花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

建長寺 半増坊と塔頭巡り

2010-01-31 | 鎌倉の四季
     【半僧坊から見た建長寺】          
                                                                  

【建長寺】
鎌倉五山第一位(五山制は南宋に倣って臨済宗での格付)。鎌倉幕府五代執権北条時頼は蘭溪道隆を開山に迎え、日本最初の純粋禅寺「建長寺」を建立しました。純粋禅寺とは禅宗だけを研鑽する淨刹。つまり中国杭州の径山万寿禅寺で修行することと同じだと言っています。
かって 京都で布教しようとして比叡山に反対され、鎌倉壽福寺で修禅をかさねていた日本臨済宗の開祖、栄西が他界してからほぼ四十年の歳月が流れていました。栄西が鎌倉の地に蒔いた"禅”と言う種子は、建長寺が創建された事で実を結び開花したと言えましょう。

蘭溪道隆(大覚禅師)は厳格な禅風をそのまま建長寺に持ち込み、千人を超えた修行僧を指導しました。その指導書は「法語規則」(国宝)として寺に残っています。

【建長寺 半僧坊】
建長寺境内の最も奥の山腹にある鎮守です。祀られている半僧坊権現は、明治中期の建長寺住職 霄(おおぞら)貫道禅師が、ある夜お坊さんのような はたまた俗人とも見える白髪の老人と山中で出会い、その翁が「私を関東のいずれか清浄なところに招いてくださるなら、その処いよいよ栄え、ありがたいことが絶える事がないでしょう」と告げて、フッと姿を消してしまった霊夢を見られました。

このお姿こそ半僧坊の真姿で建長寺の鎮守に相応しいと、自ら奥山の方廣寺に出向いて御分身を願われ、明治23年5月堂宇を創建して現在の半僧坊本殿の礎を築かれました。

「半僧坊」とは 半分僧 半分俗人で、仏様でも神様でもなく「半僧坊大権現」として、沢山のカラス天狗に守られています。

     

《奥山の方廣寺は浜松市の臨済宗方廣寺派の大本山。 明治14年山林大火で類焼に遭うも、 開山の御墓所と半僧坊仮殿が焼け残った事から、鎮守の神である半僧坊の信仰が全国に広まりました》 

祈祷所で新春の「大祈祷」を受けることが出来て清々しい時を頂きました。
高台には富士見台もあり(この日は雲に捲かれていましたが)
建物の2階からは建長寺の背面からの広大さを見ることも出来ました。

今回2ヵ所の塔頭をご案内いただきました。
塔頭(たっちゅう)とは、境内にある小寺をさしています。
禅宗において祖師または高僧が亡くなった後、その弟子が師の徳を慕って塔の頭(ほとり)に構えた房舎を指します。時代が進むにつれ各門派を中心とする動きが強くなり、勢力維持のための塔頭が乱立するようになって、室町時代に入り規制禁止へと向かいました。

【回春院】
蘭溪道隆の語録に「深山幽谷の面々は春に廻る」があります。建長寺の伽藍全体の構想に中国の禅寺造りが取り入れられています。回春院の本堂前の大覚池は谷戸から流れる湧き水を溜める第一の溜池として土木的な意義を持っています。第二の溜池が方丈池になります。

ご本尊は文殊菩薩。 住職のお話があり軽妙でとてもよかったです。写真もどうぞお撮りくださいと寛大でした。

               

【正統院】
本尊は回春院と同じく文殊菩薩。建長寺十四世高峰顕日の塔所です。後嵯峨天皇の第二皇子で天皇家の血筋を引くことから宮内庁が管理しています。
正統院の中興の開山が徳川三代将軍家光の乳母「春日局」であり、立派な位牌が祀られています。

          

山門に向かって左手断崖下の墓地に、太平洋戦争末期祖国のため、一身の犠牲を省みず、敢然として死地に赴いた「桜花特別攻撃隊神雷戦士たちの碑」が大きく建つていました。

日差しの中【梅蕾】がほころび始めていました。