花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

法然 と 親鸞

2011-11-20 | 美術館


 「ゆかりの名宝」副題で鎌倉の巨星ふたつ。とあり知っているようで知らないことの多さを感じて 東京国立博物館を訪れました。
天変地異や騒乱が相次いだ平安末期から鎌倉時代にかけて「念仏を唱えれば」誰でも救われる」と説いた法然と、その教えをさらに深めた弟子の親鸞は、人々に希望をもたらしました。
展覧会では、絵伝・書画・国宝の仏像・重要文化財180件のゆかりの名宝が一堂に会した凄さに、鑑賞が遅れがちで、同行の友人との約束した時間に足りなくなり端折らざるを得ませんでした。

居並べる写真は僅かですが(TVの録画から引用)ご想像ください。

 
 【法然上人】

 

                【親鸞上人】
      
                

 【阿弥陀二十五菩薩来迎図】
 
 

                【父と共に戦う幼少の法然の絵図】

                

血を流して戦う父を後ろから弓を放って加勢している法然。
9歳の時、土地争論に関連して父は夜討ちをかけられ殺されてしまうのです。父の遺言により仇討ちを断念し、菩提寺の僧侶観覚(母の弟)のもとに引き取られます。才能に気ずいた観覚は出家のための学問を授け、仏教の最高学府であった比叡山での勉学を勧めます。修行して戒律を護持する生活を送り次々と学問を習得して43歳の時には、専修念仏を奉ずる立場に進んで、浄土宗を開き比叡山を下りて念仏の教えを広めるようになっていました。

   【親鸞上人】



法然上人より40年後、父は皇太后宮大進「日野有範」、母は清和源氏八幡太郎義家の孫「吉光女」の長男として誕生。戦乱・飢餓により洛中が荒廃する。
9歳で得度し叡山に上り20年に渡り厳しい修行を積みます。

建久3年源頼朝が、征夷大将軍に任じられ、鎌倉時代に移行します。
29歳の時叡山と決別して下山し、聖徳太子建立の六角堂へ百日参籠を行う。夢中に「救世菩薩」が現れ「修行者ガ前世の因縁によって、女性と一緒になるならば、私が女性になりましょう。そして清らかな生涯を全うし、命が終わる時は導いて極楽に生まれさせよう」と。この夢告に従い、夜明けとともに法然の草庵を訪ねる。百日にわたり法然の元へ通い聴聞する。

法然の専修念仏の教えに触れ入門を決意する。親鸞は研鑽を積み次第に法然に高く評価されるようになる。

妻帯については諸説あり、近年では京都で妻帯したという説が有力視されていて、4男3女を設けています。

親鸞が著した浄土真宗の根本聖典である『強行信証』の冒頭に釈尊の出世本懐の経である 『大無量寿経』が真実の教えであるとし、阿弥陀如来の本願と、本願によって与えられる名号「南無阿弥陀仏」なむあみだぶつ(本願寺派)を浄土門の真実の教え「浄土真宗」であると示しました。
「如来の本願力」(他力)によるもので、我々凡夫のはからい(自力)によるものではないと絶対他力を強調しています。