浄土真宗本願寺派 法徳寺ブログ

神奈川県厚木市にある浄土真宗本願寺派(西)のお寺です。
永代供養墓10万より受付中です。

7月の法話

2016-07-16 13:30:39 | 法話

「設我得佛十方衆生至心信楽欲生我國乃至十念不取正覚唯除五逆誹謗正法」

設ひ我佛を得んに 十方の衆生 至心に信楽して我が國に生まれと欲し

乃至十念せん 若し生まれずば正覚を取らじ 唯五逆と正法を誹謗せんとをば

除かん。」

私達が毎日々称えさせて頂く六字のお念仏、他力本願の南無阿弥陀仏を阿弥陀様の

呼び声と頂戴をさせて頂き、喜びも悲しみも全て、阿弥陀様の無量壽・無量光に包まれている毎日を過ごさせて頂いています。

正に、乳飲み子が母親の胸に抱かれる姿、全てを任せた、いや、任せる思いも無い

“そのまま”の大きな安心が阿弥陀様のひとりばたらきです。

冒頭のご文は、浄土真宗所依のお経、大無量壽経上巻、第十八願、この大本願に

誓われているのは、他力本願、悪人正機、往生浄土でありますが、この度は悪人正機について、お話をさせて頂きます。

ここで誓われた悪人とは、社会的な悪とは違い、自身には何も仏様になる仏性を持た無い私を“悪人”と言います。

今、正に水に溺れそうな危うい私を救いの目当てとされる対象を“正機”と申します。

第十八願に誓われた五逆(悪人)とは、母、父、聖者を殺生、仏様を傷つけ教団、仏法を中傷することを、特に重罪と示されます。

私は、親を殺してはいないとは言っても、心配をかけたり、ご恩を感じなかったり、十分、殺生の罪があるのではないでしょうか

また、貪欲(とんよく)、瞋恚(しんに)、愚痴(ぐち)の三毒の迷い煩悩も、私の日々の有り様です。

この瞋恚とは、怒りという意味ですが、『瞋』と言う漢字、『大きく自身の目を見開き、相手を射抜く様な眼差し』という意味があり、

怒りは、相手を殴ったりしなくても、その眼差しだけでも、既に、相手を傷つけている姿を表します。

京都西本願寺八代門主、蓮如上人の御一代聞書本58には、「誰の輩、我は悪きと思う者一人としてもあるべからず」と示されるとおり、

自身では自省しているとは言っても、他からの指摘を素直に受け入れる事が難しいのが私たちです。

しかし、私の真実の姿が、如来様の光に照らされ自身に知らされます。

 

先日、若い奥様を亡くされた御主人との話の中「人生は儘(まま)になりません、これから、まだまだ、家内と一緒に旅行等々計画が

沢山有ったのに、こんなに早く先立たれて、私はどう生きて行けば・・・」とおっしゃいました。

儘(まま)とは、我が儘(わがまま)、気儘(きまま)という言葉のとおり、思い通りになる事です。

しかし、誰一人として全てが予定、計画通り寸分の狂いも無く生きて居られる人など居られません。

しかし、私たちの毎日の生活は、儘(まま)を、押し通し争い、儘(まま)が過ぎ、人と人の御縁が切れ、儘(まま)が、苦を心身に

招き入れているのではでしょうか。その姿が、正に、悪人であります。 

お盆をお迎えするこの時期、故人の御苦労、御恩を改めて心に留め、同時に、阿弥陀如来様が、六字の名号(南無阿弥陀仏)となり、

私に向かい、「必ず救う」と呼びかけられている声が、私の心に頂けたのが信心、口に南無阿弥陀仏となって出るのが称名です。

信心が、浄土に救われる正因、称名は仏恩報謝です。

自力では、お浄土に往生出来ない私を、「そのまま、救う」と呼び続けて下さる阿弥陀様の救いの目当てが、悪人正機と知らせて

頂きます。そして、悪人とは、私の事であったと気づかさせて頂きたいものです。              釋俊敏


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