🏯薬師寺🏯⑤
🔹村上、小川さんは都会育ちの人にはない素直な感性をお持ちですから、
厳しい理屈抜きの世界に耐え抜いてこられたのでしょう。
お話には大変共感いたしました。
少し宗派の話になりますが、
私たち法相宗の世界で一人前の僧侶になろうとすれば、
「竪義(りゅうぎ)」と呼ばれる口頭試問形式の試験に合格しなくてはいけません。
そして、この竪義の試験を受ける前には、21日間の前加行(ぜんけぎょう)というものを勤めなくてはいけません。
前加行というのは、21日間、無言、不眠、不臥のまま、ひたすら座り詰めでお経を上げ続けるという想像を絶するような過酷な行です。
はじめの1週間は、座り続けることへの肉体的苦痛を感じるのですが、
2週目、3週目に入ると、
肉体的辛さよりも耐え難いほどの精神的な苦痛が襲ってくるんです。
ここで挫折をすれば寺から追い出されて長年の修行が無に帰しきしていしまいますしまうわけですから、
皆命がけで耐え抜きます。
🔸小川、想像しただけでも大変な修行ですね。
🔹村上、まさに理屈抜きです。私はこの厳しい行を成就した後、
つくづく感じたことがございましてね。
それは
「師匠が私たちに厳しく接したのも、この厳しい行を乗り越えさせるためではなかったか」
ということです。
🔸小川、親心だったと。
🔹村上、厳しい一方で、師匠は自分を顧みずに、他人様のお世話することに労力を惜しまない人でもありました。
私も師匠には20年ほどお仕えし、10年以上は侍者を務める中で、
その慈悲心の深さを感じることも度々ありました。
晩年は体調崩されましたけれども、
「病院へはいかへん。薬も飲まへん」
と頑固に拒み続けられましたね。
今思うと、無理にでも病院にお連れしておけばよかったと悔やまれます。
🔸小川、本当に気丈な方でしたね。
🔹村上、それに付随してもしなのは、師匠とは20年間いつも一緒にいていろいろなことを教えられたのに、
こうやって具体的な思い出を探そうとすると、
怒られたこと以外は、なかなか浮かんでこない(笑)。
🔸小川、私もそうなんですよ。西岡棟梁が亡くなった後、新聞社に思い出を聞かれても、
満足に答えられませんでした。
私は思うんですね。
「あの人はこういう人だったなあ」
と考えられるのは、その人から離れているためではないかと。
その人と本当に1つになっていたら、
その人のことが分らなくなるものなのではないかと。
🔹村上、ああ、確かにそうかもしれませんね。
🔸小川、考えてみれば、師匠から離れるからよそよそしくなったり苦しくなるのであって、
ピタッとくつけば怖くはなくなる。
私はそのことを長野の仏壇屋で修行中に学びました。
その仏壇屋の店主は何かを口で言う前に棒で私を叩くんです。
私は叩かれると分かった瞬間、パッと店主にくっついちゃう。
そうやって距離を縮めると、店主は叩きたくとも叩くことができない(笑)。
西岡棟梁も「法隆寺に鬼がいる」と言われたくらい怖い人でしたが、
そのことを思い出して棟梁にピタッとくっつくようにしました。
棟梁が「今日のカラスは白いな」と言ったら自分も白だと思う。
そういう習慣がついてくると修業が楽しくなるんですよ。
棟梁がいま何を考えているかが分かってくる。
いつまでも親方を批判の目で見たり、
自分というものを持ったままでは宮大工の修業は苦しいばかりでしょうね。
🔹村上、仏道修行も同じです。
うちの師匠も寺のこと、弟子を育てることが生活の全てでございましたから、
怒りながらでも弟子たちの傍に24時間ずっといらっしゃいました。
時には「そこまで怒らなくても」と思うこともありましたが、
それだけ一所懸命に育ててくださっているんだなと必死について行きました。
私にとっても師匠という存在は自分の命そのものだったという気がいたします。
🔸小川、村上管主は後に、高田好胤管主にも仕えられますね。
🔹村上、好胤師は1番上の兄弟子であり師匠という間柄でしたから、
常に傍にいてお供をしていたわけではございません。
しかし、やはり多くの薫陶を受けましたね。
好胤師は厳格な凝胤師とは対照的に、仏法は人に分かりやすく説かなくてはいけない、
仏心の種まきをしなくてはいけないというスタンスを貫き、
公演や執筆、テレビ出演なども精力的にこなしておいででした。
それだけに大変お忙しかったのですが、しんどいからといって休むこともされず、
また几帳面な方でもありましたので、時間があれば法話の内容をノートにびっしり書いておられました。
お話も心を込めて一所懸命になさるので、
話術ではなく話力だと言う人もおりましたが、
仏教というものに、それだけの信念を持ちだったのだと思います。
🔸小川、私は新幹線で東京に行こうとしていた時、偶然、好胤管主と一緒になることがあったんです。
その頃、高田好胤さんといえば国民的な人気もので、
当然グリーン車に乗られると思ったら自由車両に向かわれたのには驚きました。
お昼に同伴の方から
「食堂車にいきましょう」
と言われても
「いや、サンドイッチでいい」と。
私も若い時でしたから、車中で何となく仕事の不満を漏らしたのでしょうね。
聞いていた好胤管主はこうおっしゃいました。
「私は、世間からタレント坊主などと言われているが、
そんなことは構わない。
薬師寺のことだけを考えて私はやっている。
お前も西岡棟梁のことだけを考えて仕事しなさい」と。
私にとっては迷いが払われるようなひと言でした。
🔹村上、好胤師は実際、伽藍の復興が人々の心の復興になるんだという信念を持ち、
私利私欲を捨てて、薬師寺のことだけを考えておられましたね。
薬師寺の貧しい時代、土地を少しずつ買い戻しながら一つひとつ復興していく苦労をされ、
凝胤師の思いを誰よりも理解しておられました。
師の思いに応えたい一心でお写経勧進を発願し、
そのために講演をし、執筆をし、テレビにも出られました。
好胤師以下の歴代住職たちも、方法こそ違え、復興にかける思いは皆同じだったはずです。
🔸小川、村上管主は今、その思いを継いでおられるのですね。
🔹村上、私も薬師寺が貧しい時代をよく知っておりますし、
兄弟子たちが復興に命を懸ける後ろ姿を見てきましたので、思いは同じです。
おかげさまで復興も進んでまいりました。
それにどのように魂を入れていくか。
それが私に与えられた役割だと考えているところです。
(つづく)
(「致知」10月号 小川三夫さん村上太胤さん対談より)
🔹村上、小川さんは都会育ちの人にはない素直な感性をお持ちですから、
厳しい理屈抜きの世界に耐え抜いてこられたのでしょう。
お話には大変共感いたしました。
少し宗派の話になりますが、
私たち法相宗の世界で一人前の僧侶になろうとすれば、
「竪義(りゅうぎ)」と呼ばれる口頭試問形式の試験に合格しなくてはいけません。
そして、この竪義の試験を受ける前には、21日間の前加行(ぜんけぎょう)というものを勤めなくてはいけません。
前加行というのは、21日間、無言、不眠、不臥のまま、ひたすら座り詰めでお経を上げ続けるという想像を絶するような過酷な行です。
はじめの1週間は、座り続けることへの肉体的苦痛を感じるのですが、
2週目、3週目に入ると、
肉体的辛さよりも耐え難いほどの精神的な苦痛が襲ってくるんです。
ここで挫折をすれば寺から追い出されて長年の修行が無に帰しきしていしまいますしまうわけですから、
皆命がけで耐え抜きます。
🔸小川、想像しただけでも大変な修行ですね。
🔹村上、まさに理屈抜きです。私はこの厳しい行を成就した後、
つくづく感じたことがございましてね。
それは
「師匠が私たちに厳しく接したのも、この厳しい行を乗り越えさせるためではなかったか」
ということです。
🔸小川、親心だったと。
🔹村上、厳しい一方で、師匠は自分を顧みずに、他人様のお世話することに労力を惜しまない人でもありました。
私も師匠には20年ほどお仕えし、10年以上は侍者を務める中で、
その慈悲心の深さを感じることも度々ありました。
晩年は体調崩されましたけれども、
「病院へはいかへん。薬も飲まへん」
と頑固に拒み続けられましたね。
今思うと、無理にでも病院にお連れしておけばよかったと悔やまれます。
🔸小川、本当に気丈な方でしたね。
🔹村上、それに付随してもしなのは、師匠とは20年間いつも一緒にいていろいろなことを教えられたのに、
こうやって具体的な思い出を探そうとすると、
怒られたこと以外は、なかなか浮かんでこない(笑)。
🔸小川、私もそうなんですよ。西岡棟梁が亡くなった後、新聞社に思い出を聞かれても、
満足に答えられませんでした。
私は思うんですね。
「あの人はこういう人だったなあ」
と考えられるのは、その人から離れているためではないかと。
その人と本当に1つになっていたら、
その人のことが分らなくなるものなのではないかと。
🔹村上、ああ、確かにそうかもしれませんね。
🔸小川、考えてみれば、師匠から離れるからよそよそしくなったり苦しくなるのであって、
ピタッとくつけば怖くはなくなる。
私はそのことを長野の仏壇屋で修行中に学びました。
その仏壇屋の店主は何かを口で言う前に棒で私を叩くんです。
私は叩かれると分かった瞬間、パッと店主にくっついちゃう。
そうやって距離を縮めると、店主は叩きたくとも叩くことができない(笑)。
西岡棟梁も「法隆寺に鬼がいる」と言われたくらい怖い人でしたが、
そのことを思い出して棟梁にピタッとくっつくようにしました。
棟梁が「今日のカラスは白いな」と言ったら自分も白だと思う。
そういう習慣がついてくると修業が楽しくなるんですよ。
棟梁がいま何を考えているかが分かってくる。
いつまでも親方を批判の目で見たり、
自分というものを持ったままでは宮大工の修業は苦しいばかりでしょうね。
🔹村上、仏道修行も同じです。
うちの師匠も寺のこと、弟子を育てることが生活の全てでございましたから、
怒りながらでも弟子たちの傍に24時間ずっといらっしゃいました。
時には「そこまで怒らなくても」と思うこともありましたが、
それだけ一所懸命に育ててくださっているんだなと必死について行きました。
私にとっても師匠という存在は自分の命そのものだったという気がいたします。
🔸小川、村上管主は後に、高田好胤管主にも仕えられますね。
🔹村上、好胤師は1番上の兄弟子であり師匠という間柄でしたから、
常に傍にいてお供をしていたわけではございません。
しかし、やはり多くの薫陶を受けましたね。
好胤師は厳格な凝胤師とは対照的に、仏法は人に分かりやすく説かなくてはいけない、
仏心の種まきをしなくてはいけないというスタンスを貫き、
公演や執筆、テレビ出演なども精力的にこなしておいででした。
それだけに大変お忙しかったのですが、しんどいからといって休むこともされず、
また几帳面な方でもありましたので、時間があれば法話の内容をノートにびっしり書いておられました。
お話も心を込めて一所懸命になさるので、
話術ではなく話力だと言う人もおりましたが、
仏教というものに、それだけの信念を持ちだったのだと思います。
🔸小川、私は新幹線で東京に行こうとしていた時、偶然、好胤管主と一緒になることがあったんです。
その頃、高田好胤さんといえば国民的な人気もので、
当然グリーン車に乗られると思ったら自由車両に向かわれたのには驚きました。
お昼に同伴の方から
「食堂車にいきましょう」
と言われても
「いや、サンドイッチでいい」と。
私も若い時でしたから、車中で何となく仕事の不満を漏らしたのでしょうね。
聞いていた好胤管主はこうおっしゃいました。
「私は、世間からタレント坊主などと言われているが、
そんなことは構わない。
薬師寺のことだけを考えて私はやっている。
お前も西岡棟梁のことだけを考えて仕事しなさい」と。
私にとっては迷いが払われるようなひと言でした。
🔹村上、好胤師は実際、伽藍の復興が人々の心の復興になるんだという信念を持ち、
私利私欲を捨てて、薬師寺のことだけを考えておられましたね。
薬師寺の貧しい時代、土地を少しずつ買い戻しながら一つひとつ復興していく苦労をされ、
凝胤師の思いを誰よりも理解しておられました。
師の思いに応えたい一心でお写経勧進を発願し、
そのために講演をし、執筆をし、テレビにも出られました。
好胤師以下の歴代住職たちも、方法こそ違え、復興にかける思いは皆同じだったはずです。
🔸小川、村上管主は今、その思いを継いでおられるのですね。
🔹村上、私も薬師寺が貧しい時代をよく知っておりますし、
兄弟子たちが復興に命を懸ける後ろ姿を見てきましたので、思いは同じです。
おかげさまで復興も進んでまいりました。
それにどのように魂を入れていくか。
それが私に与えられた役割だと考えているところです。
(つづく)
(「致知」10月号 小川三夫さん村上太胤さん対談より)