今日は、予報通り、冬に戻ってしまいました。
今日は、霊園での墓前にて、ご法事をお受けしておりました、
本当に寒い中、お参りご苦労様でした。
きっと、思い出に残る、ご法事になったと思います。
私も、お経を称えながら、鼻水がたれてきてしまいました。
お経に集中すれば、寒さは感じないはずだ!と思って
頑張りましたが、やはり、寒かった(笑)。
今日は、予報通り、冬に戻ってしまいました。
今日は、霊園での墓前にて、ご法事をお受けしておりました、
本当に寒い中、お参りご苦労様でした。
きっと、思い出に残る、ご法事になったと思います。
私も、お経を称えながら、鼻水がたれてきてしまいました。
お経に集中すれば、寒さは感じないはずだ!と思って
頑張りましたが、やはり、寒かった(笑)。
今、お寺の君子蘭がキレイに咲いています。
本堂は、日当たりが良いので、冬場は仏様の御側に置いております。
今は、外に出しましたが、今日、また、寒くなりましたので、蘭には少しかわいそうな感じです。
親鸞は弟子一人も持たず候ふ。 私たちの宗祖親鸞聖人は、唯円の書かれた「歎異抄」の中で、上記のように述べております。しかし聖人は決して伝導に消極的だったわけではありません。
関東を中心に東海、北陸に至るまで多くの直弟子、孫弟子がいたと言われています。慕ってくる多くの弟子がいたにも関わらず、なぜこのように述べたので
しょうか。 話は変わりますが、仏教では人の欲望を五つ挙げ、五欲(財欲、色欲、飲食欲、名誉欲、睡眠欲)を定めています。これには睡眠欲や飲食欲など、
人間が自然に持っている欲望が入ってはいますが、自分の威厳や地位を誇示しようとする名誉欲は、競争に勝ち残っていくために、他人を傷つけ
る自己中心的な煩悩であると思われます。そして当時の時代背景として念仏者集団の間に、弟子の奪い合いや縄張り争いがあったことから、聖人は
自分だけは名誉の欲望に惑わされまいと思ったのでしょう。
そこで聖人は同じ歎異抄の中で、弟子を持たない理由として「自分の力によって人々に念仏を称えるようにさせたのならば、我が弟子と言う事も
できようが、阿弥陀如来のはからいによって念仏する人々を我が弟子と言うことなどはできない」と述べています。つまり事実上弟子となっている
門弟たちが称えている念仏は、聖人が称えさせたのではなく阿弥陀如来さまが導き、口に念仏が出てくるのだということです。 とはいえ親鸞聖人は、何百年も昔にインドや中国で経論を残してくださった浄土教の祖師方を「本師龍樹、本師曇鸞、本師道綽」などとたたえる
と同時に、直師匠である法然聖人に対しても同じように「本師源空」と述べているのは、興味深いと思います。つまり直接教えてくださった師匠も、
経論を著し自身に念仏の教えに導いた祖師方も同じように崇めているのです。ご自身の師匠への恩は篤い代わりに、門弟を念仏に導いたのは、
あくまでも阿弥陀如来さまのお慈悲だと述べる、親鸞聖人の謙虚なお人柄を感じます。