私は、他の宗派のご住職とお会いすることはあっても、教義の事となると、話しをすることはありません。ケンカにはならないにしても、気まずい雰囲気になるのが嫌だからです。それは、素晴らしい教えですねといって、明日から、私の寺の宗派を、そちらの宗派に変更しましょうという訳にもいきません。しかし、同じ宗派のご住職とお話をする中で、私のお寺は、昔は、〇〇宗だったのが、親鸞聖人に出会って、浄土真宗になったんだよという話はよくお聞きする話です。それほど、親鸞聖人の影響力は凄かったのだと思います。ただ、戦後、日本は大きく変わりました。もともと浄土真宗の門徒だった方が、他宗に宗旨替えされた方も数多くいらっしゃいます。特に、新興宗教と言われる方からは、浄土真宗は、死んだら用事のある宗派で、生きている間は、用事がないと言われてしまうと、それは、心がゆらぎます。私も浄土真宗の寺に生まれながらも、同じことを思ってました。お寺は、死んだら用事があるところだと思っておりました。今も、日本人の多くは、そう思っていると思います。住職として大いに反省するところです。でも、今は、有難いことに、インターネットで、家に居ながらにして、法話も聞くことが出来ます。本屋さんに行けば、浄土真宗の本もたくさん売っております。本当は、どうなのか、是非、ご興味があれば、お試しください、本当に、死んでからの救いなのか?
いのちに関わるような病院での検査、皆さんもある程度の年齢の方は、ご経験があるかと思います。検査の結果が出るまでの間の二週間、とても長く感じ、生きたここちがしません。何を聞いても、うわのそら、旅行に誘われても、行く気はしません。たとえ、旅行に行っても、まったく、楽しめません。美味しい食物も美味しく感じません。なぜなら、その検査結果の事で、頭が一杯だからです。その訳は、健康に対する執着、生きることへの執着があるからです。私も何度か、経験しました。ところが、医者より、心配ありませんという診断を聞いた瞬間、急に、気分は晴れやかになり、生きている事がなんて幸せなんだと思えたり、美味しい物が食べたくなったり、旅行に行きたくなったりします。しかし、診断結果が自分の願い通りでないことも当然あります。同じ世界なのに、世の中が極楽浄土に感じたり、逆に地獄のように感じるのです。この世界は、自分の心が作り出しています。どんな結果であっても、心が動じることなく、受け入れられるなら、楽なのに、人間(私は)そうはいきません。病気や死を恐れるのは、人間だけだと、聞きます。今の時期、境内の老木のしらかしは、たくさんのどんぐりを実らせています。境内の樹木の管理をして下さっている樹木医さんに、昔、今年もこんなにたくさんの実がなり、しらかしが元気で安心しましたとお礼を言ったことがあります。しかし、樹木医さんの返答は、意外なものでした、実は、逆なんです。この木は、もうかなりの老木です。私としては、こんなに、どんぐりを、実らせて欲しくないのです。本当は、このどんぐりを、実らせる栄養を、自分に使って欲しいのです。これは、木が、子孫を残そうと必死なのです。木が、世代交代の時期がきていることを分かっているからなのです。私は、この話を聞いて、涙が出てきました。前にも紹介しましたが、植物学者の先生が、植物は、人間に比べてはるかに強いものですとおっしゃっていましたが、本当に、そのとおりだなと思いました。