本人が否定しようが、肯定しようが、誰にも醜聞があります。ここでは最近の「中国の醜聞」を集めてみました。
必要な方のために出典も明示し、あればリンクさえ提示しています。
移住した男が隣人に自分の犬を撃ち殺され、訴えると宣言したのだが、友人に諌められたその男の怒りどころには笑ってしまう。
「その犬はどのくらいするのか」と友人に尋ねられ、「その犬には価値はないが、彼はその犬を殺すほど意地が悪いのだから、彼にはその代償を払ってもらう」と答えたのだ。
西洋であれば、そのような訴訟はお金で解決するよう退けられ、それで終わりになるだろう。だが中国では、その後数世代にわたる確執の原因となり、両者が零落するまで続くのだ。
:P.250-251 アーサー・H・スミス「中国人的性格」石井宗晧・岩﨑菜子訳 中公叢書2015年8月25日初版発行
やっぱり清(中国)には「法」というものが存在しなかったようで、これは今でも変わりがありませんね!
どんなことであれ、「法」で判断するのではなく、この対立が数世代にわたり両者が零落するまで続く確執となる、とは一体どういうことでしょうか。
これは日本の江戸時代の「合法的な仇討ち(あだうち)」であり、未来永劫に続くはずがない制度だと言えるでしょう。日本ではその後、この制度は廃止されています。子々孫々にまで災いが続いてはならないのです。
ところが中国・韓国では、まだ日本の江戸時代が続いているようなんです。
とにかく中国(韓国もそう)にふさわしい言葉は
ケンカ・対立・不和・亀裂
なのでしょう。
たとえ中国国内のことであっても違和感をもちますが、こういった環境〔ケンカ・対立・不和・亀裂〕下で育った中国人が海外へ出かける時代になり、無数の問題を起こしています。
対立そのものはいいとしても
話し合うという習慣がない・改善など考えたことがない(禁止されてきた)ので、旧態依然とした醜態を未来永劫さらけ出し続けることでしょう。
- これを文化摩擦などとは言えません。単なるマナーの問題です。中国ではマナーが発達しなかったのであり、これからもそうであり続けることでしょう。どこでも中国流が通用するはず、という思い込みが世界中で深刻なトラブルを起こしているのです。マナーとは自分を振り返り、相手を尊重するという姿勢のことであり、文化以前のことなんです。
- また「日本人もかつて海外で嫌われた」で済ませてはいけません。中国人には自分を見つめるという習慣がないのですから。
法が
これらのすべてを解決してくれるとまでは言えませんが、中国には「これらの問題を法によっていくらか緩和させる」という考え方さえ、みられません。もう永遠に今の状態が続きそうなんです。
儒教文化の本質は尚古主義(しょうこしゅぎ)・伝統主義にある。儒教は「厚古薄今」、つまり古きを重んじ、今日を軽んじる価値観と歴史観を持ち、なんでもかんでも古きをモデルとし、伝統を護持して、人間の創造性を骨抜きにする。
今日でも、中国では伝統からはずれたもの、新しいものを求めることを「標新立異」として、教師たちが小学生時代から「標新立具するな」と叱り、徹底的に人間の創造的本能-と精神を叩き潰し、ひたすら伝統の遵守と体制への奉仕を「善」としている。
:P.216 黄文雄「儒禍 中国2000年の呪縛」2014年9月20日初版第1刷発行 光文社
なんでもかんでも、新しいものに飛びつくという姿勢はどうかと思います。
しかし中国庶民は、長年にわたって改善を禁じられたため、改善するという習慣をもっていません。
よって中国人には、現実の問題をどう解決するかというときに、知恵を出し合うのではなく、過去の都合のいい情報の中に正解を探し求めようとする傾向がみられるのです。
現実を直視する勇気をもてないからこそ、いつもいつも「美しい(はずの)過去に戻り」、うぬぼれという美酒に酔いたいのでしょうか。
中国人は、法律は現状に合わせて刻々変わるべきものではなく、定まった過去に存在すると考えているようです。
中国人が「世界を制覇した」という過去の錯覚を、現代でも続けているのは、そこに源流があるようです。
現在の国際法など無視していますから、中国人には、冷静に現在を見る、という「ごく普通の芸当」など無理なようです。
恐ろしい地域と言えます。そしてそれが改善される気配がまったく見られません。世界は、この幼児をどう扱えばいいのでしょう。
本社説が結論として言う、「世界経済との一体化によって、中国が徐々に開かれ、国際協調ラインをとって、やがて欧米の自由・開放の体制に近いものに変貌してゆくだろう」という期待感は今や全くの期待感にとどまり、現実は逆の方向に向かっている、というのは的確な指摘です。法の支配や自由という基本的価値を否定する中国と今後いかに関与して行くかは、古くて新しい課題です。:Wedge 2016/12/7(水)
「法の支配を否定する中国が米国・EUをWTO提訴」
中国はこんな笑いたくなるような落語を演じています。
ヤクザが総会屋を提訴するようなものでしょうか。中国に法律などあり得ないと世界中が理解し始めたのですが、「中国共産党最後のもだえ」なのかも知れません。
法の支配があり得ない国が、これからもずっと世界中を相手に貿易できて発展し続けるという発想が、あまりにも貧弱ですね。
中国はこのままあと1000年近く推移するはずですが、私たちがもっていた「近い将来、必ず改善されるはず」とする淡い期待が、もろくも消えてしまったようです。
中国を国際社会に引っ張り出すのが重要
とする人がいましたが(まだ実際にいますが)、この20年ほどで中国が富を得て力をつければつけるほど、国際社会を敵に廻し始めており、健全な国際社会に入る見込みはありません。
あとは世界中が、経済制裁するしか、ないのでしょう。
♪淡い期待♪
「中国は、改心する可能性があるかも・・・・・・」
「中国も、立派な板場(月の法善寺横町)に・・・・・・」
話は脱線しますが ←あんたの話はいつも脱線ぢゃ!
歌手の藤島桓夫(ふじしま たけお 1927-1994)は大阪出身、作詞家の十二村哲(とにむらてつ)は北海道なので、「月の法善寺横町」の場合、作詞が先で、歌手は後で決まったのでしょう。
というのは
上方落語では「横町」は「よこまち」と読ませ
江戸落語では「横町」を「よこちょう」と読ませる
ようだからです。
「月の法善寺横町」は、「つきのほうぜんじよこちょう」
大阪出身の作家による小説でも「つきのほうぜんじよこちょう」
でした。どちらも「つきのほうぜんじよこまち」ではないところがおもしろいですね。←おもしろがるのは、あんだだけ!
郵便番号データ2016年10月31日版では
- 地名の「横町」を「よこまち」と読ませるのは46件
- 地名の「横町」を「よこちょう」と読ませるのは29件
京都都市上京区一条横町(カミギョウク イチジョウよこちょう)と京都に「よこちょう」が多かったようですから、落語と実際とでは違うのかも知れません。
ついでに言えば
東京の地下鉄銀座線で上野から浅草へ向かうと、上野から順に稲荷町(いなりちょう)・田原町(たわらまち)という駅名です。東京では、隣の駅でさえ「ちょう」と「まち」で対立しております!
なお俵万智(たわら まち)は歌手、いや失礼歌人ですので、田原町とはなんの関係もありません。
大阪には、宗右衛門町(そうえもんちょう)や馬場町(ばんばちょう)もありますが南森町(みなみもりまち)もあるのです。
「ちょう」と「まち」の使い分けは、地域によって傾向があるとも言えますが、さっぱりわけが分りません。
あれだけ国内を弾圧していたら
中国共産党が崩壊したとき、ぞっとするようなことが起きそうです。
そうです、政権が交代するときに、平和裏に交代するためには、普段から「弾圧・一党独裁」をしないことなんです。この基本的なことさえ守られていない中国は、いまどきの「価値観」をもたない封建国家なんでしょう。
もう一度「価値」について考える価値がありそうです(笑)。
さてさて、皆様はどう思われますか。