兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

■お知らせ■

2025-02-08 19:54:39 | お知らせ

 「女災」とは「女性災害」の略。
 男性と女性のジェンダーバイアスを原因とする、男性が女性から被る諸々の被害をこう表現します。
 このブログでは女性災害に対する防災対策的論評を行っていきたいと思います。
 当初、OCNで開始し、目下はニコブロ(兵頭新児の女災対策的随想)へと活動の軸足を移しているのですが、2014年11月末をもってOCNのブログサービスが終了し、このままではニコブロ以前の記事が消えてしまうことになるので、保存の意味で新たなブログを立ち上げた次第です。
 こちらのブログも更新していきますが、ただし新しい記事は基本、ニコブロにupしたものを遅れてupしているものです。

 後、考えるとプロフィールにメアドが記載されていませんので、こちらに。
 shin_2_h☆juno.ocn.ne.jp
 何かご用の向きは上にご連絡を(☆→@)

 以上、そういうわけなのでご了承ください。

 ■2月8
日更新!!
 ぱっと見だと更新したかどうかわからないので、更新した時はここに日付を書くことにしました。


2025初笑い! 新春女災ライブ(後編)

2025-02-08 19:04:58 | 弱者男性

 目下、『WiLL Online』様で新しい記事「フジテレビvs『週刊文春』――その戦いの果てに待つものは」が掲載されています。

 

フジテレビvs『週刊文春』――その戦いの果てに待つものは【兵頭新児】

『週刊文春』の記事によって燃え続けた中居正広氏の女性トラブルが、フジテレビへと延焼。今や(フジ)テレビを観ればACのCMばかり、YouTubeに目を転じればフジ批判の動画ば...

WiLL Online(ウィルオンライン)

 

 どうぞ応援を、よろしくお願いいたします。

 また「風流間唯人の女災対策的読書 第66回」をサブチャンネルへうpしました。
 未見の方はどうぞご覧ください!

風流間唯人の女災対策的読書・第66回 恵まれない女性たちに愛のAEDを

 さて、前回の続きです。
 10位から5位までは前回記事で発表しているので、まずはそちらから読んでいただくことをお勧めします。

2025初笑い! 新春女災ライブ 

 

第4位 唐沢俊一死去

唐沢俊一論――評論家に戮された人たち

盗作はロボット軍団への反逆である

 フェミ――とはさすがに、直の関係はないのですが……。
 実はnoteにおいては本年で一番読まれたのですな、上の「唐沢俊一論」が。
 意外に賛同の声が多く、唐沢氏(や、岡田氏)が「本音ではそうではないんだけど、否定しないと世間の目が恐い」というトランプ的立ち位置の存在であることが、再確認できました。
 ぼくが唐沢氏にいささか擁護的であり、また唐沢アンチには徹底して否定的なのは,後者が明らかに、メンツ的に「サブカル」であり、その「思想」も「サブカル」だからです。
「サブカル」というのは基本、コンテンツを自由に作ることを認めず(オタクを叩くのはそうした理由によります)、「正しい表現」をありがたく拝受することを使命とする存在であり、その「正しい表現」は彼らの歪んだ政治的理念に動機づけられており、人間の本来の感受性の瑞々しさの全てを完全に否定しきったものであることは、言うまでもありません。
 そのことは、上に挙げた二つのnote記事、ことに下の方を読むことでご理解いただけましょう。
 要するに彼ら彼女らはフェミニズムと全く、同じ存在だと言うことです。

 さて、実は本件について、岡田斗司夫氏が年末のニコ生で言及していました。
(ついでに書くと、それ以前には「岡田は唐沢の死に何も触れていない、触れていない」と騒ぐアンチの姿も散見されました。あんたらが騒ぐから言及しにくいんだろうに、無理やり騒いで敵を悪者に仕立て上げる様子は、フェミそっくりです)
 唐沢氏が死去した時にも年末に触れると予告、また実際触れたのも有料パートということで、あまり流布されたくないことなのかも知れませんが、少し詳しく観ていきましょう。

#554 3年後の世界〜2028年未来の旅

(1:21:31~)

 時間としては短いもので、一つは「唐沢は借金まみれで誰彼構わず無心をしていた」と言われているが、少なくとも自分のところには来なかった。つまり盛った話が流布されているのだ、ということ。それに対しての岡田氏の見解は、「唐沢氏は憎まれ、羨まれていた」というものでした。
 これは上の記事にもあるように、まさにそうで、要するにオタク界の大物を潰し、自分たちがその椅子に座り、オタクを政治利用したい者たちが、この三十年ほどずっと唐沢氏(や、岡田氏)に粘着し続けて来たという歴史があるわけです。
 もう一つ、岡田氏は死去した時になされた唐沢なをき氏のポストに対し、「正直、気持ち悪かった」と吐露し、それに続け、「関係ないかも知れないが」と前置きした上で、「仲のよすぎる夫婦は、その夫婦だけの過激で独特な価値観を持つことがある」とだけ言って、話を終えていました。
 ホントにそこで話が終わっちゃったのですが、要するにこれは、件のポストには奥さんの影響があったのでは……ということですよね。
 ぼくも内部事情を知っているわけではないので推測するしかありませんが、確かに奥さんはなをき氏の著作にも大きく関わっており、ご自身でも著作があるなど、いわゆる業界人なのです。
 また、これも一般論になりますが、漫画家や作家などの奥さんが夫の力を自分のものであると錯覚し、傲岸不遜な振る舞いをするというのは確かに、本当に極めてよくあることです。
 ただ、実はなをき氏自身がまさにそれをテーマにした作品を描いたことがあり(『まんが極道』4巻「漫画家の妻」)、そこで何とその問題の漫画家の妻の名刺に描かれている似顔絵が、奥さんの似顔絵そのままなのです。つまりそこまで自虐ギャグをやれる人が、そうおかしな心理状態に陥るものかどうか……正直、ぼくとしては俊一氏、なをき氏共にファンで両者とも悪く言いたくはなく、それでこんなことを書くのですが……。
 もちろん、悪意にとれば「全て岡田のウソだ」と言ってしまえるし、ある程度岡田氏寄りに考えても、「旧友に味方したい」という心情が働いたのだ、と考えることもできるでしょう。
 が、岡田氏の極めて曖昧で歯にものが挟まったような言い方から察するに、なをき氏のポストが奥さんの影響でねじ曲げられた、ウソではなくとも「盛った」ものであったことが推測できるのです。
 もちろん想像に過ぎませんが、あまり社交的とも思えないなをき氏にとって、ある意味奥さんは窓口であり、その影響というか意向が、ポストにも反映されていた。しかし考えれば以前、なをき氏は俊一氏と組んでいたわけで、言うなら奥さんにとって「前妻」である俊一氏は快い存在ではなかった……。
 或いはまた、業界人である奥さんの側に、何やらしがらみがあった。奥さんの交友関係にあるコミュニティが、俊一氏を否定しないとすごくいじめられる場であった――ぶっちゃけ漫画界なんて左派ばっかりですから、そうした思想的自由のまるでない場です――といったことが、ここからは想像できるのです。

 まー、どっちかと言えば、氏の死に際し、「岡田や唐沢を世に放った者の責任を追及せよ」などとほざく者の「オタクを徹底的に見下しながら『エヴァ』以降、その資産を簒奪した」責任や、「フェミをパクってオタクを叩いていながら、状況不利と見るやフェミ騎士はオタクだ! などとほざき出した」責任を追及する世の中に、早くなってほしいものではあります。ぼくの生きている間は無理でしょうが。

第3位 松本人志問題

 これは去年一年の話題としては一番大きいかも知れません。
 実際には23年年末の『文春』記事が発端だったわけですが、一年を通して何かしら話題を提供してくれました。
 上の四つの記事は『WiLL Online』様で書かせていただいたものです。
 最初の二つは松本氏を黒だと断ずる人々のおかしさ、それが通用してしまう異常な状況について書かれています。
 また、同様の事件はジャングルポケットの斉藤慎二においても起こっており、三つ目の記事ではそれについて。これもまた、ドラレコの記録があり、斉藤氏自身もそれを調べろと主張、しかしマスコミは斉藤氏の奥さんの夫を擁護する発言にまでバッシングを加えるという異常事態。要するに「一度決めつけられたら終わり」という唐沢氏同様のキャンセルカルチャーがここでも展開されているわけです。
 松本氏の件については最終的には『文春』への訴えを取り下げることで一応、幕を閉じたわけですが、最後の一つはそれについて(実質的には松本氏の勝利と言っていいはずが、恥知らずなデマ屋が必死のイメージ操作をしていること)が書かれています。
 いずれにせよ2024年は本件によって、日本が法治国家から人治国家になった、記念すべき年と言えましょう。

第2位 パオロ・マッツァリーノ問題

風流間唯人の女災対策的読書・第55回「パオロ・マッツァリーノの不埒な研究報告 フェミ騎士最終解答」

風流間唯人の女災対策的読書・第57回「性欲で痴漢しない男、性欲で冤罪を着せる女――Liar/ふのせいよくを、君に」

痴漢冤罪とはなにか

反社会学者の奇妙な変節

 さて、といってもぼくにとっての松本氏問題は、むしろパオロ問題という性質が濃厚でした。
 この卑劣で愚劣で低劣なデマ屋については一年通して完全論破を続けて、もう語ることはあまりないのですが、二つだけ指摘しておくと、まず左派というものは「国家権力以外の権力」が好きで好きでたまらないということ。ましてやそれが自分の関わるマスコミ関連となると。自分が潰したい相手を自由自在に冤罪でこの世から葬り去ることのできる社会。そうしたマスコミ恐怖政治社会こそが、左派の求めて止まぬ理想なのです。
 もう一つ、パオロは一番最初にぼくが彼の悪口めいたことを書いた時、ちょっとだけ反応しました。いえ、名前はいずれにせよ出していませんでしたが。ところがぼくがソースを提示して過ちを詳らかにしたリプライを送っても、だんまりを決め込み続けた。ブログをたまに更新しては、「彼ら(松本擁護派)は感情的な罵倒を書いてくるだけだ」などと反論者の名前を出すことなく、嘘を書き続けるのみでした。要するに反論敵わず敵を匿名化することで、嘘を重ねることで自己正当化を図る。それがパオロの戦術なのです。
 上に挙げたもの、最初の二つは動画で後の二つは記事ですが、それぞれ動画の55回、「反社会学者の奇妙な変節」がパオロの記事そのもののウソを、また動画の57回、「痴漢冤罪とはなにか」はパオロが誇らしげに掲げていた、参考文献(フェミニストの著書)のウソを暴いています。
 こんな低質な物書きが長年に渡って継続的に本を出しているとは驚くべき話ですが、フェミニストがそうであるように、彼もまた、権力者におもねることでこれからも、ウソ、デタラメ、まぎらわしいを垂れ流し、印税を稼ぎ続けるのでしょう。

第1位『女災社会』増補改訂版発売

風流間唯人の女災対策的読書・第58回『ぼくたちの女災社会』[増補改訂版]刊行記念!「男性差別」から「弱者男性」へ

 十五年目の『女災』の増補改訂、それこそが本年一番のトピックスであると言えましょう。

 ぶっちゃけ出た頃には歯牙にもかけられなかった同書が、今になっては実は精緻な予言書であったこと、それに異はないと思います。実のところぼくのしたことは「予言」などではなく「(出版当時の)現状の指摘」以上のものではないのですが、その「分析」の正当性がようやっと、誰の目にも明らかになったという状況です。
 ただ、それだけなら「増補改訂」の意味はありません。
 今回、少々の加筆を加えたのは、やはり出版当時と現在では状況が変わっているからに他なりません。
 フェミを「オワコン、オワコン」と繰り返していた本書ですが、現在はフェミブームと言っていいほどに、驚くほどにフェミのゴリ押しがなされている。第4章の補論では「本書の予言の外れた点はそこだけだ」としています。
 何故フェミがここまで復活したかについては、本稿第6位で既に書いているので繰り返しませんが(……と書いて、読み直したら、大して書いていませんでした。ただ、上げられた記事や動画では詳述されているのでそちらをご参照ください)、同章補論で提唱したこの「女災-1.0」という状況はまさにフェミが女性を犠牲にして運動を完遂しようとしている、言うならタコが自分の足を食うことで周囲に被害を与えているかのような状況、フェミが自分の足を「-1.0」している状況を指し示しています(動画では「痴漢冤罪」ならばそれに相対する「痴漢」という「男災」も存在するが、今では萌えキャラバッシングや「男児からの性加害」といった「そもそも存在し得ない被害」を捏造するターンに入っている、女性の女子力が枯渇している辺りが「-1.0」である、と表現)。
 いずれにせよフェミニズムが女性をも不幸にしてきた、その「効果」が如実に表れてきているということです。
 そしてまとめである終章補論では、出版当時はここまで顕在化していなかったLGBT問題についても扱っています。ここで提出した「トランス女災」という言葉はいささか無理やりな印象もないではありませんが、いつも言う通りLGBTのロジックはフェミと全く同じであること、そしてそれがやはり女性自身にも牙を剥いていることは、ポイントとして押さえておかねばなりません。
 ここではフェミが女性以外の者の「女災兵器」として転用されつつあるという事態を、「シン・女災」と称しているわけです。フェミは最初から男性はおろか女性の敵でもあったのだから、今の「シン化形態」こそが「シンのフェミ」なのです。
「現実(セカイ)対虚構(フェミニズム)」というフレーズはまさにフェミニズムという虚構が、セカイ全体に被害を及ぼしている現実を表現しているわけですね。

 一方、本書が出版された時点では想像もつかないほどに、いわゆるアンチフェミも隆盛しているとは言えます(もっともフェミとは勢力的にも政治権力的にも、比べるべくもありませんが)。
 ごく大雑把に流れを追うなら、まず十年ほど前、表現の自由クラスタがアカデミズム、マスコミ業界のフェミ(即ち、彼らの女王様たち)を延命するために「ツイフェミ」という概念をでっち上げ、ぼくは徹底してそれに反発し続けた。
 ところが上野千鶴子など大物のフェミもダメだとバレ、表現の自由クラスタというよりは純粋なアンチフェミが台頭した。ところが、逆にその本質は女性ジェンダーのネガティビティであり、真の悪はそれを発揮する市井の女性そのものだとなり、むしろ「アンチ女性」の気運が高まった。
 もちろん、ぼくはこの「アンチ女性」に対しては必ずしも賛同的ではありません。それは本書第2章補論で述べたように「(一般的な)女性の劣化」も「男性一般のアンチフェミ的意識、自己の権利への目覚め」もある意味では「非婚化」というフェミが社会を破壊したが故に生まれたモノで、後者は基本、好ましいものではあれど、ただ単に「女性一般」を腐すだけではジリ貧だと思うからでもあります(とは言っても、ぼくは「アンチ女性派」の指摘そのものが間違っているといっているわけでは全くありません。現状ではまだ、世間では認識されていない「有害な女性性」の認識、共有をする段階だと考えるべきなのかも知れません)。
 いや、しかし「アンフェ」を見ていると今時の若いヤツには騎士道精神などゼロなのだと実感させられます。その前提として、「女性は差別されてきた」といった「洗脳」から、(おそらく学校教育などではいまだそう言われているはずが、実社会の女性たちの姿を見て直感的に)解放されていると強く感じます。彼らは「男女平等」と言った時、即座に「フラットな男女平等」を想定し、そこに「現状は男尊女卑なので女性を引き上げることが男女平等なのだ」という今まで言われてきた虚構の影響は微塵もありません。

 現状は、第一に、上野千鶴子師匠の結婚やTERFが象徴するように、フェミニスト自身がフェミニズムの破綻をわかりやすく提示している。
 第二に、男性(そう、全女性が「うっすらフェミ」なら全男性は本来、「濃厚フェミ騎士」であったはずです)もフェミニズムの洗脳から解き放たれた。
 第三に本来、フェミの手先であったLGBTもフェミとの対立を深め、そしてそれはフェミニズムがそもそも矛盾の塊であったからに他ならない。
 完全な空洞と化したフェミニズムに、しかし一般女性はこぞって殺到しつつある。
「お願いなので、私の不幸は私がモテたからだとのフィクションを奪わないで」と哀願を続けながら。
 彼女らの主観では自分の身に起こった「悪いこと」は全て「キモい男にモテたから」であり、「いいこと」は「イケメンにモテたから」であると解釈されます(もっとも、彼女らはいずれの場合も同じくらいの快を感じているのですが……)。
 だから、これからのフェミニズムは徹頭徹尾、国へのパパ活と共に、弱者男性へと刃を受ける活動になる。
 アメリカではトランプ再選によって階層の対立が明らかになったとしましたが、同質性の強い日本においては、フェミニズムによってこれからいよいよ分断が深まり、男女対立が激しくなっていくのでしょう。


2025初笑い! 新春女災ライブ

2025-02-01 18:37:59 | 女災対策について

 みなさん、早いもので2025年も三十二日経ってしまいました。
 今年も余日僅か、後十一ヶ月日を残すのみとなりました。
 暮れの押し迫る中、お忙しいかと存じますが、どうぞよいお年をお迎えください。

 ――というわけで、ニコブロ、noteで新年に発表した記事ですが、まだ年も明けて日の浅いうちに、こちらにも掲載することにしました。

 あ、その前に「風流間唯人の女災対策的読書・第66回 第66回 恵まれない女性たちに愛のAEDを」がうpされています。
 未見の方はまず、こちらから。





「女災で初笑い」……といっても、笑うところはあまりないのですが……ともあれ、2024年のトピックスをランキング形式で並べてみましょう。

第10位『ネトゲ戦記』焚書

暇空茜氏のネガキャン――一本の線でつながっている!?


 いや、自分も忘れておりました、この事件。
 結局、続報もなかったし、もう随分前のことのように思われますね。
 暇空茜氏が自伝的な著書を発刊したところ、アニメイトへと同書を売るなとの脅迫がなされたという事件です。実際には何ごともなく、また今でも同書はAmazonで買えるのですが、いずれにせよ『あの子もトランスジェンダーになった』と同様の脅迫事件が、オタクに対しても行われたわけですね。
 暇空氏、また他にもフェミニストから敵対的な者には他にも卑劣な圧力が加えられる事件が続き、上の『WiLL Online』様での記事では、それらを扱っています。
 フェミニズムなりLGBTなりのポリコレ勢は、「ノーディベート」などいう段階はとっくに通り越し、自分たちにとって快くない者たちは、暴力で排除することが正義であると、何の迷いもなく考えています。
 もっともこれは、先に続くパオロや『文春』と同じだし、そもそも唐沢氏の頃から、はっきり見て取れたことなのですが。

第9位 北村紗衣問題


 これも何だか、随分昔のできごとのような気がしてしまいます。
 詳しくは上の『WiLL Online』様の記事を見ていただきたいのですが、北村紗衣師匠を批判した雁琳氏が訴えられ、法外な慰謝料を請求されたという件です。
 もう一つ、石川優実師匠から訴えられた青識亜論師匠についても。
 いずれも、あくまで批判に過ぎないものをフェミと司法が結託し、自分たちが被害者であるかのように世論を操作している様が見て取れます。
 これもまた暇空氏の件、芸能人たちのキャンセルと同じ構造を持っていることは、もはや言うまでもないでしょう。

第8位 パリ五輪問題

 さて、海外事情についてです。
 海外のポリコレの非道さは今までも『あの子もトランスジェンダーになった』などについて書いてきたことからもおわかりいただけているかと思いますが、本件はその一環といった評価ができようかと思います。
 ただ、これについては「最後の晩餐」のパフォーマンス中、金玉を丸出しにした男性と幼い少女が同席していたと伝えられており、しかしそれが日本では(本件を問題視する時事系動画などでも)ほとんど言及されなかったことが、ぼくには引っかかりました。
 卑猥なプライドパレード(どうしてLGBT運動家って汚らしい、猥褻なことが大好きなんでしょうね)、トランス運動家の少女たちへのグルーミングなど、どうにもLGBT運動には幼児への性的虐待がつきまとい、またフェミニストもそれに極めて同調的なことは、今までも繰り返してきた通りです。
 ――が、とは言え。
 本件は(オリンピックの、その他の様々な不祥事と共に)世界中にブーイングを引き起こし、むしろ地球規模でポリコレのヤバさが知れ渡るきっかけになった事件であると、ぼくにはそのように思われます。
 そんなわけで、次のトピックスにもつながるわけですが――。

第7位 トランプ再選




 はい、トランプが米国大統領に返り咲きました。
 本件については、夥しい人が様々な角度から語っているわけですが、しかしrei氏の「2024年米国大統領選は「男性差別」が最大争点だった」という指摘が象徴するように、やはりポリコレのおかしさに人々がほとほと嫌気が差していることこそが、トランプの勝因だったのでしょう。
 何しろカマラがセレブと遊んでいる間にトランプはマクドで働いていたのだから、ポリコレが上級国民様のお遊びであると、バレてしまった形です。
 また、LGBTの幼児虐待など、トランプが歯止めをかけてくれることを期待しないわけにはいきません。

 上の二つはいずれも動画ですが、60回はトランプ暗殺未遂騒動直後の、64回は当選直後の様子について言及しています。
 そんなわけで世界規模ではポリコレ(及び、それに含まれるLGBTやフェミ)がとどめを刺されるのではとも思えますが、同時に日本もそれに倣うのかは、今一、想像がつきません。やはりこうしたものは揺り戻しもあるでしょうし……。

第6位「万引はフェミニズム」

 もう世間は忘れかけてますが「万引はフェミニズムだ」と主張する強烈な御仁が出現したのです。詳しくは上の『WiLL Online』様の記事をご覧ください。
 本件のポイントは近年、よく指摘しているようにまず、(フェミニズムのせいで)社会が貧しくなり、非婚化が進み、多くの女性たちがワープア、セクプアに追い込まれた。
 しかし彼女らはそれ故に「自分の不幸は男のせいだ」と説くフェミに、帰依せざるを得なくなった。
 ずっとぼくが指摘していた構図ですが、本年はそれを一歩進め、「覇権フェミ/派遣フェミ」という概念を提出しました。これについては下の動画の方で、さらに詳しく述べられています。
 が、それともう一つ、窃盗を繰り返す精神障害の一種に「窃盗症」というのがあるのですが、これが性的衝動に起因するとなると、「窃盗性愛」と呼ばれるようになります。性的欲求不満を抱えた女性が万引きするなど、古典的に言われ続けて来たことで、要するに万引きは経済問題であると同時に性的窮乏の問題でもあるんですね。
 そうした意味で「万引はフェミニズム(が原因によって起こり、その反社会的理念に適ったものである)」というのはまさに至言なのです。
 男女共同参画局に毎年十兆の予算を投じ、フェミニズムを推進し続けて来たぼくたちは、笑って彼女らの行為を肯定してあげる義務があるのです。

第5位 ツイフェミ男児恐れすぎ問題

 


 上の「男児叩き」は『アゴラ』様に掲載していただいた「一般投稿」です。
 今年の中頃、「男児を女湯に入れるな」とか「男児にセクハラされた」などといった「ツイフェミ」の「男児からの性被害の告発」がXを席巻し、話題となりました。今思えばそれが先日の42歳の女が10歳の男児をレイプし、しかし「恋愛感情があったのだ」として執行猶予判決を受けるという流れに続いていくわけですが。
 さらに、下のものは『WiLL Online』様の記事で、ここでは音楽評論家で立憲民主党のマスコットの生みの親としても知られる高橋健太郎師匠の、女児が健康診断で裸にされることを嫌がっているとのポストがどうもウソだったのではないか……といった話題を採り挙げています。
 いずれも「性に対する厳格化」、それも彼女らがことにこの数年、「性加害」の基準のゴールポストをマッハで移動させている、男性側がいかに譲歩し、女性の性的権限に気を使おうともご満足いただけず、いよいよ荒ぶるようになっているという現状を大変よく現しています。
 ことに「男児」関連についてはぶっちゃけ滑稽であり、これは女災関連について感受性の低い素人の方でも「この女性たちも母親になっていれば、こうはならなかったろうに」といった辺りまでは考えが及ぶのではないでしょうか。
 そう、ぼくはこの件について、ツイフェミたちの感情の何割かは、「男児という理想の恋人を得ることのできた母親という存在」への憎悪ではないか、と指摘しました。
 が、さらに演繹するならばこれは、先にも述べた「フェミニズムのために結婚できず、母親になれなかった女たちが、結果、フェミニズムに縋るしかなくなった」現象なのです。
 ゴールポストのマッハ移動はこれからも、いよいよ加速して、近く光速を越えることになりましょう。

 ――と、ここまで来たところでそろそろ力尽きそうです。
 4位以降は来週に公開させていただきますので、どうぞまたのお越しを……。


オタク文化とフェミニズム(その2)

2025-01-18 19:27:45 | オタク論

 

 さて、一階動画紹介を挟みましたが、前々回の続きです。
 未読の方は、まずそちらからお読みいただくことを、強く推奨します。

・何かルッキズムみたいなことが書いてある、本

 その前回の最後の辺りで全体に対する評は既にやっちゃったのですが、以降は個別に細かいツッコミどころを見ていきたいと思います。
 第8章は「娯楽と恥辱とルッキズム」と題され、「ルッキズム章」とでも評するべきもの。そう、前回にも述べたように田中師匠にはルッキズムに対する大いなるこだわりがあり、それ故に「女性が男性アイドルをまなざしていること」も問題化したいという気持ちは、確かにあったのでしょう。
 ところが本章において、師匠は延々「女は見た目で差別されてきた」という恨み節を炸裂させるのですが、驚くべきことにここでは男性アイドルのことも、それを「まなざしている」はずの女性ファンのことも、全く触れられていません!
 これは初出がアイドルと関係のないテーマで書かれたものだったがためと思われますが、ならそもそも本書に入れるべきではなかったでしょう。

 ぼくが前回、師匠がBL作家としての身バレについて難詰されても、悪びれずに本書を掲げるだろうと書いたのをご記憶でしょうか。
 その理由はもうおわかりかと思います。師匠は本書の中でそれ(女性の、男性への搾取)について考える素振りは見せているわけですから。
 もちろん、素振りは素振りに過ぎませんが、ぼくたちも「女だって男性性を搾取しているじゃないか」式の物言いをするのではなく、「見る/見られる」の男女の非対称性は普遍的であり、それ自体を否定すべきではない、と主張すべきなのです。
 例えば前回挙げた『セクシィ・ギャルの大研究』からして、上野師匠が「男のスケベ心を利用して、自らがまるでセクシィ・ギャルであるかのようにミスリードして、地位を得た」、「パパ活の書」に他ならないのだし、いかに田中師匠が「女性は男性アイドルをまなざしているぞ」とはしゃごうとも、女性が着飾る(つまりまなざされたいと考える)傾向は厳然としてある。
 確かに、「女性がイケメンをまなざすようになっている」というのもそれはそれで正しいのでしょうが、それが決定的な傾向かとなると、疑問です。例えば、バブル期はやはり似たような言説(女が男性化しているぞ!)が流行し、ジャニーズアイドルが脱いだりしたのですが、結局、男性ヌードは普遍化しませんでした。
 つまり、結局「男が女をまなざす」ことこそが普遍的であり、それは女も望んでいることで、別に「搾取」などではない。フェミがそもそも、根本から間違っていることを理解し、その言説の無意味さを説いていく必要があるわけです。

・やたらと自己評価の高い女子の書いた、本


 ――さて、そのためにも、もうちょっと本書について、深く切り込んでいきましょう。
 実はぼくは時々思うのですが、女性のアイドルファンって、とんでもなく自己評価が高いんじゃないでしょうか。
 本書においても、まず「推し」という言葉が世を席巻していると滔々述べられていることを指摘しましたが、そこには「世間の注目を浴び(た気になっ)て有頂天になっている田中師匠の姿が、どうしたって思い浮かびます。彼女も、まなざされたいんでしょう。
 にもかかわらず、師匠は飽きもせず、繰り返し男女の「見る/見られる」の権力関係がどうのこうのと書きますが、そう言ったその直後、オリックスファンの女性が自らを「オリ姫」と呼ぶという豆知識を披露します(165~166p)。
 そこを読んで、ぼくはため息が出ました。
 アイドルファンの男性が自身を「○○王子」などと呼ぶことが想像できるでしょうか。
 つまりこの「姫」という表現が既に、女性が自ら、主体的に、「まなざされる」という女性ジェンダーを選び取り、あどけなくその快楽に酔っていることの証拠なのです。
 さらに言えば、「推し」という言葉が既に、女性のアイドル消費が女性ジェンダーから一歩も出ていないものであったとの「答え」を最初から提示していたのです。
 そう、「萌え」は「感情」を示す言葉ですが、「推し」は「行為」です。好きなアイドルを応援することですよね。能動的「主体」があるんです。
 こう言うと師匠たちは「女性が主体性を獲得し、云々」とドヤ顔になることでしょうが、ちょっと待ってください。これって要するに「旦那に弁当を作ってあげること」の代替行為なんですよ。
「萌え」オタにもまた、散財することを誇るような傾向が、ゼロではないかも知れません。が、「推し」にはそもそも、「貢ぐ」ことを誇るような心性が最初から内包されている。
 本書では「モンペ」という言葉が紹介されています(179p)。「モンスターペアレント」の略語ですが、しつこく「布教」活動をするファンが、自らをそう称することがあるそうなのです。
「自虐的、換言すれば自己相対的ではないか」と感心する人もいるかも知れませんが、さて、どうでしょうか。要するにアイドルファンが「モンペ」という時、アイドルを「息子」に準え、息子への愛情故に暴走する自身を、そのように形容している。ここからはどこか浮かれた感じを、ぼくは受けます。言い換えれば「モンスター」をつけて謙遜することで、彼女らは自身を(ある意味、傲慢にも)「アイドルの母」だと自称しているわけですね。
 前回、師匠が「推し活」を「労働力の搾取」とか何とか宣っているのをご紹介しましたが、芸能事務所にしてみれば「あんたらがやりたがるからやらせてあげてるのに、何を」といった気分かもしれません。
 そう、「推し活」とはケア労働であり、「女の悦び」の代替行為でした。
「萌え」にもモテない男の代償行為という面はあり、一般のアイドルファン女性を馬鹿にするつもりは、ぼくには毛頭ありません。しかしフェミニストがそうした本質に気づくことなく浮かれた書を著してしまうのは、果たしていかがなものでしょうか。
 ましてや、非婚化、少子化そのものがフェミニズムの「成果」であることを考えるならば……。
 アイドルファンとは、アイドルを「旦那」に、「息子」にしている存在です。
 そして、本書から立ち上がってくる彼女らの自己像は、「アイドルを応援し、キラキラ輝いているワタシ」というものです。
 おそらくアイドルが輝いている以上、応援している自分たちが輝いていないわけがない、というリクツなのでしょう。それは丁度、旦那の地位によって井戸端会議におけるヒエラルキーが決定されてしまう奥様方と、全く同様に。
 つまり、仮にアイドル愛好を「搾取」であるとしても、男女でその仕方は全然違う。
 先にアイドル愛好は搾取でないとしましたが、仮にですが男性のアイドルファンが女性アイドルのパンチラを盗撮したら、それは「搾取」と呼ばれるべきかは措くとして「悪いこと」でしょう。
 しかし女性というものは女性ジェンダーのネガティビティについて全くの無頓着で、男性アイドルに対して「「搾取」と呼ばれるべきかは措くとして「悪いこと」」をしたとしても、無自覚であることが多いのではないか……と思えます。
 アイドルに熱中することを代償行為と気づけず、軽率に輝かしい自己像を抱くこともまた、(自分や周囲を不幸にしかねないという意味で)「悪いこと」の範疇ではないでしょうか。

・ジャニーズ問題から目を背けている、本


 その証拠に――とつなげますが――第6章「ジャニーズ問題と私たち――性加害とファン文化の不幸な関係」を見ても、そこに「反省」はありません。
 そう、ジャニーズ問題について、こんなの六〇年代からずっと言われ続けてきたことで、多くの「ジャニオタ」も、知りながら素知らぬ顔でファンでいたのではないかと批判されました。事件が騒がれる前(といっても『文春』によってタレントたちの証言がとっくに出ている段階で)柴田英里師匠はジャニーズアイドルに軽薄に萌えながら、「噂は噂にすぎない」などと一蹴していました
 翻って田中師匠は「私たちのまなざしそのものが問題の本質を隠蔽させていたのではないか(大意・143p)」などと言うので、「あ、満更でもないな」と思っていたら、それ以降は延々芸能事務所やマスコミのあり方へのご意見が続きます。
 本当にちらっとだけ、ファンも悪いようなことも言っていますが、何かそれも、女性ファンを貶めていた世間が悪いみたいなハナシになっていきます(154p)。

 しかも、アイドルの応援を軽蔑に値する文化であると断じ、ファンの女性を侮蔑し、ミソジニー(女性嫌悪)と結びつけた悪感情に満ちた言葉が、ファンコミュニティの外側から雨あられと飛んでくる。内情を知らぬ者たちに、別のファン文化と比較され、優劣を付けられもする。
(155p)

 何かよくわかりませんが、全て男のせいということになったみたいです。
 しかしね、そこまでアイドルファンをやってるだけで叩かれるのが本当なら、それについて検証する本を出しゃいいと思うんですけどね。
「別のファン文化と比較され、優劣を付けられ」るって、幼い少年たちがジャニーに受けてきたことを考えれば、どう考えても、どうでもいいような、鼻で笑い飛ばされるようなことでしかないし、こうした「被害感情」も責を人に押しつけるため、急遽発動したものじゃないでしょうか。
「ジャニオタ」の元ジャニーズの告発者への攻撃についてはさすがにスルーできなかったのか、ちらと触れてはいますが、自殺者を出したことについては言及がありません。結局、フェミは誰も少年への性的虐待について真摯に向きあうことはなかったわけです。

 この問題をジャニーズに特有のものとせずに日本社会に蔓延る普遍的な課題として捉えていくためには、エンターテイメント業界でこれまで浮かび上がってきた女性による性被害の訴えもまた過去にさかのぼって検証し直す必要がある。
(158p)

 あぁ、そうですか、よかったですね。

・何か「男の娘」とか書いてある、本

 ――さて、最後にちょっと、第9章についても触れておかねばなりません。
 オタクについての言及がほとんどない本書ですが、この章ではコスプレが、しかも「男の娘」についてが妙に子細に語られます。

 特に、若くてかわいくてきれいな女性キャラクターや萌え系の女性キャラクターのコスプレを男性がした場合、それは「コスプレ」であるのと同時に「男の娘」でもある。
(221p)

 えええええぇぇぇぇぇ~~~~~っっっっっ!!!!!?????
 何故!? どうして!?
 萌え系の二次元のキャラを「男の娘」と呼ぶのであって、そのコスプレはあくまで「男の娘」のコスプレ、です。

 異性愛の対象を自身の身体に憑依させるということよりも、むしろ、もっと直接的に「オンナノコ」になり、むしろ「異性」である男性たちに可愛がられたという受動的な欲求の発露である。
(同p)

 えええええぇぇぇぇぇ~~~~~っっっっっ!!!!!?????
 何故!? どうして!?
 根拠は一切、示されません。
 女子スペースに侵入し、性犯罪を繰り返すオカマが後を絶たないことを考えてもわかるように、「女性化願望」と「同性愛」の間には溝があるわけで、そこを単線的につなぐ師匠の考えは全く当を得ていないでしょう。
 ここでは「自分を男の娘だと思い込んでいる一般オカマ」についてひたすら書かれるばかりで、「男の娘」については全く言及がありません。例えばブリジット、例えば綾崎ハヤテ、例えばローラ・ローラなどについては、潔いほどに。本書のタイトルにオタクと冠されながら、最後までオタクについて全く書かれないことと、「完全に一致」して。
 これはそれこそ上にも挙げたブリジットが数年前、「トランスにさせられた」のと同様の、オタク文化のLGBTによる誤用であり曲解であり簒奪です。
 案の定、師匠はLGBTアライなのですが、それにしても一体何をどのようにすれば、ここまで卑劣で陰惨で残酷なことができるんでしょうか。

・何か自分語りで締められる、本

 女オタクの嗜好性は、規範的な女らしさとの切断の回路だ。しかし、同時にそれは、切断されたものとのオルタナティブな関係を再生する試みにもなりうる。
(227p)

 本書の最終章である第十章の書き出しです。
 どう思われたでしょう。
 この十章では急に情緒的な自分語りが始まります。

 活字中毒でロジカルにしゃべる女の子が小・中学校の女子のグループに受け入れてもらうのは、極めて困難なことだった。本やマンガやアニメやロックやSFが好きで、解釈論ばかりを繰り広げ、あげく「結婚制度には反対」とか言っていた私は、今思い返すとあまり同級生ウケの良い子供ではなかった。
 ガキっぽい趣味の同年代の男の子たちには嫌われていたし、バレンタインの手作りチョコレートにおまじないをかけているような同年代の女の子たちにも、あまり好かれてはいなかった……と思う。
(同p)

 いかが思われたでしょうか、みなさん。
 オタクというのはナイーブで聡明な存在であり、気持ちはよくわかるし、自分も『エヴァ』を観ながら、似たようなことを考えていた気もします。
 あ、ロックとかSF趣味を誇らしげに開陳している辺りは赤面してしまいますが、それはまあ、世代的に仕方がないのだと、許してあげてください。
 ともあれ師匠は、そんな自分を、オタク趣味がいかに救ってくれたかという追想を始め、それそのものにはぼく自身も共感を覚えます。
 問題は、男の子たちをガキっぽいと貶め、また自分以外の女の子たちの恋愛脳を蔑む彼女が、本人が言うほどに「ロジカルにしゃべる」女の子だったら、こんな論理性に欠ける本を書いたりはしないのではないか、ということですが。
 つまり、田中師匠が自分の「非リア充」性の原因を自分の知性に求めているのに対し、いささかの疑念が湧かないではないわけです。
 冒頭の「女オタクの嗜好性は、規範的な女らしさとの切断の回路」というのは要するに「オタク女子は通常の女らしさを持っていない」との主張です。何しろBLなどは「男しかいない世界」ですから、何とはなしに騙される人もいるのですが、ここまであどけなくアイドル萌え話が開陳された後では、それを信じる気になれるでしょうか。
 続いて「切断されたものとのオルタナティブな関係を再生する試み」とあるのは、要するに「BLで女のいない世界を描くのもいいけど、三次元のアイドルに姫扱いされるのもいーな」という意味なのです。
 これは同時に、バレンタインの手作りチョコレートに夢中になっていた他の女子たちを見下しているように見えた師匠が、実は羨望していたのだ、ということでもあります。
 同章では十年ほど前に2.5次元の世界(要するに漫画などを原作とするミュージカル)にハマったことが書かれており、まあ、オタク趣味が普遍化したおかげでホストクラブに好みのイケメンが溢れるようになってよかったねと、いえ、「ホストクラブ」というのは言葉のアヤですが、要するに師匠はそういうことをおっしゃっているわけです。
 言うなら上野千鶴子師匠が結婚しながら「結婚制度は悪」と言っているようなもので、こちらとしては「完全敗北宣言だな」と思うのですが、おそらくご当人にその自覚はない。
 フェミニストは男が好きで好きでたまらない、フツーの愚かで可愛いオンナノコ(の、なれの果て)でした。
 だから、市場もまたその欲望を汲んで、ホスト――じゃなくて、何だ、その、イケメン君たちを用意してくれました。
 その快楽を存分に享受しながら、今日も彼女らは相も変わらず十年一日のフェミニズムを、念仏の如く唱え続けるのでした。
 めでたしめでたし。


風流間唯人の女災対策的読書・第65回 ずんだもんと伊集院光 平成と令和の弱者男性

2025-01-11 19:45:03 | 弱者男性

風流間唯人の女災対策的読書・第65回 ずんだもんと伊集院光 平成と令和の弱者男性

 第六十五回目です。
 相も変わらず「弱者男性」論喧しいですが、ちょっと政治論争を離れ、昭和と平成、令和の「弱者男性」像の変遷について,見てみましょう。
 動画中で挙げられた「前編」は以下を。

風流間唯人の女災対策的読書・第48回「ずんだもんはダメおやじである 昭和と令和の弱者男性」

 

風流間唯人の女災対策的読書・第35回「伊集院光――ようこそ、男の子たちの秘密基地へ!」