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人の心に花一輪

2016-12-08 13:04:51 | お話
🌸人の心に花一輪🌸


僕のおやじは昭和27年5月11日、61歳の若さでこの世を去りました。

親父は死ぬ時、僕を枕もとに呼んでこう言いました。

「無理して俺の葬式を出さなくていいよ。

うちが貧乏だってことは世間みんなが知っている。

俺が死んだら、布に包んでリヤカーに乗っけて、そのまま火葬場へ持ってけ。

景気の良さそうな葬儀があったら、『ついでにやいていただけませんか』って、焼いてもらえ。

その代わり墓を作って、俺とおじいちゃんおばあちゃんを入れてくれ。

ただ、その前に、お客さんが来てもびくともしない家を作れ。

母ちゃんを大事にしろよ。

妹と仲良くしろよ」

息を引き取る寸前まで僕のことを案じ、

生きる道を教えてくれたおやじにありがたい気持ちでいっぱいでした。

僕は落語の師匠に電話をかけ、

「ご心配おかけしました。

おやじは今朝死にました。

遺言で葬式は出しません」

と言ったら師匠が

「お前のおやじの葬式のお金は、わいに出させろ。

カイカイの礼や」

と言うのです。

「カイカイの礼」というのは、師匠はよく体中にブツブツが出て、

それがかゆいので、「カイカイ」と呼んでいたんですね。

僕はいつも師匠の体に油薬を塗って、天花粉(てんかふふ)でおさえ、

着物が汚れないように、さらしの服を着せ、その上から着物、袴を身につけさせて高座へ上げていました。

高座を降りた師匠が風呂に入っている間に、そのさらしの服を洗います。

でも油を吸っているので、一晩バケツのお湯につけて翌朝洗うのです。

1日に2枚ずつ洗うのが僕も仕事でした。

風呂から出た師匠の背中に僕はまた薬を塗り、

前に回って、お腹や腕や足にも塗ります。

そして大事なところにも、「失礼します」と一言断って、特に裏のほうは念入りに塗るのです。

すると師匠は、天井の一角を見上げながら、

「すまんなぁ。かかぁにもさせんようなことをさせて」

といつも言います。

その度に、師匠の目に涙が溜まっていました。

まぶたで堪えきれない涙がポロリと落ちるのを見たとき、

「あぁ、おやじが言っていた『人の心に花一輪』ってこれだ。

俺は今、師匠の心に一輪の花を咲かせることができた」

と思ったものでした。

「人生、人との出会いだよ。

別れる時に相手の心にトゲを残すな。

花を残して別れてごらん。

その花に実がきて、おまえのところに帰ってくるんだよ。

『人の心に花一輪』を忘れるな」

そう教えてくれたおやじの言葉が初めて理解できました。

こんなことがあって、師匠は「カイカイの礼」とおやじの葬式を出してくれたんです。


葬式の日、僕の家には14もの花輪が届きました。

花輪に包まれて我が家が見えなくなったとき、

「これで父親は、極楽往生してくれるなぁ」

と思いました。


僕は弟子として師匠の体に薬を塗るという、当たり前のことをしただけです。

この「当たり前」に花が咲きました。

でも最近は、当たり前のことを当たり前にする人がだんだん減ってきているそうです。

「先人の声は道しるべ」です。

若者の中には、
「古いんだよ、時代が変わったんだよ。うるせぇなぁ」

と先輩の言葉を聞かない人がいます。

しかし、どう時代が変わっても人間の基本は変わりません。

経験者の言葉は温かく、ときには耳に痛いかもしれません。

でも『良薬は口に苦し』、苦しくて痛い言葉が効くんです。

その言葉を心に留めて生きる人と、

何も聞かない人とでは、

人生どこかで差が出るんじゃないでしょうか。


(「みやざき中央新聞」12/5 桂小金治さんより)


人の心に花一輪を、やってみよう。(^-^)

ノーベル賞への道③

2016-12-08 13:03:35 | お話
根岸ノーベル賞③


(根岸先生が研究者の道を目指されるようになったのは、大学に入ってからですか?)

🔹もともとは電気工学に興味がありました。

特に中学高校の頃は電気いじりが好きで、
神田の駅から須田町まで並ぶ露店によく入り浸っていました。

お小遣いを貯めては、無線だ、ラジオだ、プレイヤーだのをつくる部品を買いに行くんですよ。

本当にたくさんの店が並んでいましたが、

その中に製品がよいというので評判の店がありましてね。

「東通工」といって、おじさんが2人でやっていた。

実は、その店は、今の「ソニー」の前身で、

そのおじさん2人というのは、多分、井深大さんと盛田昭夫さんだったのでは、と思っています。

値段は他の店よりちょっと高いんですが、

それでも物がいいから皆買いたがっていましたね。

その電気いじりも大学受験を控える頃にはやめましたが、

大学に入ってからも電気工学の研究者になろうという気持ちは変わりませんでした。

ところが、ある大手電機メーカーに入った先輩が、

「あそこは、ケチだぞ」

って話を何度もするわけですよ。

確かに当時の花形産業は石油化学で、
東洋レーヨン、旭化成、帝人などの化学繊維産業がものすごい勢いで伸びていました。

私としては電気工学に未練はあったものの、先輩に吹き込まれているうちに、やっぱりやめようと。

それで専攻を応用化学と決めて、高分子の研究室に入りました。

(では、その決断によって科学者として研究への道が開けたと)

🔹そうですね。

大学卒業後は帝人に入社したわけですが、

なぜ帝人を選んだかというと、大学3年の時に試験に通って「帝人久村奨学金」を受けていましてね。

その奨学金は、帝人に入社すれば返済義務はないというものだったので、

奨学金を受ける時点で帝人への入社を決めていました。

今もよく覚えているのが、入社式の社長訓示です。

当時の帝人の社長は大屋晋三さんという非常に有名な方でしたが、

その大屋さんがこうおっしゃったんですよ。

「若者よ、海外に出ろ!10年に1カ国語ずつ学べば、30年で3カ国語が話せるようになる。

そうすれば君達も世界に通用するようになる」

「どんなに頭が冴えていようとも、日本のレベルはたかが知れている。

世界一流レベルに伍してゆくという気宇壮大な気の持ち方がすべての根本をなす」

(心を奮い立たせるような君事ですね)

🔹私は学生時代から「アメリカに留学しよう」という夢を持っていて、

英会話の勉強していましたから、私にとってまさに渡りに船のような話でした。

実は大学3年生の時に大病をしたために1年留年しているのですが、

その時期に小さなグループをつくって英会話の勉強するようになりました。

それはずいぶん役に立ったと思います。

それに入社後、しばらくして山口県岩国市内の研究所に配属されたのですが、

川の向こうが米軍基地だったんですよ。

そこには軍人だけでなく、その家族もいるでしょう。

当然子供たちを教える先生もいたので、

その方に交渉して私たち社員に英会話を教えてもらったこともありました。

(夢を叶えるために努力を積まれていたと)

🔹ただ、当時は企業がお金を出して社員をら留学させてくれるような制度はまだありません。

ですから、お金のない人間にとって、唯一留学できるチャンスだったのが全額奨学金を出すフルブライトでした。

もっとも、その選抜試験というのが難関として有名でした。

毎年、全国から2,000人くらいが応募してきて、最終的には20人くらいしか受からない。

おそらく確率的に言って、私の人生の中で1番難しい試験だったと思うのですが、

おかげさまで無事合格し、

フィラデルフィアにあるペンシルベニア大学大学院への留学が決まりました。

(それはすごいですね)

🔹帝人に入社して2年経ってからのことでしたが、

これは私にとって1つの大きな転機になりました。

やはり夢はドン・キホーテみたいに持つことが大事ですね。


(「致知」1月号 ノーベル賞受賞者 根岸英一さんより)