浄土真宗本願寺派 法徳寺ブログ

神奈川県厚木市にある浄土真宗本願寺派(西)のお寺です。
永代供養墓10万より受付中です。

8月の法話

2014-07-31 13:45:19 | 法話
愛別離苦

 今年の夏もとても暑いですね。皆さんいかがお過ごしでしょうか。

私にとっても去年と同じ、あの暑い夏がやってきました。初夏に母の難病が発覚し、治療の余地がないこと、長くはないことを知らされ、
 
お見舞いの病院通いで夏をすごしました。
 
ちょうど子供達は夏休みだったので、私の寺からは遠いにもかかわらず毎週のように行きました。夏も終わりを迎える8月29日往生を遂げました。
 
それから早くも1年が経とうとしています。

同じ季節がやってくると思い出すということは、以前から感じることもあったのでよく年忌法要の法話で「命日と同じ季節がやってくるとあの辛い
 
別れのことを思い出すのではないでしょうか」と話していましたが、今回ばかりは本当に実感して思い出し、ますます暑さが辛く感じます。

 
親鸞聖人はお釈迦様が定めた人間の八つの苦しみ(生、老、病、死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦)の中で
 
「愛別離苦が最も痛切なものである」と「口伝鈔」の中で伝えています。八つの苦しみの中には、自分が老いることや死んでいく苦しみもありますが、
 
愛している者どうしが別れていくことほど、悲しく切ないものはないというのです。


ならばあの人と出会わなければよかったなどと思うでしょうか。いいえ決してそうは思わないでしょう。
 
親子、夫婦、兄弟、恋人、友達、不思議な縁によって気がついたら縁結びを頂いてつながっていたことでしょう。
 
仏教ではこれを結縁(けちえん)といい、元々「仏道に入る縁を結ぶ」という意味です。

 
私たちは、皆さんが故人と別れ悲痛な苦しみの中、仏教の教えを伝え元気を取り戻し前向きに生きて欲しいと願っています。
 
仏教を聞いたからといってスッキリ解決するわけではありませんが、真実に出会い、周りの方々や自分と改めて向き合い、
 
少しずつ普段の生活を取り戻せると思っています。どうぞ法徳寺のお盆法要にご参加ください。
 

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平成26年お盆法要のご案内

2014-07-27 18:48:12 | お知らせ

◆  法徳寺 新盆・お盆法要 ◆

8月15日  

① 新盆対象   10時

② 新盆対象   11時半

③ 一般お盆   午後 1時

④ 一般お盆   午後 2時半

8月16日  

⑤ 一般お盆   10時

⑥ 一般お盆  11時半

持ち物 過去帳または位牌 お念珠 お経の本 お供え用紙(当日受付にもあります)

すべての回、法要の時間は、約30分 予約の必要はありません。

多数のお参りのため、一家族5名様まで

都合により、対象以外の回にお参り頂いても大丈夫です。

服装は、平服で大丈夫です。

(合同法要のお布施の目安 新盆2万円・その他1万円)

当日、ご参加できない方は、僧侶が代理で供養致します。ご希望の方は、お布施をお送り下さい。

(代理供養のお布施の目安 新盆1万円・その他5千円)


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第二合祀墓が出来ました

2014-07-25 18:25:31 | お知らせ

6月に完成し、ご納骨が出来るようになりました。

約一ヶ月で、25体をご納骨させて頂きました。

費用は、第一合祀墓と同じです。


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7月の法話

2014-07-02 21:45:50 | 法話

中道

 シャカ族の王子として生まれ、後に仏教の開祖となる、お釈迦様は29歳に城を出るまで、何一つ不自由のない贅沢な暮らしをしていました。

ある日城外の、衰えた老人、やつれて苦しんでいる病人、死者の葬列という現実を見た釈尊は、享楽的な自分の日常に疑問を感じました。

そして29歳の時、妻や子供も城に置き去りにして出家したのです。

出家修行者としての生活を始めた釈尊は、様々な苦行を重ねることで真実を見出そうとします。わずかな食物と水だけをとる断食や、

呼吸を止めるなどの苦行を6年間続けますが、骨と皮だけになり心身ともに疲弊しきってしまいました。

                        


釈尊は、苦行によって真の悟りを開く事は出来ないとの思いに至り、ついに苦行を断念しました。

栄養を取り元気を取り戻した釈尊は、菩提樹の下で瞑想に入り、ついに悟りを開いたのです。

                         

 

 結局、厳しい修行によって悟りを開いたのではなく、むしろ苦行は無意味だったと悟り、快楽の生活も、苦行の生活も極端であってはならない。

その中間「中道」の結論に至ったのです。

釈尊は王子だった頃と苦行生活の経験から、極端に楽に偏ることも、苦に偏ることも無益であると悟ったのです。

これは何でも中途半端がいいと言っているわけではなく、快楽に溺れることは低俗であり求道の道に反するが、肉体的消耗を

追い求めることも仏の道を極める道にはならないと考えたのです。

釈尊はこれを琴の弦にも例えています。「弦は締めすぎても、緩めすぎてもいい音は出ない。程よく張っているものが良い。

僧侶の精進もそうあるべきだ」と 親鸞聖人の絶対他力の教え(修行によって仏になるのではなく、阿弥陀さまにお任せする)とは違う事ですが、

何か相通じるものがある気がします。  

(伊東知幸)


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