祝日朝の雑感 ~ 今では当然であるが、がんの告知について考える。告知は患者に、自分が生き抜いてきた道を、歴史を、振り返る機会を与えてくれる。それは決して後ろ向きのことではない。自分が何をしてきたかを振り返ることは、自分が生きてきたあかしを探し求める旅でもあるからだ。 人間は何故生まれ、どうして死ぬのだろうか、おそらくどんな人間であれ、その人が社会に、もしくは他人に、どんな小さなことであれ何かを貢献するために存在していたのだと思う。 つまり、この小さな地球上に、必ず生の爪痕を残すために存在していたのだと思う。幼くして、若くして亡くなられた方も、その死の存在はやがて周囲の人間の生を輝かせ、未来の地球に帰依させる。 常々思うのだが、生と死は対極にあるのではなく、生老病死はすべて自然に連なっている。 さらに沈思すると、それは宇宙の摂理の中で、我々人間を含めた「存在の総体」(物質だけでなく、それを取り巻く空間や時間を含めた総体)として、生々流転を繰り返し続けているような気がする。 現実に目をやると、病や死を悪いのもとして捉える西洋的二元論が、今日に至る医療進化の原動力になったことは、揺るぎない事実だ。それに付随し、死を敗北と捉えることで、死への恐怖、絶望感に、社会が包摂されていることもまた然りである。 仏教が諭すところの「生死一如」という考えも医療の現場には必要ではなかろうか? これを、勝手に東洋的一元論と呼ばせてもらうが、実は、現代最新物理学が証明するところの量子力学の展開は、この一元論的思考を軸にせざるを得ないと言う。 つまり、物質と精神、生と死、など、対極として扱われている概念を、統一させなければ論の展開ができないのだ。 これ以上書くと、大川隆法総裁先生の説法、マザコンの現実逃避、としか思われないのが関の山。 最後に、「意識は宇宙であり、宇宙は量子であり、量子は意識である」ことだけしたため、お開きに。 暑い一日が始まる。
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