hideyukiさんの、令和もみんなガンバってますね!笑み字も!Webにも愛と光を!

日々の楽しい話、成長の糧などを綴ります。
楽しさ、感動、知恵が学べる。
(^_^)私はとっても普通の人です。

うちの子

2016-12-09 23:48:40 | 日記
最近、うちの子になりました。
デロンギ、エスプレッソマシーン。
「なぎさ」って命名しました。(^_^)

働きものですよ。
ところで、
今日のもらいもの
ロールケーキ

ミカン

美味しくいただきました。
ありがとうございます。(^_^)

その人の金運は「◯生活」で決まる

2016-12-09 15:43:18 | お話
💰💰その人の金運は「◯生活」によって決まる💰💰


大学2年生の時、スーパーマーケットを経営していた父親から、

「店を継がなら出て行け」

と言われた私は、

「はい。わかりました」

と言って家を出て、ひとり暮らしを始めました。

親から「帰ってきなさい」「元気か」といった連絡は全くありませんでしたが、

それでも私は、親に泣きついたことはありませんでした。

全国を旅して「旅の原稿」を出版社や新聞社に寄稿し、その原稿料で生活したのです。


私が大学のときに、当時、必要だと生活費は、1ヶ月に3万円ほどでした。

実家から出て、大学を卒業するまで、3万円の生活費を引き出しに行くのに、

お金が足りなかったことは1度もありません。

銀行にいくら残っているのかについては関心がなくて、

どんなに残高があろうが、なかろうが、月3万円で生活をしていました。


自分の生活がきちんとできていれば、
お金がいくらあっても、あるいはなくても、同じです。

だから私には、貧乏という概念も、お金持ちという概念もありません。

銀行預金にいくら残っていようが関係なく、
自分の生活は、いつも同じように維持していました。


江戸時代に水野南北(みずのなんぼく)という人がいました。

日本一の観相家といわれ、「節食開運説」を唱えた人物です。

水野南北は、髪結いで3年働いて人相を研究し、

銭湯で3年働いて人の体型を調べ、

火葬場で3年働いて死者の骨相を観察して、

「南北相法」を完成させました。

水野南北が観相学を勉強した結論として、

次のようなことに気がついたそうです。

「人相が貧相である、家相が悪い、墓相が悪い、手相も悪い、

そういう人であっても、非常に興隆で、上がっていく人、非常に幸運の人がいる。

反対に、人相も手相も家相も墓相もよいのに、どんどん落ちていく人がいる。

つまり、人相・手相・家相・墓相は絶対ではなく、例外が必ずある。

その例外というのは、

『入ってきた金額によって、食べるものを変える人はダメになる』

ということだ」

お金が入ってくると贅沢華美な食事になる人は、

落ちて衰運になっていくそうです。

逆に、貧相な人相・手相・家相・墓相であっても、

生活態度や食べるものが変わらない人は、上がっていくそうです。

水野南北は、ひどい凶相で、短命の相の持ち主であり、

長生きしたり成功する相などは持ち合わせていなかったそうです。

しかし、食を慎んだことで運が開け、健康のまま78歳まで生きて、
大きな財を成したといわれています。

水野南北は、こう言い置いて死んでいきました。

「万に一つの誤りもなし。

私は死ぬ前に、ついに万物の宇宙法則を発見した」

彼が発見した宇宙法則は、

「どんな悪相であっても、食を制限すれば開運できる」

というものでした。

どうやら、金持ちになりたかったら、

「贅沢華美な食生活」は、やめたほうがいいみたいです。


(「ありがとうの奇跡」小林正観さんより)


食事は、金運にも、繋がっている。
腸がきれいになって、元気になると、金運も上がりますよね。(^-^)

ノーベル賞への道③

2016-12-09 15:42:21 | お話
根岸ノーベル賞③


(根岸先生が研究者の道を目指されるようになったのは、大学に入ってからですか?)

🔹もともとは電気工学に興味がありました。

特に中学高校の頃は電気いじりが好きで、
神田の駅から須田町まで並ぶ露店によく入り浸っていました。

お小遣いを貯めては、無線だ、ラジオだ、プレイヤーだのをつくる部品を買いに行くんですよ。

本当にたくさんの店が並んでいましたが、

その中に製品がよいというので評判の店がありましてね。

「東通工」といって、おじさんが2人でやっていた。

実は、その店は、今の「ソニー」の前身で、

そのおじさん2人というのは、多分、井深大さんと盛田昭夫さんだったのでは、と思っています。

値段は他の店よりちょっと高いんですが、

それでも物がいいから皆買いたがっていましたね。

その電気いじりも大学受験を控える頃にはやめましたが、

大学に入ってからも電気工学の研究者になろうという気持ちは変わりませんでした。

ところが、ある大手電機メーカーに入った先輩が、

「あそこは、ケチだぞ」

って話を何度もするわけですよ。

確かに当時の花形産業は石油化学で、
東洋レーヨン、旭化成、帝人などの化学繊維産業がものすごい勢いで伸びていました。

私としては電気工学に未練はあったものの、先輩に吹き込まれているうちに、やっぱりやめようと。

それで専攻を応用化学と決めて、高分子の研究室に入りました。

(では、その決断によって科学者として研究への道が開けたと)

🔹そうですね。

大学卒業後は帝人に入社したわけですが、

なぜ帝人を選んだかというと、大学3年の時に試験に通って「帝人久村奨学金」を受けていましてね。

その奨学金は、帝人に入社すれば返済義務はないというものだったので、

奨学金を受ける時点で帝人への入社を決めていました。

今もよく覚えているのが、入社式の社長訓示です。

当時の帝人の社長は大屋晋三さんという非常に有名な方でしたが、

その大屋さんがこうおっしゃったんですよ。

「若者よ、海外に出ろ!10年に1カ国語ずつ学べば、30年で3カ国語が話せるようになる。

そうすれば君達も世界に通用するようになる」

「どんなに頭が冴えていようとも、日本のレベルはたかが知れている。

世界一流レベルに伍してゆくという気宇壮大な気の持ち方がすべての根本をなす」

(心を奮い立たせるような君事ですね)

🔹私は学生時代から「アメリカに留学しよう」という夢を持っていて、

英会話の勉強していましたから、私にとってまさに渡りに船のような話でした。

実は大学3年生の時に大病をしたために1年留年しているのですが、

その時期に小さなグループをつくって英会話の勉強するようになりました。

それはずいぶん役に立ったと思います。

それに入社後、しばらくして山口県岩国市内の研究所に配属されたのですが、

川の向こうが米軍基地だったんですよ。

そこには軍人だけでなく、その家族もいるでしょう。

当然子供たちを教える先生もいたので、

その方に交渉して私たち社員に英会話を教えてもらったこともありました。

(夢を叶えるために努力を積まれていたと)

🔹ただ、当時は企業がお金を出して社員をら留学させてくれるような制度はまだありません。

ですから、お金のない人間にとって、唯一留学できるチャンスだったのが全額奨学金を出すフルブライトでした。

もっとも、その選抜試験というのが難関として有名でした。

毎年、全国から2,000人くらいが応募してきて、最終的には20人くらいしか受からない。

おそらく確率的に言って、私の人生の中で1番難しい試験だったと思うのですが、

おかげさまで無事合格し、

フィラデルフィアにあるペンシルベニア大学大学院への留学が決まりました。

(それはすごいですね)

🔹帝人に入社して2年経ってからのことでしたが、

これは私にとって1つの大きな転機になりました。

やはり夢はドン・キホーテみたいに持つことが大事ですね。


(「致知」1月号 ノーベル賞受賞者 根岸英一さんより)