浄土真宗本願寺派 法徳寺ブログ

神奈川県厚木市にある浄土真宗本願寺派(西)のお寺です。
永代供養墓10万より受付中です。

人生いろいろ

2024-02-29 20:52:00 | お知らせ
今日は、30年以上のお付き合いの檀家さんに会いに行ってきました。特に、ご法事ということではなく、お一人暮らしなので、どんな様子か会いに行ってきたのであります。施設にお住まいなので、昨年までは、コロナ禍のためロビーでの面会しか許されなかったのですが、今はようやく、お部屋まで入ることができるようになりました。しかし、来週には、やっと慣れてきた、施設から、新しい施設へ引っ越しをしなければならないそうです。体が不自由になると、自立型の施設では難しくなってしまうのです。ご本人も、来週には引っ越しをしなければならず、歳をとってからの引っ越しは本当に大変です。また、みんなに迷惑をかけますとおっしゃっていました。その方のご主人も、生前中、私に優しくしてくれました。今日も、私がまだ大学生の頃、お参りさせてもらっていた思い出話に、懐かしく思ったことであります。その方も、88歳になられたそうです。時々、生きているのは、辛いから早く死にたいわとか、話をされます。死んだらどうなるのかしらとも話されます。私は何も言わず、ただ聞いてるだけです。早く死にたいわと言うのも、正直な気持ちなんだと思うからであります。だから、そんなこと言わないでよとは言わないことにしています。でも、亡きご主人と亡き息子が、わたしの為に残してくれたお金で、今、私は生かさせてもらっている。と感謝の気持ちも話されます。私も長生きができたら88歳の時、どんな思いで生きているのだろうなぁと思ったりいたしました。その方の年齢になってみないと、悩みや苦しみはわからないのだと思いました。


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阿弥陀如来の存在理由

2024-02-28 21:58:00 | お知らせ
自業自得、因果応報、この言葉は、興味深い言葉なのではないかと思っています。テレビドラマでも、「あいつは自業自得だ」と言うセリフがよく出てきます。それだけ日本人に浸透している仏教用語なのです。
世の中には、生まれつき、お金のある人もない人もいます。生まれつき健康に恵まれた人もいれば、体の弱い方もいらっしゃいます。それは、なぜそのような違いがあるのでしょうか?私はずっと謎でありました。生まれつき容姿に恵まれた人もいるし、恵まれない人もいる。それも謎であります。世の中、謎だらけです。それは、どこにその違いが生じるのでしょうか。命は平等ということが、今、当たり前のように言われていますが、実際はそうなってはおりません。阿弥陀如来の前には、私たちは平等であります。阿弥陀如来の救いには差別は何もないのであります。前世の行いが、今の世を決めているのであります。そして、今の世の行いが、来世を決めるのです。仏教は、三世因果を説いております。しかし、この三世因果をほとんどの方は知りませんし、信じようとしません。ほとんどの日本人は、現世だけであって、死んだら終わりだと思っているのではないでしょうか。自業自得も、この世のことだけだと、思われている方が多いようであります。そして、僧侶も三世因果をお説教しません。なぜなら、差別につながるからであります。あなたが、今、病気なのは、過去の行いのせいですよと、このように言ったら差別につながります。しかし、前世の行いが関係していることは、お釈迦様が説いていらっしゃいます。しかし、ここで大切なのは、これは、全て他人事ではない話なのであります。今、この世で健康に恵まれていた方が、前世では、病気に大変苦しんでいたかもしれないのであります。この世で、お金に恵まれていた方、前世では、大変お金に困って苦しい思いをしたかもしれないのであります。それを、今、この世で苦しんでいる方を見て、他人事ではないと見ていくのが仏教ではあります。他人事と語っていては、それは差別であります。私も来世ではどうなるか分かりません。阿弥陀如来の救いは、行いによって、生死を繰り返し、六道輪廻から抜け出せない私を、仏の世界へと救う願いであります。しかし、この三世因果が抜けてしまうと、なぜ阿弥陀如来が、私を救うのが、分からないのです。私がいなければ、阿弥陀如来は存在理由がないのであります。阿弥陀如来の存在理由は、私を地獄になど堕とさないという願いと、聞かせていただくのであります。





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浄土真宗のお寺とは

2024-02-27 21:08:00 | お知らせ

法徳寺は、浄土真宗本願寺派に属しております。500年の歴史の中で真宗大谷派(東本願寺)に属していた時代もあったようであります。いわば、フランチャイズに加盟し、フランチャイズ料を支払い、看板を出させていただいています。当たり前ですが、浄土真宗本願寺派に属していなければ、看板は出せないのであります。本山は、京都堀川通りにある西本願寺であります。そして、トップは、現在、第25代門主大谷光淳さまであります。ご門主さまは、まだ新門様(次の代のご門主)の時に法徳寺にお立ち寄りいただいたことがございました。西本願寺も東本願寺も元は1つでしたから、両方とも、親鸞聖人の血脈で、代々受け継がれています。浄土真宗の寺院の特徴として、他の宗派にはない世襲性があります。他の宗派は、今でこそ血縁がおおくなりましたが、明治時代までは妻帯が許されておりませんでしたので、法脈で受け継がれていらっしゃったと聞いております。浄土真宗は、親鸞聖人が、日本で初めて肉食妻帯をされた僧侶でいらっしゃいましたから、ほとんどの寺院では、世襲制で受け継がれているのであります。ですから、檀家、門徒さまとは、代々結びつきが強いのが特徴なのであります。浄土真宗本願寺派には、教区という行政区が全国にあります。法徳寺は、東京教区相模組に属しています。そして教区からは、教区会議員という議員さんが選出され、西本願寺で定期的に宗会が開かれ、宗門の方向性は全てこの宗会で決定されるのであります。宗派には宗門法規という規則があり、それに反すれば僧籍剥奪もあります。東京には、東京本社とも言える築地本願寺がございます。もともと築地本願寺は浅草にあったのですが、江戸時代の大火事で焼けてしまい、幕府から今ある場所に移るように命じられました。しかし、その場所は海だったのであります。そこで佃島の門徒集が、海を埋め立てそこに本願寺が建てられたのであります。その為、築地本願寺と言われるようになりました。現在あるインド風建築は、有名な建築家伊東忠太によって設計されたものです。私はどこかに旅行した時、浄土真宗本願寺派のお寺を見つけると、とても嬉しくなります。ここでも親鸞聖人の教えが代々伝わっているんだなぁと思うと本当にありがたく思います。西本願寺では、定期的に、大きな法要があります、昨年は、親鸞聖人ご誕生850年立教開宗800年慶讃法要がございました。本山に行きますと、北海道から来てるお寺さん、九州や沖縄からもたくさんいらしてました、日本のどこでも、同じ南無阿弥陀仏を称える方がいらっしゃるのです。そのすべての方から出てくる南無阿弥陀仏は、阿弥陀如来が救いを私たちにお告げ下さっているお言葉ありますから、ありがたいことですと聞かせていただくのであります。お寺を継続していくのは、これから、難しい時代だとよく言われますが、そんなのは、今に始まったことではありません。100年前、200年前も同じであります。それでも、その時代の住職の努力と創意工夫、そして何より、檀家さんや門徒さんの協力で、お寺は続いてきたのであります。これからも、100年200年先も続いていくと、私は思います。昔、ある研修会で、林業を営む家業の方は、100回忌、200回忌を勤めると聞かされて驚いたことがあります。今、自分たちが生活ができるのは、100年前、自分の先祖が木を植えてくれたからだ。それが、今、私たちの生活を支えてくれていると言う感謝の気持ちからだそうであります。私も100年前、200年前、貧しい時代であっても、浄土真宗の教えを、絶やさず伝えてくださった、先人のお心をこれからも大切にしていきたいと思います。浄土真宗のお寺の最も特徴は、毎月、法話会が開催されていることだと思います。ある講師の先生は、法話会のない浄土真宗のお寺は必要ないと、はっきりとおっしゃっていました。浄土真宗のお寺は、僧侶の修行の場ではありません。ですから、山奥にあると言う事は、まずありません。ほとんどが街中の人々が、いつでも阿弥陀如来の救いを聞かせていただける場所に建っているのであります。


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幸せを考えてみた

2024-02-26 22:01:00 | お知らせ
浄土真宗の考えからすれば、自分の心を、信用してはいけないと教えてくれます。私たちの考えていることが、本当に、自分自身を幸せにするとは限らないということであります。たとえば、私は、何でも自分の欲しいものが手に入れば幸せになれると思ってました。今もその気持ちは、正直ありますが、もしかしたら、そうでは無いのではないかとも思うようになりました。例えば、どんなに高級車を所有していても、どんなに豪邸に住んでいても、どんなに豪華な食事をしても1人でそれを楽しむ事はできないのではないかと思うからです。今の私たちの生活は、大昔の王様と比べても、それ以上に、ぜいたくな幸せな毎日ではないでしょうか。しかし、私たちはそれほど幸せを感じない、むしろ不安を感じたり、自殺をする人もたくさんいらっしゃる。一体どういう世の中なのか、不思議であります。そもそも、幸せになりたいなどと、考えない方が、幸せではないかとも思います。ある本には、人間の1番の幸せは、「人とのつながりである」と書いてありました。私は、小さい頃から、どちらかと言えば、おとなしい性格で、人見知りでしたので、人とつながるのは面倒、煩わしい、そう思ってました。しかし、お寺の住職を勤めさせていただいていると、さまざまな人とつながりができます。最近では、それは、本当にありがたいことなんだなぁと思えるようになってきました。人は、人とつながることで、幸せを感じる生き物なのだと思ったことであります。





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因果の道理からは逃れる事はない

2024-02-25 20:14:00 | お知らせ
御朱印をいくら集めても、お守りやお札を買っても、病気になる時はなるし、死ぬ時は死ぬのです。私も神社仏閣にお参りするのは好きですから、御朱印を集めたり、お守りを買ったりするのを否定は致しません。辛いときには、何かに、すがりたくなるものであります。しかし、それは趣味という位に思っておいた方が良いと思います。仏教は、因果の道理を絶対に守る宗教です。何事にも、原因があり、結果があるのです。それに対して、御朱印やお守りは、因果の道理とは関係ありません。自業自得という言葉がある通り、自分の行いは自分でその結果を受けていくのであります。それに御朱印やお守りは関係ないのであります。悪い行いをすれば、悪い結果がもたらされるのは当たり前なことです。生きていれば、病気になるのも当たり前であります。私も病気にはなりたくありません。しかし、私にははっきりとはわからないけれども、何か病気になる原因があったのであります。お守りを買えば、それが帳消しになる事は無いのであります。また、亡き方は、迷ったり私たちに祟りをもたらしたりは、絶対にありません。もし、そのような心配をされるのであれば、それはあなたの心が、迷っているのであります。
仏教では、人生の中で、今が1番良いと考えるのであります。皆さんも、今が1番幸せだと思って生きてください。それが1番の幸せではないでしょうか。過去を振り返って、あの時は幸せだったと思ったり、もう少し我慢すれば幸せになれると思うより、今、生きている事は、幸せなことなんだと思うほうが、よっぽど幸せだと思います。なぜなら、生きているのは、今しかないからです。生きていると言う事は、当たり前では無いからであります。たとえ、今、ご病気であっても辛い境遇にあっても、今が1番有難いのであります、明日生きている保証は無いからであります。皆さんの大切な方も、いつの間にかいなくなってしまうのです。だけど、南無阿弥陀となって、いつも戻って来てくれているのです。私の口に、南無阿弥陀仏と出てくださるお言葉は、仏様のお言葉であります。私が称えているのではなく、仏様が私の口を通じて、称させていただいているのです。そのお心は、あなたのことを、いつも見守っていますよ。あなたのそばを離れる事はありませんよと言う意味であります。仏様の真実なるお言葉は、いつも私のところに至り届いてくださっています。南無阿弥陀仏は、仏様のお言葉と聞かせていただくものであります。南無阿弥陀仏は、助けてくださいと言う意味で称える方もたくさんいらっしゃいますが、南無阿弥陀仏を、助けてくださいと称える方は、まだ助かってない方です。



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