔵家を来訪
写真(背景)宮崎兄弟の生家。大正2年3月撮影。再来日した孫文を囲んでの記念撮影。中央左側の背広姿が孫文、その右隣の着物姿が滔天。
背後の梅の木は、現在も生家施設敷地内にあり、樹齢は250年から300年と伝わる。
辛亥革命
1840年から1842年のアヘン戦争や、1894年から1895年の日清戦争の結果、清朝は西欧の帝国主義により半植民地化されていきました。中でも日清戦争で生じた膨大な賠償金は、清朝の財政を圧迫し、半植民地化に拍車をかけました。
そのような中、孫文は、清朝による中国支配をくつがえし、新しい政治体制を創設することを目指す革命運動を展開しました。孫文たちは幾度となく蜂起し、ことごとく失敗しましたが、1911年10月10日武昌蜂起の成功をきっかけに、中国全土の革命的蜂起を促しました。これがいわゆる辛亥革命の起こりです。1911年12月29日、孫文は、南京政府臨時大総統に選出され、翌1912年、国号を中華民国と定めました。1912年2月12日に清朝の宣統帝が退位したことで、270年に及ぶ清朝の歴史が終わり、また、アジア初の共和国の誕生は、長きにわたる中国王朝政治の終焉ともなりました。