🌸🌸ラグビー🏉の神様に導かれて🌸🌸
(坂田さんは現役時代、「世界のサカタ」「空飛ぶウイング」の異名を取り、2012年に東洋人として初めてラグビー殿堂入りを果たされましたね)
坂田、ラグビーと共に人生を歩んできた私にとって殿堂入りは大変名誉なことであり、心から感謝しています。
実は最初、IRB(国際ラグビーボード)の方からメールがきたんですけど、その時は、よく分からなかったんです。
で、読んでいくと「Hall of Fame」と書いてある。
そこで初めてラグビー殿堂というものがあることを知りました。
歴史を調べたら、びっくりしましたよ。
ラグビーの考案者であるウィリアム・ウェッブ・エリスと、ラグビーが生まれたパブリックスクールのラグビー校が第一号で、
その次は近代オリンピックの創設者でラグビーのレフリーだったピエール・ド・クーベルタン。
(錚々(そうそう)たる人たちが名を連ねていたと)
坂田、私は51人目の殿堂入りだったんですけど、
そもそも東洋の国の選手が選ばれるというのは考えられないことで、
ワールドカップ最多優勝のニュージーランドをはじめオーストラリア、南アフリカ共和国、イングランドなどの競合と違って、
選考の土俵にさえ乗らないと思っていました。
でも、非常に平等に見てくれて、
私が1969年版ニュージーランドラグビー年鑑で
「ファイブプレイヤーズ・オブ・ザ・イヤー」に輝いたことや、
ニュージーランドで最も強いカンタベリー州代表に選出されたことなど、
その活躍をきちんと評価してくれたっていうのはありがたかったですね。
(来年はいよいよ日本で初めてワールドカップが開催されますが、坂田さんは日本ラグビーフットボール協会の副会長として、どんなことに力を注いでいますか?)
坂田、当然ワールドカップ自体を成功させたいと思っていますけど、
大事なのはレガシー(遺産)、
ワールドカップが終わった後に何を残すか。
試合の結果だけ残しても、2〜3年経てば風化してしまう。
そうではなくて、日本ラグビーの発展に寄与し続けるものを残していかならければならない。
(遠くを慮(おもんばか)りを持たれている)
坂田、そういう観点で私は1番願っているのは、日本にラグビー場を増やすことです。
今回のワールドカップは全国12会場で試合をするんですけど、
そのうちラグビー場は3ヶ所で、あとはサッカー日韓ワールドカップの時につくられた会場を借りてやるんですね。
2015年にイングランドで開催されたワールドカップで、日本が南アフリカに勝利して話題を呼んだでしょう。
あの後、ブームが起こりまして、ラグビーを始める子供たちが増えました。
2019年は全国各地で試合をしますから、あの時以上にラグビー人口が増えると思うんです。
ところが、それを受ける場所がなかったら、ラグビーをやりたくても他のスポーツに流れてしまう。
ですから、今は環境整備を一生懸命進めているところです。
(ラグビーの出逢いについて教えてください)
坂田、私は中学まで柔道に打ち込んでいて、京都府大会で個人戦準優勝と結構強かったんです。
いろいろな高校からスカウトを受け、普通だったらそのまま柔道続けていたと思うんですけど、
高校の合格発表の日に初めてラグビーを見たことがすべての始まりでした。
限られたスペースでやる柔道とは異なり、青空の下で広々とした校庭を思いっきり走って楕円球を追いかけている。
私は一瞬にしてラグビーの虜になり、その場で入部を申し出ました。
(合格発表の日にラグビー部に入ると決めた)
坂田、ええ。入部して1週間後に、先生から「明日試合をするぞ」って言われましてね(笑)。
ラグビーのルールも全く分からなかったんですけど、
「ボールを持ったら走る」
「ボールを持っている選手がいたら捕まえて倒す」、
この2つだけ教わって(笑)、そのとおりにやったんです。
相手は強豪の同志社大学の2軍でした。
いまも鮮明に覚えていますけど、試合中、味方の蹴ったボールが私のところにちょうど来たんですね。
で、とにかくボールを持って走りました。
そして、インゴールエリアにボールをタッチしたんです。
これが初めてのトライでした。
(忘れがたき人生初トライですね)
坂田、168センチと小柄だったものの、子供の頃から足が速く、
柔道のおかげで足腰を鍛えられていたので、向いていたのかもしれませんね。
そこからラグビー漬けの日々を過ごし、
洛北高校時代は京都府代表として3年連続全国大会と国体に出場しました。
同志社大学でも1年生からレギュラーを獲得し、
NHK杯(日本選手権の前身)で社会人王者の近鉄を下して日本一、3年生の時も同じく近鉄を破って日本選手権で優勝。
また、2年生の時から日本代表に選出されたんです。
(上達するためにどんなことを心がけてきましたか?)
坂田、大学時代は厳しい全体練習が毎日2〜3時間ほどあったんですけど、
2時間なら2時間、3時間から3時間を全力でやる。
終わった後、走るエネルギーも余っていないくらい全力を出し切る。
1日1日の練習をそうやって取り組んでいました。
それからもう一つ心がけていたのは、
練習を終えて帰宅する時に必ず玄関前でウェイトトレーニングをしてから家に入りましたね。
鉄棒にセメントを巻いてつくった30キロのバーベルを20回あげたり、
バーベルを背負ったままでうさぎ跳びを100回したり。
(プラスアルファの努力をされていたのですね)
坂田、グラウンドで精一杯力を出し切って、さらに自宅でウエートトレーニングをする。
これは誰に言われたわけでもなく、自分でやると決めて毎日欠かさず4年間継続しました。
また、後に世界と渡り合う上で大きな武器となるイン・アンド・アウトという技術を身につけたのも、この時期です。
(詳しくお聞かせください)
坂田、1年生の夏合宿で練習試合をした時、4年生のキャプテンをかわしながら突き飛ばしてトライしたんですね。
褒められてもらえるだろうと思ったら、監督に
「坂田、ウィングは真っ直ぐ走れって言ったやろう」
と怒られましてね。
普通に考えたら、そんなの不可能ですよ。
相手が次々と捕まえにきますから。
最初は「この監督、何を考えているんや」って思いました。
でも、監督のひと言を受けて、真っ直ぐ走ってトライするにはどうしたらいいかということを4年間考え続けたんです。
(自分自身の課題になった)
坂田、それで試行錯誤を重ねた末、3年生の時に、真っ直ぐ全速力で走っていきながらも、
相手と正面衝突する直前に、一瞬グッと内側に入ると見せかけて、
その反動で外側に一気に抜き去る技を編み出しました。
最終的には、もし相手が刀を持っていたら、
触れられるというのは斬られることだと思い、
相手に触れさせないで抜き切る技を習得したんです。
とにかく「ラグビーを極めたい」という強烈な思いを常に心に抱いていました。
小さい頃から読書が結構好きで、ラグビーを始めてからは吉川英治の『宮本武蔵』を何回も読みました。
宮本武蔵は剣の道を極めた達人じゃないですか。
なので、そこに共感したんでしょうね。
苦労をどう乗り切っていったのか、
弱点をどう克服していったのか、
ということが書いてあるので、壁にぶつかった時に読み返すと必ず解答がありました。
(その中で特に心に残っている言葉はありますか?)
坂田、例えば「寒流月を帯びて澄めること鏡の如し」。
吉岡一門との因縁の決闘に向かう時、もう自分はやれるだけのことはやったから恐れることはないと。
あと、「神仏を尊び神仏に頼らず」、自分を信じて戦うのみだと。
やるべきことをやり切った者だけが平常心、不動心で戦いに臨むことができるのであって、
やり残したことがあるとこういう心境には至れない。
人生のあらゆる戦いの場に通じる教えだと思います。
(大学卒業後は近鉄に入社されたそうですね)
坂田、10年間、近鉄ラクビー部に所属し、4度の日本一を味わい、
ラグビー王国ニュージーランドでもプレーしました。
日本代表の海外遠征でニュージーランドを訪れたのは1968年、25歳の時です。
強豪チームは超一流ホテルに泊まり、地元の警察が誘導してグランドに向かう一方で、
当時の日本代表はホテルすらあてがわれず、ホームステイでした(笑)。
それくらい差がったんですね。
全部で10試合組まれていたんですけど、
4連敗の後に連勝して迎えた第7戦、相手はオールブラックスJr (ニュージーランドUー23代表)。
世界最強のチームに、平均身長172センチ、平均体重72.5キロの小さなチームが挑んだわけです。
観客はもとより、ニュージーランド中の人がオールブラックスJrが負けるはずがないと思っていたでしょう。
ところが、なんと日本が勝ったんです。
(歴史的勝利を収めた)
坂田、私はその試合で4トライをあげたんですけど、
三つ目のトライのことは忘れもしません。
先ほどお話ししたイン・アンド・アウトで、相手に指一本触れさせることなく見事に抜き去ったんです。
普通はトライしたら歓声が湧くんですけど、その時はしーんと水を打ったように静まり返った。
で、自分のポジションまで戻ってひと息ついた途端、
うわーっと大歓声が湧き、がわき、スタンディングオベーションが起こったんです。
(ラグビー王国のファンも感動するほどのトライだったのですね)
坂田、それを含めて2試合で9トライ決めたことが評価され、冒頭申し上げたように、ニュージーランドの年間最優秀選手の1人になったんです。
本場で自分の力を試したいとの思いから、
翌年、半年間の無給休暇をとってニュージーランドの大学に単身留学しました。
(武者修行はいかがでしたか?)
坂田、やっぱり日本人として恥をかきたくないという思いが根底にありましたね。
言葉が通じない、話し相手が誰もいないストレスから夜中に時々胃痙攣を起こしたりもしましたが、
最終的には1シーズン27試合で30トライの新記録を叩き出し、
カンタベリー州代表に選ばれたんです。
そこで技術レベルはもちろん、人格的にも尊敬できるオールブラックスの選手たちと共に過ごせたことは、かけがえのない財産です。
現役を引退して2年ほど社会の業務に専念していましたが、
大阪体育大学からお誘いをいただきまして、1977年4月にラグビー部監督に就任しました。
以来、36年間もの長きにわだって選手と向き合い、
関西大学リーグを5回制覇しましたけど、行き着いた結論は、
「選手がいて監督がいる」ということですね。
(選手がいて監督がいる)
坂田、つまり、プレーする選手がいなかったら監督なんか必要ないわけで、監督は決して偉くない。
だから、目線は選手と一緒じゃなきゃいけない。
とはいえ、最初は監督がいてこそチームがあると思って、選手を抑さえつけるところからスタートしましたけど(笑)。
(何か天気があったのですか?)
坂田、あれは5年目でした。試合中にうちの選手がグランドで頭から血を流して倒れた時、
「放り出せ」って言ったんですね。
それは選手を入れ替えるという意味で、
当時は当たり前のように使われていて、私も全く違和感なく使っていました。
それを横で聞いていた親しい新聞記者が怒こったんです。
「自分のチームの選手が倒れているのに、なんてこと言うんや」
って。
最初は何を言われているのか分からなかったんですけど、
ちょうど同じ頃、比叡山の千日回峰行を満行された光永澄道阿闍梨がこうおっしゃったんです。
「坂田さん、私はこの頃、掃除の仕方を忘れました。
時々掃除をしないとだめですね」
位の高いお坊さんも小僧の時は自分で掃除をしていた。
それが偉くなるにつれて自分ではやらなくなる。
しかし、自分でやってみて初めてわかることがたくさんあるから、
初心に帰らなければならないと。
その時に、自分の現役時代を思い出して、2つの言葉が同じ意味だとわかりました。
(新聞記者の方と光永阿闍梨の言葉が重なり合ったのですね)
坂田、「ああ、そうや。やっているのは選手や。
痛いのも苦しいのも選手だ。
その気持ちを指導者が理解しないとあかん」。
そこから私の指導法や言葉遣いは変わり、チームも変わっていきましたね。
それまでは、「ああせい、こうせい」って選手に押しつけてきたんですけど、
「自分たちでメニューを立てるように」
と言うようになりました。
同じ練習メニューをやるにしても、やらされてやるのと、自分たちで決めてやるのとでは、天と地ほど大きな違いでしたね。
(やらされている意識ではどんなに練習しても成長せず、主体的に取り組んでこそ飛躍すると)
坂田、その結果、9年目の年に、当時関西大学リーグ戦71連勝、大学選手権3連覇を記録していた同志社大学に勝利し、初のリーグ優勝に輝きました。
実はこの時、同志社を崩せるはずがないと思っていたんです。
無理して戦わなくても、3位に入れば大学選手権の資格が得られるから2位を目指そうと。
ところが、選手たちが「勝たなあかん」と言い始めたんです。
で、迎えた試合当日、2年生のある選手が下級生に自分の顔写真を撮らせている。
その理由を聞いて、私は衝撃を受けました。
「きょうこの試合で自分が死ぬか分からない。これは形見の写真です」
と。
(鬼気迫る覚悟を感じます)
坂田、彼だけではなく、みんながそういう気持ちだったと思います。
私はただひと言、「行け!」と言って選手を送り出しました。
終わってみれば、34対8の圧勝です。
これはやっぱり5年目の転機がもたらした結果ですね。
監督の言うとおりに動くロボットをつくってもダメで、自ら本気で向かっていく選手を育てなければならない。
それには指導者の心が非常に大事だと思います。
(指導者の心が問われる)
坂田、選手は監督を見ています。
その監督が適当だったら絶対に弱いチームになりますよ。
監督はタバコを吸いながら、あるいは、腕を組んで高いところから見下ろしながら、
「ああせい、こうせい」
と言ったって、絶対に選手は信用しませんし、本気にはなりません。
だから、指導者に1番求められるのは「謙虚であれ」ということだと思います。
(監督として選手によく伝えていた言葉はありますか?)
坂田、その時々でいろいろな話をしましたけど、
よく言っていたのは
「Better than before」、
前よりもよくなろうということですね。
昨日よりもきょう、1分前よりもいま、
練習のたびに進歩しよう。
もし1日練習して、終わった時に何も進歩しなかったら、時間が無駄になってしまいますからね。
そのためには
「きょうはこういうプレーを上手になりたい」
という目標を持って取り組むことが大事だと伝えていました。
そういうことをグラウンドに集まった時、100人なら100人に同じことを言うわけですけど、
その言葉を受け止めるかどうかは最終的には本人次第です。
(そこが伸びる人と伸びない人の分かれ目であると)
坂田、そうですね。一つひとつの言葉を噛み砕いて自分のものにするのか、聞き流してしまうのか、その差ですね。
(これまでの坂田さんのお話を伺ってきて、まさにラグビーを我が使命として歩み続けてこられた人生ではないかと感じました)
坂田、使命だとかそういうことは何も意識してこなかったですけど、
いま振り返ると、高校の合格発表のあの日、もし雨が降っていたら校庭でラグビーを見ることはなく、そのまま柔道続けていたわけでしょう。
そう思うとラグビーの神様が導いてくださったのかもしれません。
(ああ、ラグビーの神様のお導きだと)
坂田、15歳の春にラグビーと出逢い、そこからただ一筋にラグビーをやってきてちょうど60年が経ちました。
選手としても監督としても活躍でき、ラグビー殿堂に顕彰されたのは、
やはりこの道を極めようという思いで1つのことに集中して打ち込んできたからでしょう。
何か別のことに3つも4つも手を出していたら、いずれも中途半端なまま終わっていたと思います。
私はラグビーのことしか知りませんが、ラクビーから多くのことを学びました。
「天 我が材を生ずる 必ず用あり」
というテーマをいただきましたけど、
私にとって「材」とはラグビーであり、「用」とは自分がラグビーを通じて得た指導哲学や、生きるヒントを、若い人たちに伝えていくとこと。
これからも、その用を果たすべく、精一杯力を出し切っていきたいですね。
(「致知」3月号 坂田好弘さんより)