浄土真宗本願寺派 法徳寺ブログ

神奈川県厚木市にある浄土真宗本願寺派(西)のお寺です。
永代供養墓10万より受付中です。

浄土真宗の本尊は南無阿弥陀仏です

2023-11-23 15:26:41 | 法話

私のカバンには、小さな三つ折り本尊が入っています。南無阿弥陀仏と書かれ、その下は、蓮台が描かれています。浄土真宗のご本尊は、南無阿弥陀仏の六字名号ですから、蓮台の上に書かれているのです。南無阿弥陀仏の六字名号をご本尊にされたのは親鸞聖人だけだと言われます。「南無せよ阿弥陀仏に(まかせよ、阿弥陀仏に)」南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏の呼び声であり、今、私にはたらいている仏様です。私の口に、念仏となって現れ出て下さっています。念仏して助かるのではなく、南無阿弥陀仏のいわれを聞いて助かるのが浄土真宗です。いつでも、南無阿弥陀仏が先です。私が先ならば、南無阿弥陀仏は、「助けてください」とお願いする意味になります。しかし、南無阿弥陀仏が先に、はたらいてくださるのを聞かせて頂くのですから、「助けて下さい」は必要なく、「ありがとうございます」と聞かせて頂くだけです。





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無明の闇

2023-08-26 16:11:00 | 法話

今朝は、秋を感じさせるような爽やか風が吹く境内でしたが、やはり、だんだんと暑く感じてきました。昨日のような、不安定な天気の時は、まるで、人生のようで、私は嫌いではありません。どしゃぶりの雨の中で、法事をされたり、納骨をする時もありますが、そんな時、後から思えば記憶に残る思い出になります。天気に、良い・悪いはありません、人間が自分の都合で勝手に決めています。雨が降り良い天気と思う事もあります。人生に起こる出来事にも、良い・悪いはないのです。自分がどう受け止めるかです。病気も、特別ではなく同じです。仏教に出会う前の私は、なんでも、良い悪いを、自分で判断して、それが正しいと思っていました。病気は最悪と思ってました。もし、病気になって有り難いと思えたら、これは、凄いことです。病気に感謝!などと思えたら、人生の達人です、世の中に怖いものなどなくなります。世の中には、そういう受け止め方を、されている方が実際いらっしゃいます。病気したことで、健康に気を付けるようになり、長生きする方もたくさんいらっしゃいます。良縁・悪縁という言葉も、仏教にはありません。よく、人との出会いをご縁と申します。縁に、良い・悪いはないのです。どんなに素晴らしい方と出会ったとしても、幸せになるとは限りません。阿弥陀如来の救いは、私の人生を、常に照らして下さるのです。照らすとは、無明の闇から解放されることです。無明の闇とは、雨=悪い天気、病気=嫌な事など、という決めつけ、我執(自分のとらわれた考え)です。私たちは、常に、自分にとって良いことが起こりますようにと願うはずです。しかし、そんな人生などありえません。ビジネスの世界では、ピンチこそチャンスだと言うそうです。自分にとって、都合の悪いことが起こった時こそ、自分に何か大切な事を、気付かせようとしてくれているチャンスなのかもしれないのです。人生を真っ暗闇と考える事も出来るし、チャンスととらえることも出来ます。阿弥陀如来の究極的な救いは、私をお浄土へ救うことです。浄土真宗への一番の誤解は、死んでからの救いと思われていることです。そう思われても仕方がない面もあります。実際、私は、僧侶になってからもそう思ってました。でも、死の解決は、人生で最も難易度の高い問題です、人間の力ではどうにも出来ないものを、私に代わって阿弥陀如来が解決して下さったのです。私が、この世に生まれ、最も、難しい問題を、阿弥陀如来が解決して下さったのです、人生でこれ以上難しい問題はありません。後の事は、死の解決に比べればたいした問題ではないのです。浄土に生まれ、仏と成ることだけは、人間の力では不可能です。死は、生きることを否定する大問題です。死の解決は、死んでからの救いではなく、今の救いです。誰も死にたいとは思えないはずです。そして、歴史上、死を免れた方はいないのです。仏様に見守られて生きるということは、自分なりに精一杯生きようと思うこと、そして、一歩踏み出すことです。仏様は、完璧など求めてません、あなたは、あなたのままで、良いのです。背伸びする必要もありません、好きなように生きて下さい、他人に迷惑をかけてしまうこともあると思います、頑張りたい方は頑張れば良いのです。のんびりと生きたい方も、素晴らしい生き方です。阿弥陀如来の救いには、条件が付いてありません。生き方もお示しになっておりません。こういう生き方をすれば、救いますというものはありません。私には、限られたいのちしかありません。今、生きていることは当たり前ではありません。今日も一日、自分なりに、悔いのない生き方が出来れば、それは、幸せなのだと思います。無明の闇は、とても深い闇です、闇から救われるには、阿弥陀如来の光明に出会うことです。


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今から生き方変えましょう

2023-08-23 17:33:15 | 法話

今日は、お盆法要に参加出来ず、後から、お布施を頂いたりした方のために、お礼を込めて、読経を勤めました。







今日、明日と、本堂が大掃除で使えないので、第二本堂でお勤めを致しました。作家の五木寛之先生を知らない方は、いらっしゃらないでしょう。五木先生は、親鸞聖人や仏教に関する本も数多く書いておられますが、先生は、何となく、世の中の風潮とは逆の発想をされるような気がしております。だからこそ、注目されるのですが。「捨てない生き方」という本もそうです、断捨離ブームの逆をいっています。五木先生が、昨年、月刊住職のコラムに書かれている中で、高齢化がすすむ近年の日本では、「終活」が話題ですが、実は、多くの人はそんなに死を真剣に考えていないのではないか。むしろ、問題になっているのは今の生き方です。と書かれています。浄土真宗の救いの根幹は、阿弥陀如来のお浄土へ救われることです。それは、死んでからの救いであると誤解されます。阿弥陀如来の救いは、未来が変わり、生き方がかわることです。地獄往きの私が、浄土に生まれていく人生に変わるのですから、未来が変わり、生き方も変わります。そもそも、死んだらどうなるかなど、人間が考えても答えは出ません、それは、私が心配することではありません、受け持ちは、阿弥陀如来です。私に出来ることは、阿弥陀如来にお任せする以外にはありません。五木先生がご指摘されているとおり、問題は、今の生き方です。今が幸せな生き方をする方は、未来も幸せです。今が不幸せなら、未来も不幸せです。時々、孫が出来ればとか思うかもしれませんが、それは、周りに自分の幸せを依存しているのです。そんな期待はしない方が良いのです。孫がいようがいまいが、幸せな方は幸せだし、不幸せな人は不幸せです。しかし、阿弥陀如来に出会うことで、人生は必ず変わります。一つ例をあげれば、阿弥陀如来は、私を幸せにしたいと常に願われているのです。それだけで、人生変わると思います。一人で生きているのではなく、仏様に願われている、護られているというだけで、幸せです。みんな、幸せに生きたいのです。でも、多くの方は、幸せを感じていません。むしろ、不満・不安ばかりを感じて生きているのではないかと思います。そして、どこか、常にイライラしています。それを、自分が不幸せなのは、周りのせいにしていませんか?本当に、もったいことです。阿弥陀如来が護って下さっているのですから、みんな、自分が幸せな生き方をして良いのです。周りに気を使い、嫌な付き合いをし、世間体を気にして、自分の楽しみを我慢していませんか?そんな生き方は、今すぐやめましょうよ。私は、そうしています。その方が、みんな明るく良い日本になり、景気も良くなります。みんな、明日生きている保証はないのです。今からでも、自分が幸せに生きるべきなのです。周りから、悪口言われるくらいでちょうどよいのです。そういう方は、そもそも優しくて思いやりがある方ばかりです。たまには、悪口言われてみましょうよ。最近、私は、いろいろな方から相談を受ける中で一番多いのは、「私が死んだら、葬儀はしないで、火葬だけで済ませたいのですが、住職、それでも良いですか?」これが、最近、一番多い相談です。その理由は、なるべく、家族に周りに迷惑かけたくないからだと言われます。でも、不思議なことに、いざ、そういう相談をされた方が亡くなると、どうなるのかというと、残されたご家族は、通夜・葬儀をしたいと思いますと言われます。子供さん、お孫さんは、迷惑だなんて思っていません。ちゃんと、恩返しをしたいと思ってくれています。優しくしてくれた、愛情深く育ててくれた御恩は忘れることはないのです。もう一つ、これは、半分冗談と聞いてください、俺が死んだら・・・と相談にいらっしゃる方は、だいたい長生きします。


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臨終法話(人生最後の法話)

2023-08-21 10:53:49 | 法話

今日は、午前中、ご法事がありましたが、お盆の事務作業が一段落し、夕方、郵便局で、発送作業が終わりました。昨晩寝る前に、また、月刊住職に目を通していると、私には、なじみのない、真言宗開祖 弘法大師のお言葉が紹介されており、なるほど・なるほどと引き込まれてしまいました。やはり、名僧の言葉は、宗派を超えて心に響きます。「朝夕涙を流し 日夜にいたみを含むといえども、亡魂に益なし」(亡き人に朝夕涙を流し、日夜に悲しんでも、亡き人には何の利益もないのです。

「逝者(亡き方)は、じょう楽(仏の世界をたのしむ)し、留まる人(残された家族)は苦しむ」とも述べられ、「強壮は、今朝、病死は明夕なり」(元気にさかんなのは今朝のこと、病気を得て死ぬのは、明日の夕方です。)無常というものの、迅速さを端的に述べられています。この言葉を紹介されていた記者は、ある法話会にて、その時の講師が、開口一番、「ここにいる人びとは、すべて今晩12時に死ぬ、そんな気持ちで聞いて頂きたい」と言われ、今も自分の耳に鳴り響いており、消えることはありません。と述べれています。

いくら、残された者が悲しんでも、亡き方は喜ぶことはないのです。それよりも、死は他人事ではなく、今を生きていることに感謝をし、残された人生を悔いなきよう生きることが、亡き方への利益(喜び)となるのです、迷っているのは、亡き方ではなく、残された者であり、亡き方は、残された者を、命終えた後、お浄土の世界に救うことを楽しんでいると私は受け止めました。浄土真宗八代目門主 蓮如上人の有名なお言葉にも、「朝には紅顔ありて 夕には白骨となれる身なり」(朝にお元気であっても、夕には、死を迎えるかもわからない)(白骨の御文章)とお示し下さっております。最後に述べられている、あるご講師の開口一番の言葉は、聞いている者を、一瞬のうちに、緊張感をもって法話を聞かなければならないことを教えてくれます。法話を聞く時は、いつも臨終法話(人生最後の法話)と思って聞かなければならないと、私も何度も教えて頂きました。ほとんどの方は、法話を聞いても他人事で、死は、未来の出来事のように聞いていることを、戒められています。宗派を超えて、開祖と呼ばれる方の言葉には重みがございます。


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仏様の存在理由

2023-07-29 21:45:00 | 法話

本日は、お寺の法事が一件だけでしたが、霊園さんのご法事が、5件ございました。最近、お寺でも法事の後に、会食をされる方が増えてきました。大変、嬉しいです。コロナが流行する前、お寺で、会食を希望される方がとても多く、会場を、リニューアルしたのですが、その工事が終わったとたんに、コロナが流行、誰もお食事をしなくなってしまいました。会場は、どなたでも、無料で使えますので、お気軽にご利用下さい。




今日は、熱中症警戒レベルというよりも危険レベルでした。この時期のお墓の前でのご法事は、なるべく、短めのお経でお願いしますと、あらかじめ、僧侶の方にお願いした方が良いです。僧侶の立場からしますと、あまり、短く終わると、後で、手を抜いたんじゃないか、お布施を返せとクレームを言われないか心配なので、暑い時期でも、きっちりと勤めたい気持ちがあるのです。僧侶は、まだ、この時期のお墓の前での読経は慣れていますし、自分で読経していますからまだ良いのです。問題は、参列されている方です、しかも、喪服の方には、大変、辛いです、皆さん、気を使って、読経が始まると、日傘をたたんだりますが、たたんではいけません、そんなことで、亡き方も、僧侶も、失礼などと思いません、私は、いつも、読経しながら、皆さんが体調を崩されないか心配です。この時期のお墓を触ってみてください、本当に、やけどします。我慢して、辛い思いをしているお姿を、亡き方も心配されていると思います。ところで、最近、あちらこちらで、汚れた消毒液のボトルを見かけます。特に、屋外の手洗い場などに置いてある消毒液は、もう誰も使いません。他人事のように書いてますが、私のお寺も同じでした、今もいちよ、置いてありますが、まったく、減りません。コロナ禍で、沢山買ったアクリル板も、今後、どおしましょうか?最近、皆さん、「あなたは、常識がない」とか、「そんなの常識だろ」という言葉、使いますか?私は、そもそも、あまり、好きな言葉ではないので、使いません。浄土真宗の開祖、親鸞聖人も、他宗からみれは、仏教の非常識でした、ですから、弾圧があり、結果、京都から越後の国に流罪になりました。仏教の常識では、私のような僧侶は、救われません。修行をしていません、煩悩だらけです、五戒(詳しくは検索されてみてください)も守れません。死んだら、間違いなく地獄行きです。でも、親鸞聖人の教えに出会ったからこそ、自分は地獄往きだと言えるのです。それは、地獄往きの私を救う仏様が阿弥陀如来だからです。私が、修行を真面目に出来て、煩悩はなく、五戒をたもてる人間であれば、阿弥陀如来は、存在理由はなくなります。私がいることが、阿弥陀如来の存在理由です。消毒液もアクリル板も、いつか、その存在理由はなくなります。でも、人間がいるかぎり、阿弥陀如来の存在理由は無くなりません。私は、昔、先生に、阿弥陀如来は、「私の罪を、何でもおゆるしくださるのですね?」と質問しました。答えは、違っていました。「ゆるすことが出来ないからお救い下さるのだ」と教えて頂きました。ゆるすということは、見捨てるということだ、何があっても見捨てることが出来ないから、阿弥陀如来は、逃げても逃げても、追いかけてきて、救うのだと教えて下さいました。私にとってその言葉は、とても、衝撃的でした。もし、我が子が、何か、悪い事をしたら、おまえゆるせるか?ゆるすということは、見捨てることだ、本当の親なら、子供と一緒に人生を歩むだろう。と言われたのを覚えております。仏様は、優しい方とは少し違う気がしました、優しいけど、厳しく、強い方なように感じたのでした。

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