野球の「一本足打法」としては
- 王貞治
- かつてのイチロー
が知られています。上は共に左打者ですが、いずれも打席で投手側の足をあげて、やってくるボールに対してバットを振る時期をねらっているのだと考えられます。
芽がで出なかった若き日の王貞治を
コーチとして指導し、王に「一本足打法」を開眼させ世に出した荒川博が 2016/12/04 に86歳でなくなったとのことです。
王・長嶋の時代が遠くに去ってしまって久しいのですが、その王の若い頃を指導した人が亡くなるとは、さらに時代が遠くへ去ってしまったようです。
これとは別ですが、今年つぎのようなことがありました。
逆一本足打法:スポーツ報知 2016年7月12日
何と、打者が打席で
捕手側の足を上げる
とのこと。
- 通常の「投手側の足を上げる」のとは逆ですね。
- これは前代未聞・空前絶後、あるいは言語道断かも。
- これが「理にかなった」手法なのでしょうか。
多くの場合、「理にかなった」手法がよしとされるものですが、それでも、やがて「理にかなった」とはみなされなくなり、完全に否定されてしまう、そんなことが、よくありました。
たとえば「水銀」:今では危険とみなすことが多いのですが
薬品として飲用されたことがあるそうで、また他の物質にとって「理にかなった」製造技術としても知られていたようです。
しかしやがて、人体へ悪影響を与えることが明らかになり、かなりの時間を経過した後、今では「理にかなった」手法とはみなされず、食物連鎖により蓄積もされるため防御設備が必要で、製造・使用が厳しく制限される時代となっております。
また、かつて米MLBでは
各球団が独自の経営方針をもつことが「理にかなった」とされ誰も疑問をもたなかったものですが、球団の資金格差が無視できないほど広がり、選手の年俸も高騰し、各種宣伝媒体が発達したこともあり、まるで共産主義国の手法のように利益を一括で管理し、各球団に分配されるようになりました。〔詳しい配分方法については把握しておりません。〕
今では、現在のほうが「理にかなった」手法とみなされているほどで、銃で自分を守る権利を法的に認めるほど個人の自由を尊重する国としては、驚くべき変身でした。
このように
「理にかなった」とは、一見して普遍性があるようにみえますが、あくまでも限られた条件の中で「理にかなった」とされるだけで、その条件が満たされなくなれば否定される、ということです。
さて、この逆一本足打法が「理にかなった」ものなのかどうか、もう少し時間が必要なようです。
最後に「理にかなった」に関するいくつかの話をご紹介して終わります。
卒業式、これは一つの世代から次の世代に語りかけるという、大きな責任を伴っている。卒業生には、世の中の現実について話したいのだが、偏見は持ってもらいたくない。自信を持ってもらいたいが、うぬぼれてほしくはない。理にかなったリスクであれば挑戦してもらいたいが、傷ついてほしくはない。:P.78 リー・アイアコッカ 「アイアコッカの直言」 朝日新聞社
- 現実を直視すべき・・しかし偏見に至らないで欲しい
- 自信をもつべき・・・・しかしうぬぼれないで欲しい
- 挑戦の心をもって・・しかし傷つかないで欲しい
この、「なんでもないように見える多様性」に深く心を打たれる次第です。
あるロシア人にとって、神の存在を信じることは愚かな迷信であり、イエス・キリストをどうして神と見なし得るのか理解出来ないようであった。
仏教は、真実を見いだした人間を救うということで、いくらかは道理にかなった信仰であると考えている。:P.215 ロイス・フィッシャー=ルーゲ「ソ連市民200人との対話」平凡社
宗教(キリスト教・仏教・イスラム教)には
それぞれ限界があり、否定する人も多いのですが、まだまだ現在では、宗教を国家統治の手段としていることがほとんどである、といった状態です。もし宗教がなければ、とんでもない社会になるという意味ですね。
もちろんこの場合、共産主義も一定以上を疑ってはならないという意味で、宗教の一つとして含めております。
「信じるものだけが救われる」などとする宗教には、「理にかなった」ことなど、なさそうにみえますが、それぞれの信者にしてみれば、「理にかなった」信仰対象なのでした。少なくとも、やむを得ず従っている、あるいはこれを「利益を得るために」狡猾(こうかつ)に活用している、と言えます。
むつかしいことですが、すべての人が「自分が一番正しい」と信仰しているのですね。
それはそれでやむを得ない部分もあり、しかもそのことを通常は自分で理解しているものです。
しかし自分自身が見えない、それが中国・韓国なんでしょう。やがて論外の北朝鮮もそうだった、と明白になるはずです。
これが主たる理由で
どんなに宗教対立が起りどんな深刻な状況に陥ろうとも、「まだ信仰が足りない」という奇妙な論理で「理にかなった」信仰を続けさせようとします。
つまり「自由」を強調すると、あまりにもひどい混乱がありますが、その裏で「不自由」ですが「理にかなった」とされる宗教の利用価値がまだまだあるのでしょう。世界中を見渡せば、そんな国がたくさんみられるのでした(笑)。
「経済」を脅しの手段とする国
世界各国が「中国を経済大国へと導いたこと」がそもそも誤りだったようですが、今では中国が経済力を「威嚇の手段」としていることは、明らかですね。
韓国・台湾・フィリピンあるいはカンボジアなどの動きをみていると、納得されるかたも多いことでしょう。ニコニコ笑顔で経済的に接近し、その国を支配した後で、経済的に威嚇(邪悪な本音をあらわ)し始めます。
中国は今、かつて宗教的に侵略されたことへの復讐をしているように見え、経済が宗教・共産主義にとって代わる重要な手段となっています。中国共産党が崩壊するまで、この「理にかなった」威嚇は、もうやめられないほどの快感なのでしょう。この下衆〔げす〕の中国共産党に乾杯!
好き勝手なことを申し上げてきましたが、さてさて、皆様はどう思われますか。