🏯薬師寺🏯①
🔸小川、薬師寺さんとは長いご縁ですが、村上管主として親しくお会いするのは初めてのことですね。
同年齢の管主と一度ゆっくりお話ししたいと思っていたんです。
🔹村上、はい。私もこの日を心待ちにしておりました。
🔸小川、昨年8月に管主になられて、1年を迎えられたそうですが、
1300年の歴史がある薬師寺の代表になられたわけですから、何かとお忙しいことでしょう。
🔹村上、忙しいことももちろんございますが、それ以上に責任の重さを痛感しておりますね。
私が小僧に入った60年前の薬師寺は、創建当時からの建物である東塔を残すのみで、
あとはすべて長年の戦禍で消失してしまい、仮堂のままの状態でした。
これを何とか復興したいというのが歴代管主の悲願だったわけですが、
私の師匠である橋本凝胤師の強い信念を、兄弟子の高田好胤師が引き継いで金堂復興を発願するんです。
それもただ寄付を募るというのでなく、『般若心経』のお写経勧進によって復興をしようと。
それから9年の歳月をかけて百万巻を超えるお写経をいただき、昭和51年に金堂は落慶式を迎えることができました。
以来、西塔、中門、回廊、大講堂が復興され、
お写経勧進50年目の今年、食堂が落慶しました。
白鳳伽藍の復興は今日もなお続いております。
🔸小川、いまも東塔のほうで解体修理が進んでいますね。
🔹村上、こういうことは他のお寺さんにはないことでございましてね。
天武天皇、持統天皇のご尽力はもちろんですが、
全国の人々の真心をいただいて復興したお寺ですので、
片時も感謝の心を忘れることなく、薬師寺をお預かりしていかなくてはいけないと強く誓っているところです。
🔸小川、何と言っても薬師寺は、日本を代表する寺院の1つですからね。
師匠の西岡常一棟梁の下で薬師寺の伽藍の復興の仕事をさせていただいた時、
三十塔の上から奈良の都を一望したことがありました。
西大寺や東大寺などいろいろな建物を眺めながら、
私は
「僅か60年で、これだけの都をよくぞつくり上げたものだ」
という感慨を抱いたんです。
宮大工の修行中だったその頃は、一体どうやって木材を運んだのだろう、
設計図もない時代に、これだけの建築物をどうやって建てたのだろうという驚きでいっぱいでした。
しかし、ぼちぼち仕事ができるようになり建物の魅力、奥深さが分かってきて、最近つくづく思うのは、
「山から木を切り出してくる知恵があれば、現場で塔をつくり上げるのは、それほど難しいことではないのではないか」
ということです。
🔹村上、それは長年、宮大工として歩まれた小川さんだからこそ、お分かりになる感覚でしょうね。
🔸小川、1300年前はいまのような知識やクレーンなどの機械技術があるわけではありません。
宮大工たちは相当な血と汗を流して知恵を絞り出したという気がするんですね。
例えば、塔の心柱を立てることを1つ取り上げても、ロープもなしにどうやって立てたのだろうかと。
60年の間に高度な技術を編み出したのでしょうが、
本当に大変なことだっただろうと思います。
🔹村上、建造に当たっては、奈良の人だけでなく渡来人たちの技術も総動員したことでしょう。
国家事業として取り組んだわけですから、今の国立競技場をつくるのに近い感覚だったかもしれませんね(笑)。
それにしても古代人の優れた知恵には迫力すら感じます。
棟梁の勘でもいいますか、建物や木、あるいは土や山を見て、
それを最大限に生かすにはどうしたらよいかを瞬間的に掴み取ることができる優れた名人がいたのは間違いないと思います。
🔸小川、感心するのは、渡来人が高度な技術を持っていたとしても、
それを真似るのではなく、日本の気候風土に合った形にアレンジしていることです。
向こうの建物は雨が少ないので軒が短い。
だけど、古代の日本人は建物の基壇を高くして軒の出を大きくした。
そういう工夫を随所でやっておりますからね。
現代の私たちには、到底真似できることではありません。
(つづく)
(「致知」10月号 小川三夫さん村上太胤さん対談より)
🔸小川、薬師寺さんとは長いご縁ですが、村上管主として親しくお会いするのは初めてのことですね。
同年齢の管主と一度ゆっくりお話ししたいと思っていたんです。
🔹村上、はい。私もこの日を心待ちにしておりました。
🔸小川、昨年8月に管主になられて、1年を迎えられたそうですが、
1300年の歴史がある薬師寺の代表になられたわけですから、何かとお忙しいことでしょう。
🔹村上、忙しいことももちろんございますが、それ以上に責任の重さを痛感しておりますね。
私が小僧に入った60年前の薬師寺は、創建当時からの建物である東塔を残すのみで、
あとはすべて長年の戦禍で消失してしまい、仮堂のままの状態でした。
これを何とか復興したいというのが歴代管主の悲願だったわけですが、
私の師匠である橋本凝胤師の強い信念を、兄弟子の高田好胤師が引き継いで金堂復興を発願するんです。
それもただ寄付を募るというのでなく、『般若心経』のお写経勧進によって復興をしようと。
それから9年の歳月をかけて百万巻を超えるお写経をいただき、昭和51年に金堂は落慶式を迎えることができました。
以来、西塔、中門、回廊、大講堂が復興され、
お写経勧進50年目の今年、食堂が落慶しました。
白鳳伽藍の復興は今日もなお続いております。
🔸小川、いまも東塔のほうで解体修理が進んでいますね。
🔹村上、こういうことは他のお寺さんにはないことでございましてね。
天武天皇、持統天皇のご尽力はもちろんですが、
全国の人々の真心をいただいて復興したお寺ですので、
片時も感謝の心を忘れることなく、薬師寺をお預かりしていかなくてはいけないと強く誓っているところです。
🔸小川、何と言っても薬師寺は、日本を代表する寺院の1つですからね。
師匠の西岡常一棟梁の下で薬師寺の伽藍の復興の仕事をさせていただいた時、
三十塔の上から奈良の都を一望したことがありました。
西大寺や東大寺などいろいろな建物を眺めながら、
私は
「僅か60年で、これだけの都をよくぞつくり上げたものだ」
という感慨を抱いたんです。
宮大工の修行中だったその頃は、一体どうやって木材を運んだのだろう、
設計図もない時代に、これだけの建築物をどうやって建てたのだろうという驚きでいっぱいでした。
しかし、ぼちぼち仕事ができるようになり建物の魅力、奥深さが分かってきて、最近つくづく思うのは、
「山から木を切り出してくる知恵があれば、現場で塔をつくり上げるのは、それほど難しいことではないのではないか」
ということです。
🔹村上、それは長年、宮大工として歩まれた小川さんだからこそ、お分かりになる感覚でしょうね。
🔸小川、1300年前はいまのような知識やクレーンなどの機械技術があるわけではありません。
宮大工たちは相当な血と汗を流して知恵を絞り出したという気がするんですね。
例えば、塔の心柱を立てることを1つ取り上げても、ロープもなしにどうやって立てたのだろうかと。
60年の間に高度な技術を編み出したのでしょうが、
本当に大変なことだっただろうと思います。
🔹村上、建造に当たっては、奈良の人だけでなく渡来人たちの技術も総動員したことでしょう。
国家事業として取り組んだわけですから、今の国立競技場をつくるのに近い感覚だったかもしれませんね(笑)。
それにしても古代人の優れた知恵には迫力すら感じます。
棟梁の勘でもいいますか、建物や木、あるいは土や山を見て、
それを最大限に生かすにはどうしたらよいかを瞬間的に掴み取ることができる優れた名人がいたのは間違いないと思います。
🔸小川、感心するのは、渡来人が高度な技術を持っていたとしても、
それを真似るのではなく、日本の気候風土に合った形にアレンジしていることです。
向こうの建物は雨が少ないので軒が短い。
だけど、古代の日本人は建物の基壇を高くして軒の出を大きくした。
そういう工夫を随所でやっておりますからね。
現代の私たちには、到底真似できることではありません。
(つづく)
(「致知」10月号 小川三夫さん村上太胤さん対談より)