新潟県で古墳展が開かれるなんて珍しい.何せ新潟の古墳は少なく規模も小さい.が近年城の山古墳、牡丹山古墳など新発見があいつぎこの企画展の開催となったのだろう。
思うに越後国は縄文時代はその豊かな滋味あふれる山野に山菜、動物の宝庫となり大発展を遂げた。後、稲作が伝わり弥生時代となると山故に稲作の敵地はすくなく、信濃川は氾濫原としてその開田は江戸時代を待たなければならなかったのだろう。その状況では他地域のような大規模な国は現れずしたがって大きな古墳もなかったのだろう。が規模は小さいながら県内にも典型的な古墳がありおもしろい。典型的といったがぼくは古墳と言えば前方後円墳が真の意味の古墳と思っている。方墳や円墳は自然な形であり地域を越えて同時発生するが前方後円墳はきわめて特異な形でありきわめて人工的であり、そこには確たる設計図がありそれを共有したのだと思われる。各地に散らばる小国があるとき大和朝廷(これは後の世の大和朝廷ではない)の成立を持って一斉に前方後円墳を作り始める。それはきわめて政治的であり文化的な大革命だったのだ。一般に墓の形や葬送の形式はきわめて民族固有のものでありその形式を踏むことが民族の結束であった。であるならば各地の小国が一つの墓の形式を共有すると言うことは一つの民族となり結束すると言うことに他ならない。日本全国が一つの民族としてまとまる、そこには何があったのだろう。世上言われる様に大和朝廷の武力統一には少し無理がある。大和朝廷初代大王の墓が箸墓古墳三世紀後半としてこの辺境の地、越後に最初に作られた稲葉塚古墳が4世紀前半このあいだわずかに5・6十年、あまりに短すぎる。この時代に何があったのだろう、興味は尽きない。
ともあれ初期前方後円墳はみな豊かな村々を見渡せる小高い丘の上にある。そこに立ち見渡せばまさに日本の豊かさ、自然の美しさが思われる。