年明け早々、墓参りなどと言うタイトルになってしまった。年が無事に越せるだろうか?と書いたが、何も無くて良かった。
その前に年賀状の続きになってしまうが、還暦近くなると同級生の近況を書いている年賀状は誰も同じでずっとあってない友人達は誰も「逢いたいね」と書いている。約半数はおばあちゃんになり孫に振り回されていると書いている。私のように老齢の親に振り回されているのとは対照的だ。
いや、両親揃ってお正月を迎えさせてもらった事を感謝である。
一方では30歳過ぎた娘が結婚しないと嘆いているのもある。
が、私のようなものもいるからまだ大丈夫、心配ないと書いた。
さて本題、昨日家の中ばかりでじっとしているのも疲れてくるので、父と近くの温泉へ行った。
温泉が近づいてきた時、まだ3時前だったので父が子供の頃大変かわいがってくれた親戚の戦死されたお兄さんのお墓参りに誘った。偶然、昨年の夏近くへ仕事でよった時に戦死者ばかり集めた石塔がったている中にその名を見つけ、必ず父を連れて行こうと思っていた。
その時、そのおばあちゃんは私に憑いて来ていて体が重いので気づき、ノワタリさんに手伝っていただきその晩供養をした。
その村の先の大戦で亡くなられた人たちのお墓は宇和海に向かって立っていた。
その人は父より少し年上で昭和17年に24歳で亡くなられていた。軍曹と肩書きが書いてあった。
一人息子だったので、残された親の落胆は計り知れない。後年、私が子供の頃養子をもらっていたがその養子も30代で先立たれ、おばあちゃんはとても優しいよい人だったがご苦労された。
とっさの事で、何も用意していなかったので般若心経と光明真言だけあげたが、父は墓石の側面に亡くなった当時の事を書いてあるのを懸命に読もうとしたが、古すぎて私の目でも残念ながら読めない。
父はしばらく墓石の前に感慨深そうに佇んでいたが、幾つかある墓石の名を見て行き、「この人達も顔見知りだな」と、ポツッと言った。
父は子供の頃毎年夏休みの1ヶ月近く此処に預けられ、近くの子供達と遊び、そのお兄さんはしっかりされてる上に優秀だったのでいつも勉強を教えてもらったと言う。そのお陰で勉強する習慣が身に付き、上の学校へ進む事が出来たという。
その後、家に帰っても子供の頃の話を父はしていて、中国戦線で額の真ん中を玉が貫通したと言う事だった。
父だとて、同級生が沢山戦死している。一番仲良かった人は満州でなくなった。丁度その日他2人も同じ日に亡くなっている。(ソ連軍が侵攻してきた日だろう)
父は私の若い頃と同じでやせっぽちで兵隊検査に撥ねられたが、世の中が不穏になり、自分から志願して行き佐世保の海軍工廠の事務方になり、その後、ジャワで終戦1年後、まで過ごした。
世の中のサイクルは7,80年で回ると言う。
今から7,80年と言うと昭和大恐慌から戦争に向かう時代である。
そう考えていくととても怖い。25年ほど前に亡くなった祖父はそのころの事をよく話した。
とても物の動かない時代で呉服屋さんが気が狂ってして自殺したとかよく言っていた。
東北では沢山の娘が売られた...とか言っていたが、父は「うちには売る娘もいない...」と言って私の顔をみんなが見たが(とうが立ち過ぎている)、「戦前は不景気なると戦争を起こしていたけど、もう局地戦ではすまない時代だからな...。」とよく言っていた。
でも実際、不安な世の中である。