昨日は、母の命日に、父と子供、孫で法要をお勤めしたのですが、法事というものは、勤める前は、なかなか気が重く、面倒なものです。誰を呼ぶか、食事はどうするのか、お返し物をするかどうかなど、そして、兄弟で、日時や場所などで意見が合わなかったり、いろいろとあると思いますが、法事を勤めるのは、強制的なものではありません。しかし、昨日も思いましたが、勤めた後、やっぱり、みんなが集まって、亡き方を偲ぶというのは、実に、終わった後、清々しい気持ちになるものなのです。そういえば、10年前は、父は、まだ、足腰がしっかりしていて、母のお見舞いに、毎日、自分一人で行っていたのを思い出しました。しかし、今は、だいぶ、足腰が弱ってしまい、歩くのもやっとになってしまい、杖を利用しないと歩けなくなりました。頭は、あいかわらず、衰えてないのが凄いことです。10年前は、夏は、もちろん、暑かったですが、今のような猛暑ではなかったように思います。まだまだ、家族葬や一日葬というのは、少なかった時代で、亡くなれば、とうぜん、通夜、葬儀を勤めている時代、隣近所も参列が当たり前の時代でした。会社関係の方も、多く参列されていました。通夜も私が読経を勤めている、隣の会場から、読経中から、通夜振る舞い行われ、お酒もはいって、大きな笑い声が聞こえてくるような場面も多かったのです。でも、それが、当たり前だったのです。読経が終わるまで待っている方は、親族だけで、お焼香が終われば、通夜の食事の席に通されていました、そうでないと、会場が人であふれてしまうからです。参列者が、100名などというのは当たり前で、中には、1000人を超すような社葬のような葬儀もございました。お焼香が終わるまで導師は、読経を終われないので、一時間以上読経を勤めることもありました。今思えば、懐かしい思い出になってしまいました。また、1000人を超すような、葬儀が復活するのでしょうか?コロナ禍前からですが、街では、家族葬専門という看板をかかげる葬儀社さんが多く見られます。なんとなく、費用が安く済むようなイメージがあるからでしょうか?私の母の時の通夜葬儀も多くのお参りが来て下さって、有難かったです。お寺は、特に、参列者が多く、私も終わった後は、身も心もクタクタでした。通夜・葬儀を出す大変さを味わった世代の方が、子供さんたちに、苦労はかけたくないと、家族だけで見送ってくれと遺言するのも分かる気がします。あれから、10年、コロナ禍もあり、お寺をとりまく環境は、大きく変わりました。家族葬儀が主流となり、一般葬儀の方が珍しいことになりました。お墓も、永代供養墓、樹木葬などが主流です。さて、この先、10年後は、どうなっていくのでしょうか。ますます、どう生きるべきなのか悩み苦しむ方が多くなると思います。心療内科の先生も今後も大忙しだと思います。怪しいと言ってはいけないのかもしれませんが、ますます、いろいろな宗教が流行りますよ。先日、書かせて頂いたとおり、五木寛之先生がおっしゃっていた、人間、いつか死ぬことに悩んでない、それよりも、今をどう生きるべきなのかを悩んでいるのです。確かに、法話会に参加して下さる方は、ずいぶん、多くなりました。有難いことです。
母の部屋は、今もそのまま、いつも、ここに座って、テレビを見ていたね。と、みんなが、話すのを聞くと、また、思い出して、泣けてきました。10年前の今日の私は、悲しんでいる余裕はなく、通夜、葬儀の準備に追われて、何とか、通夜葬儀が終わった時には、身も心もボロボロになって、精神的にも不安定になりました。不眠症にもなり、しばらく、睡眠薬を飲まないと眠れなくなりました、そして、もう、49日の準備をしなければならず、体の不調は続きました。そして、相続の手続きやら、やらなければならない事が多すぎて、心が限界でした。そんな時、私を救ってくれたのが、浄土真宗の教えと、登山を始めた事でした。今では、良き思い出ですが、あの頃の自分は、よく頑張っていたと思います。
今朝は、秋を感じさせるような爽やか風が吹く境内でしたが、やはり、だんだんと暑く感じてきました。昨日のような、不安定な天気の時は、まるで、人生のようで、私は嫌いではありません。どしゃぶりの雨の中で、法事をされたり、納骨をする時もありますが、そんな時、後から思えば記憶に残る思い出になります。天気に、良い・悪いはありません、人間が自分の都合で勝手に決めています。雨が降り良い天気と思う事もあります。人生に起こる出来事にも、良い・悪いはないのです。自分がどう受け止めるかです。病気も、特別ではなく同じです。仏教に出会う前の私は、なんでも、良い悪いを、自分で判断して、それが正しいと思っていました。病気は最悪と思ってました。もし、病気になって有り難いと思えたら、これは、凄いことです。病気に感謝!などと思えたら、人生の達人です、世の中に怖いものなどなくなります。世の中には、そういう受け止め方を、されている方が実際いらっしゃいます。病気したことで、健康に気を付けるようになり、長生きする方もたくさんいらっしゃいます。良縁・悪縁という言葉も、仏教にはありません。よく、人との出会いをご縁と申します。縁に、良い・悪いはないのです。どんなに素晴らしい方と出会ったとしても、幸せになるとは限りません。阿弥陀如来の救いは、私の人生を、常に照らして下さるのです。照らすとは、無明の闇から解放されることです。無明の闇とは、雨=悪い天気、病気=嫌な事など、という決めつけ、我執(自分のとらわれた考え)です。私たちは、常に、自分にとって良いことが起こりますようにと願うはずです。しかし、そんな人生などありえません。ビジネスの世界では、ピンチこそチャンスだと言うそうです。自分にとって、都合の悪いことが起こった時こそ、自分に何か大切な事を、気付かせようとしてくれているチャンスなのかもしれないのです。人生を真っ暗闇と考える事も出来るし、チャンスととらえることも出来ます。阿弥陀如来の究極的な救いは、私をお浄土へ救うことです。浄土真宗への一番の誤解は、死んでからの救いと思われていることです。そう思われても仕方がない面もあります。実際、私は、僧侶になってからもそう思ってました。でも、死の解決は、人生で最も難易度の高い問題です、人間の力ではどうにも出来ないものを、私に代わって阿弥陀如来が解決して下さったのです。私が、この世に生まれ、最も、難しい問題を、阿弥陀如来が解決して下さったのです、人生でこれ以上難しい問題はありません。後の事は、死の解決に比べればたいした問題ではないのです。浄土に生まれ、仏と成ることだけは、人間の力では不可能です。死は、生きることを否定する大問題です。死の解決は、死んでからの救いではなく、今の救いです。誰も死にたいとは思えないはずです。そして、歴史上、死を免れた方はいないのです。仏様に見守られて生きるということは、自分なりに精一杯生きようと思うこと、そして、一歩踏み出すことです。仏様は、完璧など求めてません、あなたは、あなたのままで、良いのです。背伸びする必要もありません、好きなように生きて下さい、他人に迷惑をかけてしまうこともあると思います、頑張りたい方は頑張れば良いのです。のんびりと生きたい方も、素晴らしい生き方です。阿弥陀如来の救いには、条件が付いてありません。生き方もお示しになっておりません。こういう生き方をすれば、救いますというものはありません。私には、限られたいのちしかありません。今、生きていることは当たり前ではありません。今日も一日、自分なりに、悔いのない生き方が出来れば、それは、幸せなのだと思います。無明の闇は、とても深い闇です、闇から救われるには、阿弥陀如来の光明に出会うことです。