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すべてを肯定して生きる①

2018-02-16 08:40:48 | お話
すべてを肯定して生きる①


私は7歳の時から実父と継母から虐待を受けるようになり、

中学2年生で児童養護施設に保護されるまで、2度も命を落としかけました。

中学1年生の時には自ら命を断とうとしたこともあります。

それでもいま、私はこうして生きていて、児童虐待防止活動に取り組んでいることを思うと、

過去に起きたことは、すべて現在の活動のための出来事だったのではないかという気がしています。

ただ、辛い体験を乗り越えてきたと言う思いはありません。

「忘れたと」も違い、「横に置いてきた」と表現するのがふさわしいかもしれません。

先日、3年ぶりに自伝を読み返しましたが、それは「妙子ちゃん」の物語で、

自分自身のことではないような不思議な感覚でした。

私は講演などでよく、

「目の前のことを否定するのではなく、

すべて、いったん肯定して、受け入れる」

とお話ししています。

過去を否定しても、何も変わりません。

私自身、昨日までのことはもういいので、

今日から幸せになって行こうと、すべてを肯定し、受け入れながら生きてきました。

現在、児童虐待防止活動の他にも、日本アンガーマネジメント協会認定のコンサルタントも務め、

「自分の感情に責任を持つ」

ことの大切さを伝えています。

人間である限り怒りが生ずるのは当たり前で、大事なことはそれにどう対処するかです。

アンガマネジメントでは自分の感情を上手にコントロールするコツを学びます。

その代表例が「6秒ルール」です。

怒りが沸点に達すると、脳からアドレナリンが大量に分泌され暴力的になります。

その時に、深呼吸をしたり、たった6秒間待つだけで、

アドレナリン分泌がおさまり、冷静さを取り戻せるのです。

こうした誰でも簡単にできる知識を多くの人に広めることで、

被害者を救うだけどなく、加害者となって苦しんでいる人を救いたいと思い活動しています。

2010年から開始し、今では全国各地で年間100回以上講演するようになりました。


私の原点を探ると、4歳まで遡ります。

その年に両親が離婚し、私と2人の兄(大兄、小兄)は児童養護施設に預けられることになりました。

父は一緒に暮らす方法をずっと模索してくれたようで、

私が7歳のときに再婚すると、家族揃って暮らせるようになりました。

当時、継母は22歳。

最初は優しい人でしたが、お腹に父との子供を身ごもると次第に余裕を失い、

自分が産んだわけでもなく、年子で手のかかる年齢の私たちの世話が億劫になったのでしょう。

その年の冬、溜まりに溜まったストレスが爆発しました。

突然、継母が靴べらで私の二の腕を叩いたのです。

驚きのあまり声も出ず、叩かれたところをさすると、さする指をさらに力いっぱい叩かれ、出血しました。

理由が分からない上に、継母の顔つきがいつもと違うことが、ただ恐ろしく、私は涙が止まりませんでした。

後年聞いたところによると、継母は最初は謝ろうと思っていたようです。

しかし、私と目が合った瞬間、ビクッとしたのでしょう。

やっていけないことをやってしまった惨さや情けなさから、

継母の口から出てきたのは「ごめん」と言う一言ではなく、

「なんや、その目は!」

という自分を正当化させる言葉でした。

心が崩壊した瞬間です。

その日から、継母は毎日私たちを叩くようになりました。

そして必ず、「これは躾やで」と言い続けるようになりました。

食器を洗っていたら後から蹴飛ばされたり、

真冬でも自分たちの洗濯物を洗濯板で洗うのは当たり前。

一晩中寝かせてもらえない、食事を抜かれるというのはましなほうで、

タバコの火やアイロンの熱で何度も全身をあぶられました。

父と継母は絶えず喧嘩するようになり、

父の顔は次第に鬼の形相に変わって酒量も増えました。

そして継母からの「躾」が始まった1ヶ月後、

父からも暴力を受けるようになったのです。

包丁を握った父に追いかけられ命からがら逃げたこと、湯船に沈められて死にかけたことなどもあります。

それでも父の優しかった頃を知っているので、

いつか優しい父に戻ってくれるのではないかという願いと希望だけで耐え抜きました。

その思いがあったので、誰かに助けを求めることもしませんでした。

一軒家のベランダに裸で放り出されたり、常に大きな物音がしていたので、周囲の家には気づかれていたと思います。

しかし、当時はまだ虐待という言葉すらなく、通報する習慣もありませんでした。

そんな辛い日々の中で唯一支えとなったのは、小兄でした。

1人で虐待を受けていたら、とっくに死んでいたと思います。

何度も家出しましたし、中学1年生のときには自殺未遂もしました。

でもそれは、辛いから死ぬのではありません。

私が死んだら、親はやっと気づくのではないか。

見せしめのために遺書を書いて死んでやろう。

そういった気持ちです。

そんな私に小兄は、

「あと2年で中学を卒業し、家を出れるやんか」

と叱り、自殺を止めてくれました。

その頃の状況というのは、3人で親を殺すか、自分たちが死ぬか。

毎日どちらかの選択を迫られるが如く、生き地獄の日々でした。


転機が訪れたのは中学2年生の時。

マッハ先生というあだ名の27歳の若い女性が担任になり、

私の痣(あざ)や傷を心配し、常に注意して見てくださるようになったのです。

私はもう大人を信用していませんでしたので、絶対に何もしゃべらないと固く心に決め込んでいました。

それでも先生は

「何かあったら電話してくるんやで」

と、10円玉をくれるなど、見守ってくれました。

そんな5月のある日、事件は起こりました。

泥酔し帰宅した父に、私は初めて首を絞められ、意識を失いかけました。

大兄が父を突き飛ばして助けてくれたのですが、

それにカチンときた父は、そばにあったガラスの灰皿を持って大兄の頭を思いっきり殴ったのです。

大兄の頭からは血が溢れ出ていました。

暴力が表沙汰になることを恐れた父は、何と自宅にあった普通の針と木綿糸で、麻酔もなしに大兄の頭を縫い始めたのです。

父は完全に理性を失っていました。

その日の晩、大兄は父と継母の寝室の前で金属バット握りしめ、震えながら泣いていました。

大兄はもう中学を卒業していたので、次の日家を出ると、二度と戻ってくることはありませんでした。

私も小兄もこんな生活が嫌で嫌で仕方ありませんでしたが、

何事もなかったかのように学校に行くしかありません。

でも、その時はもう限界だったのでしょう。

私は絶対に誰も頼らないつもりでしたが、

学校から帰宅すると以前もらった10円玉を使って、マッハ先生に電話し打ち明けました。

学校に呼び出された父と継母は、虐待について饒舌に言い訳するばかり。

するとマッハ先生が、

「子供に暴力振ってるやろう!

言い訳は絶対に許さない。

親子で、もやったらあかんもんは、あかんのや!」

とはっきり言ってくださったのです。

生きるか死ぬか、そんな状況の中で、マッハ先生と出逢えたことは本当に奇跡でした。

その後、私は児童養護施設に保護されました。

中学2年生の5月から卒業までの2年間、そこで過ごせたことは本当にありがたいことでした。

今みたいに心のケアをしてくれるような環境は整っていませんでしたが、

布団で寝られる、ご飯が三食食べられる、

そして何よりも暴力を振るわれない。

普通の生活を送ることができる幸せを噛み締めました。


(つづく)

(「致知」3月号 島田妙子さんより)