伏見屋邸は、中村家が明治時代に商いを営んだ家で、屋号を「伏見屋」といったことから伏見屋邸と呼ぶこととしました。 歴史的風致維持向上計画に基づき、歴史的風致形成建造物に指定したこの建物について、平成21年度に史実調査を行い、復元修理の設計を行いました。そして、平成22年度に復元修理工事を実施し、商いを営んでいた当時の面影を取り戻しました。 建物は、屋内に通り庭を設けた江戸時代の民家の形式を残し、上見世・下見世の商い空間を有した特徴があります。建築は、旧所有者が屋根を修理した際に出てきた棟札(滅失)と、代々の家人の言い伝えから元治元年(1864)の建築と推定されますが、近年まで生活していたことで各所が改変されていました。幸いに基本的な構造と、当時に使われていた建具類がかなり遺されていたことから、復元の手懸かりが多く残っていました。 中村家は系図によると、武田氏の流れを汲み武田信玄の諏訪統治とともに諏訪に移り住んだといわれます。そして、江戸時代は代々名主・年寄役をつとめていた家柄でこの地域でも旧家です。 伏見屋中村家は、幕末に中村尉右衛門の代に分家した中村平助が、明治6年下諏訪で最初の器械製糸を創業しました。 その子鎌治郎は生糸商をはじめ、呉服・太物・洋物・荒物・飲料・煙草・畳表などを扱う商売、質屋も営み屋号を「伏見屋」中村商店としました。明治10年ころのことです。その後岡谷にも支店を出すこともありましたが、商いは鎌治郎の代で終わりました。 (伏見屋邸の由来 より)
立川和四郎富昌の次男、専四郎富種。啄斉と号し、豊川稲荷奥の院本殿、拝殿を建築しました。父や兄富重と共同で他の建築にも従事しましたが、どちらかといえば彫刻専門でした。(紹介文より)
五間廊