今日で1月も終わります。今朝起きると、なんだか、昨日の観劇会の疲れが残っていたのですが、今日も、やりたい事が多く、のんびりしてはいられません。別に、人生非常事態な訳ではないのに、自分で決めた、今日やるべきことを全部やり遂げなければならないと、自分で勝手に思い、自分の首を絞めているのです。そして、自分のスケジュール通り、全てをやり遂げるとスッキリして気分が良い。しかし、なかなかそうはいきません。完璧主義という言葉がありますが、これが1番やっかいです。完璧主義には、永遠に安らぎは、おとずれません。完璧主義と平和な人生は相反するものです。今日も、頑張ったと自分を褒めてあげましょう。
本日、法徳寺 観劇会にご参加いただきまして、まことにありがとうございました。劇を鑑賞した後は、昼食が2時を回ってしまいまして、お腹がペコペコで、サクサクの天ぷらは本当においしかったです。その後、浅草寺にお参りさせていただきました。皆さんにお配りした、手作りのパンフレットには、浅草寺の本堂に掲げられている、善導大師の言葉をご紹介しました。とってもありがたいお言葉です。
明日は、浅草に親鸞聖人と恵信尼さまの「花こぶし」観劇会の日です。浅草に行くのは、何年ぶりでしょうか。ひとりで観光でしたら、気楽なのですが、門信徒さんを、引率しなければいけないので、急に心配になってきました。前々から準備をすれば良かったのですが、今、一生懸命、浅草を調べてます。最近は、インターネットで、ただ調べれるのは有難いのですが、情報が多すぎて、余計に悩みます。インターネットの記事は、ただより高い物はなく、自分に都合の良い広告記事ばかりなので、余計に悩みます。皆さんも、仏事に関して、ネットで調べてみてください、余計に迷いますよ。以前から、法徳寺では、よく旅行をしているのですが、貸し切りバス代も値上がりし、食事代も値上がりし、こちらも困りました。そもそも、なぜ、観劇会かと申しますと、昨年から、親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年の記念の年だからなのです。昨年は、法要に、京都 西本願寺へお参りをさせて頂きました。親鸞聖人の主著「教行信証」に、元仁元年(1224年 聖人52歳)という記述があり、その年が、浄土真宗本願寺派の公式な「教行信証」の撰述年代とされ、浄土真宗の立教開宗の年とされています。そして、今年は2024年で、ちょうど、立教開宗800年なのです。ただ、元仁元年に、「教行信証」は、完成されたのではないとのこと、聖人は90歳でご往生されたのですが、晩年まで、「教行信証」は、改訂し続けておられたということです。これからも、研究がすすめば、あきらかになるのでしょうが、聖人直筆の教行信証は、この世に一冊しかありません(東本願寺所蔵)、もちろん、国宝です。私は、以前、京都博物館での親鸞展で国宝本を拝見しましたが、身体が震えました。
もし、どんな病気でも治せるお医者様がいらっしゃれば、私たちは病気になることに心配がなくなります。しかし、世界中探してもそのような、お医者様はいらっしゃいません。今日は、ご法事がお寺で5件ございました。その合間に、無量寿経の下巻を読んでおりました、私は読んでいて、震え上がるほど怖いことが書いてあります。今が不幸であるのは、過去世の行いが原因である。病気になるのも同じ、そして現世での悪い行いによって、また悪い世界に生まれていく不幸になっていくことが、お釈迦様によって説かれています。しかし、その因果応報を誰も信じようとしない。
無量寿経の上巻は、阿弥陀如来が法蔵菩薩と言う修行者であった時、すべてのものを救うという願いを起こされた。そして長い長いご修行の末、その願いを完成され、南無阿弥陀仏となって、私に届けられている。とても、ありがたい経でありますが、下巻になると、恐ろしいことしか書いてございません。しかし、このお経の内容は、その下巻に説かれている、重罪人この私を救いの目当てとしてくださっているのです。どんな罪の深い者でも、救うことのできる法を、既に完成され私に届けられています。まるで、どんな重病人も治せるお医者様のようであります。しかし、既に届けられている法に気がつかず、命終わって行かれる方が多いのです。無量寿経の下巻の1番最初に、浄土真宗で、最も重要な本願成就文と言われる箇所がございます。私はこの文を読ませていただくだけで、ありがたい気持ちになります。また機会がありましたらご紹介したいと思います。
私は最近、目的地まで知っている道であっても、スマホのナビアプリを使っています。知っている道ですから、わざわざナビなど使う必要はないと思うでしょうが、案外そうでもないのです。ナビは、私の思いもしない道を、案内してくれる時があります。自分で思う、最適なルートの更に上をいきます。自分が、最短ルートだと思い込んでいただけだったのです。しかも、渋滞も考慮されますから、その時の最適な道を案内してくれるのです。言っても、急いでいない時は、ナビの設定などせず、自分の走りたい道で目的地まで行きます。よく阿弥陀如来を、わたしの人生のナビゲーションだと例える、法話があります。私も、よく、そのようにお話をしたりしました。阿弥陀如来が私たちを、浄土へとナビゲートしてくれると言う法話です。お正月には、神社やお寺で、無病息災、交通安全、さまざまな願い事を叶えていただこうとお参りをされる方が多くいらっしゃいます。私は、全くそういう必要はないと思っていますが、私も浄土真宗の教えに出会う前はそれが当たり前だと思っておりました。ただ、あれだけ多くの方が初詣にいかれるというのは、それだけ、他人には言えない悩みや悲しみや不安を抱えていらっしゃる証拠であります。ですので、私は行く必要は無いなどと言う、否定的な思いはありません。ただ、私の願い事が、本当に自分を幸せにしてくれるかどうかはわからないのではないでしょうか。
最初に、なぜカーナビの話をしたかといいますと、ナビに任せると、思いがけない道を走らされます。すると、知らなかった風景が見られたり、知らなかったお店を知ったり、自分の視野が広がるのです。ですので、自分の願いではなく、阿弥陀如来の願いに任せ、人生を歩む方が、幸せなのではないかと思います。私のことを思い続け、良き方向へと導いてくださる仏様が阿弥陀如来です。もしかしたら、自分の思いとは正反対の道に行っても、それがかえって、最高の人生になるのかもしれませんよ。そうそう、人生は、何が幸せで何が不幸かなどわかりません。有名な書家相田みつをさんは、書かれてました。幸せは、いつも自分の心が決めていると。ちょっと違ったかな?違ってたらすいません。