13🌟想像力と創造力🌟
いつも、「自分の得意な形に逃げない」ことを心がけている。
戦型や定跡の重んじられる将棋という勝負の世界。
自分の得意な形にもっていけば当然ラクであるし、私もラクをしたいという気持ちはある。
しかし、それを続けてばかりいると飽きがきて、息苦しくなってしまう。
アイデアも限られ、世界が狭くなってしまうのだ。
人は慣性の法則に従いやすい。
新しいことなどしないでいたほうがラクだから、
放っとくと、ついそのまま何もしないほうへと流れてしまう。
意識的に、新しいことを試みていないといけないと思う。
そういう意味でも尊敬するのは升田幸三先生だ。
升田先生は、その風貌や名言に加え、新手(それまでに指されたことのない手)を数多く生み出したことで知られている。
「新手一生」という言葉で、新しい戦型や指し手を一生創造生し続けるという信念を示された。
常に新しいアイデアを追い求め、実戦で試された。
升田式石田流、雀刺し、急戦矢倉、棒銀、ひねり飛車、居飛車穴熊…等々、升田先生の新手は非常に現代的なものまで、いまでも多く使われている。
昭和30年代に最も活躍されたのだが、その先見性に気づく人は少なく、
当時は先生の革新的な将棋のセンスがむしろ異端として扱われていたように思う。
現代の将棋では、どんな新手を考えても、いったん公になればすぐに研究され、対策も立てられてしまう。
情報収集の手段が増え、そのスピードは以前の比ではなくなっているといえるだろう。
ただし、だからといってそこに甘んじていいという話ではない。
将棋に限らずこの世の中、未来永劫安定しているものなど基本的にはない。
完結形といったようなものもまるでない。
あらゆることが、日々、変わっていく。
そのとき、その変化に気づくことができるか。
じっと見ていてもすぐには何も変わらないように見える。
しかし、釣った魚と同じで、
変わらないように見えて、それは間違いなく腐っていく。
時の経過が状況を変えてしまうからだ。
いまは最善だと思われても、それは「いま」という時点の話であって、いまはすでに過去になりつつある。
あまりオリジナリティに欠けるものばっかりやっていると、自己嫌悪に陥ってしまうのはこのためだ。
それはラクではあるかもしれないが、過去の中にだけ生きているのではつまらない。
これから先へと進んでいくためには、できれば少し先を見ることができるといい。
しかしそれは難しい。
現実に本当に見ることなどできはしないのだから。
それでも、過去から現在の変化を見ることは可能。
そして、その変化の延長線上に、想像力を働かせることはできる。
想像力とは、まだ起こっていない、しかし起こるべきであろう現象を、リアリティをもって受け止める力のことだ。
どんなことでもいい。
これまでとの違い、昨日からの変化を見つけてみる。
そして、その先を思い描いてみる。
そうすることで、想像力が鍛えられていく。
そして、その想像力を働かせて頭の中に描いた何かを具体的に実現させるアイデア・発想が想像力だ。
創造力は、まったくのオリジナルでなければならない、ということではない。
常に真新しいものでなくても、切り口によって違いは出る。
同じテーマでも、他の人とは違う自分なりの切り口を持つことで、生み出されるものは変わってくる。
大事なのは、それらの力を養うとすることだ。
日々の事象に変化を見つけ、その先を想像してみる。
そして一歩進んだら、それを具現化するものを創造してみる。
それがかたちになったら、またその先を想像して…を繰り返すのだ。
こうして想像力と創造力の両輪を回しながら、進んでいく。
このとき、もどかしいのは、
想像力がどんどん先へ行っているのに、創造力がで追いつくことができないことだ。
願わくば両輪は、その回転を同じスピードで、交互に前に出ながら進められるといいと思う。
(「直感力」羽生善治さんより)
いつも、「自分の得意な形に逃げない」ことを心がけている。
戦型や定跡の重んじられる将棋という勝負の世界。
自分の得意な形にもっていけば当然ラクであるし、私もラクをしたいという気持ちはある。
しかし、それを続けてばかりいると飽きがきて、息苦しくなってしまう。
アイデアも限られ、世界が狭くなってしまうのだ。
人は慣性の法則に従いやすい。
新しいことなどしないでいたほうがラクだから、
放っとくと、ついそのまま何もしないほうへと流れてしまう。
意識的に、新しいことを試みていないといけないと思う。
そういう意味でも尊敬するのは升田幸三先生だ。
升田先生は、その風貌や名言に加え、新手(それまでに指されたことのない手)を数多く生み出したことで知られている。
「新手一生」という言葉で、新しい戦型や指し手を一生創造生し続けるという信念を示された。
常に新しいアイデアを追い求め、実戦で試された。
升田式石田流、雀刺し、急戦矢倉、棒銀、ひねり飛車、居飛車穴熊…等々、升田先生の新手は非常に現代的なものまで、いまでも多く使われている。
昭和30年代に最も活躍されたのだが、その先見性に気づく人は少なく、
当時は先生の革新的な将棋のセンスがむしろ異端として扱われていたように思う。
現代の将棋では、どんな新手を考えても、いったん公になればすぐに研究され、対策も立てられてしまう。
情報収集の手段が増え、そのスピードは以前の比ではなくなっているといえるだろう。
ただし、だからといってそこに甘んじていいという話ではない。
将棋に限らずこの世の中、未来永劫安定しているものなど基本的にはない。
完結形といったようなものもまるでない。
あらゆることが、日々、変わっていく。
そのとき、その変化に気づくことができるか。
じっと見ていてもすぐには何も変わらないように見える。
しかし、釣った魚と同じで、
変わらないように見えて、それは間違いなく腐っていく。
時の経過が状況を変えてしまうからだ。
いまは最善だと思われても、それは「いま」という時点の話であって、いまはすでに過去になりつつある。
あまりオリジナリティに欠けるものばっかりやっていると、自己嫌悪に陥ってしまうのはこのためだ。
それはラクではあるかもしれないが、過去の中にだけ生きているのではつまらない。
これから先へと進んでいくためには、できれば少し先を見ることができるといい。
しかしそれは難しい。
現実に本当に見ることなどできはしないのだから。
それでも、過去から現在の変化を見ることは可能。
そして、その変化の延長線上に、想像力を働かせることはできる。
想像力とは、まだ起こっていない、しかし起こるべきであろう現象を、リアリティをもって受け止める力のことだ。
どんなことでもいい。
これまでとの違い、昨日からの変化を見つけてみる。
そして、その先を思い描いてみる。
そうすることで、想像力が鍛えられていく。
そして、その想像力を働かせて頭の中に描いた何かを具体的に実現させるアイデア・発想が想像力だ。
創造力は、まったくのオリジナルでなければならない、ということではない。
常に真新しいものでなくても、切り口によって違いは出る。
同じテーマでも、他の人とは違う自分なりの切り口を持つことで、生み出されるものは変わってくる。
大事なのは、それらの力を養うとすることだ。
日々の事象に変化を見つけ、その先を想像してみる。
そして一歩進んだら、それを具現化するものを創造してみる。
それがかたちになったら、またその先を想像して…を繰り返すのだ。
こうして想像力と創造力の両輪を回しながら、進んでいく。
このとき、もどかしいのは、
想像力がどんどん先へ行っているのに、創造力がで追いつくことができないことだ。
願わくば両輪は、その回転を同じスピードで、交互に前に出ながら進められるといいと思う。
(「直感力」羽生善治さんより)