今日も暑い1日でした。今日、明日は、お寺は大変忙しいのです。先週、台風の影響でご法事がキャンセルになってしまった影響で、今週に延期にされた方が多いからでございます。
葬儀社の方が、いつも言われるのが、ご葬儀自体は多いのですが、その多くは、火葬のみで、僧侶は頼む必要ないという方が多いので、なかなか、法徳寺さんにお願いできなくて、申し訳ありませんと言われるので、いやいや、別に申し訳なくは無いのであります。私としては、そういう方が、多くなるのは当然であります。僧侶にわけのわからないお経称えてもらっても、何の意味もないとそう思われていらっしゃる方が多いからであります。それは僧侶側の責任であります。そういえば、最近よく研修会で聞かれるのは、葬儀社は、僧侶を排除していこうというご意向だそうであります。本当かどうなのか、私にはわかりませんけれども、講師の方もそのような話をしたほうが、参加者が、危機感を持って、聞く耳を持つからであります。葬儀を、僧侶を頼み勤めたいと言う人もたくさんいますし、直葬でいいと言う人もたくさんいるのであります。それぞれの家庭の事情で決めてください、私は全くご意向に沿うだけであります。お願いされれば、お勤めさせてもらうし、お呼びがなければ、仕方がないのであります。これから葬儀がなくなっても、どうやってお寺を維持していくのか、それを考えるのが住職であります。浄土真宗のお寺は、なくなりません、なぜなら、死の解決を説いるからであります。この大問題を解決しなければ、安心して死んでいけません。死の解決を解かなければ、浄土真宗のお寺はなくなっていくのであります。必要とされなくなったら、もう存在価値は無いのです、ただ、宗派は関係ない霊園と同じ墓守りだけでしかなってしまいます。しかし、墓守も結構大変であります。今の世の中、どう生きていくかが大事であって、いかに死んでいくかと、死んだらどうなるのかと言う問題から逃げているのであります。阿弥陀如来は、既に南無阿弥陀仏の呼び声となって、私に届いています。私がお浄土に救われる証拠は、私の口に南無阿弥陀仏と称えさせていただけることであります。南無阿弥陀仏は、任せよ必ず救うの阿弥陀の呼び声であります。それを、聞かせていただかなかったら、この世に生まれた意味は無いのであります。