歴史的な業績・功績に対して、後世の知名度が低い、いや低すぎる人物がいますが、「阿部正弘」はその最たる人だと思います。 ほとんどの方がご存知ないでしょうが、彼が、現代日本の礎、基礎をつくったと言っても過言ではないのです。 前々から、阿部正弘の人評の低さに~???~ でしたが、先日、セブンイレブンの「アサヒ芸能」立ち読みで、小さく書かれた彼の評伝から、思わず眼がしらが熱くなりました。 上記した「阿部正弘」の評価が端的に記されていたのです。 さすが!!アサヒ芸能!!爆!! ~~~~ペリーが日本にやってきたとき、幕府の老中だった人物です。 阿部正弘は日本が欧米列強に遅れをとっていることを正しく理解しておりました。「国を開いて、世界と交流するしかない」「産業を盛んにして経済力をつける」「そのお金で国を守るために軍備を整える」、つまり、開国、富国、強兵の三本柱が、幕末当時、江戸幕府の大方針であり、その礎を作ったのが、阿部正弘を中心とする幕府の官僚たちだったのです。 一方で、その当時、薩長はどうかというと、尊王攘夷を掲げ、薩英戦争や下関戦争を始めて、ぼこぼこにされます。攘夷が無理だということを見抜いた大久保利通は、幕府を倒した後、上手に攘夷の旗を降ろして、開国、富国、強兵を実行するのですが、そのひな型は、上記したように、すでに、幕府の時代、阿部正弘によって、作られており、その焼き写しといっても過言ではないのです。五箇条の御誓文を始め、明治政府が行った政策のほとんどは、幕末に阿部正弘が用意したものなのです。 下級幕臣の勝海舟を、身分にかかわりなく、脳力で登用するなど、薩長が行った人材発掘作業に先駆けて、始めており、正に「阿部正弘なくして今日の日本はなし」の大功労者であるわけです。 なぜ、あまり阿部正弘が知られていないのか? おそらく、明治維新後、小栗上野介同様、幕府側の重鎮、有能な人物の評伝は、歴史の闇に葬ろうとする、明治政府の確信犯的な方針があったからでしょう。 勝てば官軍、負ければ賊軍ですからね。 歴史は勝者により書かれるのですから。 あらためて、「阿部正弘」を調べなおし、再評価しなければいけない時がきているように思います。 今年、再来年あたり、もしかしたら「阿部正弘ブーム」が到来するかもしれません。 火付け役は僕と言うことで ̄~🤣🤣🤣
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