兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

風流間唯人の女災対策的読書・第64回ジェンダー大戦「男性差別」→「弱者男性」→「男性復権」

2024-12-07 17:54:49 | お知らせ

 目下、『WiLL Online』様で新しい記事「松本人志裁判取り下げをどう見る?」が掲載されています。

松本人志裁判取り下げをどう見る?【兵頭新児】
 
 卑劣なパオロ・マッツァリーノのデマゴーグも一刀両断にした、おそらく本件に一番切り込んだ記事となっていることでしょう。
 目下、第二位。どうぞ応援をよろしくお願いします!

 さて、動画は第六十四回目です!

風流間唯人の女災対策的読書・第64回 ジェンダー大戦「男性差別」→「弱者男性」→「男性復権」

 アメリカ大統領選、蓋を開けてみればトランプの圧勝。
 左派のドリーマーぶりと共に、「現実」がどうなっているかをぼくたちに突きつける結果となりました。
 さて、注目したいのはアンチフェミツイッタラーrei氏の「大統領選は男性差別が争点だった」という指摘ですが――。
 文中のファレルの著作については以下を。

男性権力の神話 《男性差別》の可視化と撤廃のための学問(再)


 当該箇所については「夫の代わりとしての政府」で検索してみてください。


盗作はロボット軍団への反逆である

2024-11-17 20:12:54 | サブカル

 

 どうも、盗作家・兵頭新児です。
 そしてまたある時は、悪のロボット軍団と戦う正義のヒーローです。
 ネット界が悪のロボット軍団に支配されていることはみなさんご存じでしょうから、それは措くとして、ここはまず盗作についてお話ししましょう。
 それはまだ、兵頭が高校生だった頃。クラスでその当時最新の戦隊のEDテーマを口ずさんでおりました。

 ――テイクオフテイクオフ♪

 そこに、音楽好きのSが現れ、言ってきました。

 ――いい歌だな。詩を書いてくれないか。

 いや何で急に「詩を書いてくれ」となったのか、記憶も定かでないのですが、ぼくの歌に感心して作詞を依頼されたという経緯は間違いなく、今から思うとつながりが不明ですが、歌の詩に感銘を受けたんじゃないですかね。
 さて、まあ、しかしせっかくの頼みなので詩を書いてみました。
 Sにもなかなか評価され、感謝されました。いや、そいつも作曲をやっていたといった話は聞かず、結局その詩はどうなったのかわからないのですが。
 が、ちょっとしてそのSが「お前盗作すんなよ」とこちらを詰ってきたのです。
 その隣ではまた別なクラスメートのGがこちらをバカにしたような目で見下ろしながら、「テイクオフテイクオフ♪」とドヤ顔で戦隊EDを口ずさんでおりました。
 おいおいおいおいおい!
 どうもそのGが「兵頭は盗作家だ」と吹き込んだらしく、その根拠は「兵頭の詩にテイクオフというワードが使われていたから」ということらしいのです!!
 そもそも作詞を引き受けた経緯もうろ覚えですが、Sがぼくの歌う「テイクオフ」という歌詞を聴いていたのは間違いなく、或いはその歌の詩をアレンジしろと頼まれたような気もします。
 いずれにせよぼくの書いた詩、さすがに残ってはいないものの、その「テイクオフ」以外にことさら似た箇所はなかったはずです。
 そこを「テイクオフだから盗作だ」と言われても。
 世の中の歌に「テイクオフ」という詩が出てくるものは無数にあると思うのですが、実はそれらは全て、戦隊の盗作だったんですね。
 いやねー、でも世間ってそんなですよ。
 島本和彦氏はラジオ番組をやっていたのですが、代表作の『吠えろペン』のタイトルを『太陽にほえろ』からいただいた、と言ったところアシスタントの女性に「盗作だ盗作だ」と言われ、顔を顰めていたことがありました。
 ましてや高校生なんて世界が狭いですから、「テイクオフ」という言い回しがありふれたものと理解できず、自分の少ない知識が全てで、「あ、戦隊の歌詞だ! だから盗作だ」と短絡しちゃったのでしょう。

 ――さて、ここまでくどくどと述べてきましたが、本稿はアレです、唐沢俊一論の続きです。

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 というのは、唐沢俊一氏を潰したのは「悪のロボット軍団」であったという事実が判明したからなのです。
 ちょっとここで、星新一のエッセイに書かれていた話を持ち出しましょう。
 おそらく五〇年ほど前(1970年代)のことなのですが、コンピュータが歌を作ったと騒がれたことがありました。もっともこれは他愛ない、音楽のデータを膨大に入力されたコンピュータがそこからランダムにサンプリングした、そういったことであったと思います。そして近年のAIについて、ぼくは全く知識を持たないのですが、それもこれの高度になったものと考えていいのではないでしょうか。
 ともあれそのコンピュータ作曲の歌を当時の人気歌手、坂本九が歌い、「盗作の歌のようだ」との感想をもらした、とエッセイにはあります。
 星新一はそれに続け、「人間の場合は仮に似ても偶然の一致など、一概に言えないが、これは人間不在であり、明確な盗作だ」としていました。
 そう、人間の場合「偶然似てしまう」ということがあるわけです。

 ――いや待て兵頭。唐沢の場合は明らかな盗作ではないのか。偶然似たとは言えまい。

 そりゃわかってます。
 ご存じない方は前回記事をご覧いただくか、調べていただきたいのですが、唐沢氏の場合は「とある作品のプロット紹介を、ブログ記事から無断で引用した」ことが問題であり、これは「偶然似た」とは考えにくい。
 しかし同時に、前回にも述べたようにそもそもプロットの要約なのだから、「クリエイティビティというものの盗用」であったとは言いにくいのです。
 同様に、「偶然似てしまった」場合は「前例があることを知らず、同じ道を辿った」わけだから当人は同様のクリエイティビティを発揮したのだと言うしかなく、やはり「クリエイティビティというものの盗用」とは言いにくいわけです。

 ――なるほど、そうなると共通点があることは認めるが、それで唐沢を正当化するのは無理筋じゃないか。

 いやだから、ぼくは前回から、「唐沢氏は悪くない」などと一言も言ってませんって。
 ぼくが言っているのは「唐沢氏を叩いた者は悪い」です。
 何となれば、彼らは「悪のロボット軍団」の手先なのですから。
 そうそう、以前にも書いたことですが、やはり星新一のエッセイでは再三繰り返し、海外の学者の言葉が引用されています。
「機械がいかに人間に近づこうが、それは脅威ではない。人間が機械に近づくことこそが脅威だ」。
 ぼくはこれをオタク文化が一時期の勢いを完全に失い、前例に似たものを作るばかりのソシャゲやYouTube動画、SEO様のお告げ通りに記事を書くネットライターなどへの「予言」として紹介しました。

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 ぼくはそれらを「オタクの敵」認定すると共に、いつも腐す左派とはまた一線を画した存在(少なくとも直接の関係はない)ともしていましたが、「左派的な価値観で自由を縛ろうとするグローバル資本主義」をロボット軍団の黒幕とでもするならば、やはり似たもの同士、両者は「同じ黒幕に差し向けられた悪のロボット」であるとは表現し得る。
 そして、冒頭に挙げたぼくの高校生の時のクラスメートGの例、これはまさしく「自ら機械に近づこうとしている人間」、言い換えれば「ロボット軍団の軍門に降った人間」の姿ではないでしょうか。
 だってこの人はぼくの詩の「クリエイティビティ」というモノを(それがさほどあったか否かは措くとして)認めることができず、共通のキーワードを見た瞬間、それを盗作と認識してしまったのですから。
 何かからパクっただけのYouTube動画、SEOで検索されているキーワードを抜き出し、それらをウィキの記述から切り貼りしただけの、「意味」というものを一切持たないネット記事。
 これらは悪の軍団の「人間ロボット化作戦」の一環です。
 いえ、もちろん、Gを見てもわかるように、普通の人々の認識はその程度のものであり、クリエイティビティを認め、楽しむだけのリテラシーは最初から、持っていなかったという辺りが、結論なのでしょうが。

 ちょっとここで疑問に思った方がいるかも知れません。Gはぼくの作を盗作だと言い立て貶したが、翻ってネット民はクリエイティビティのない動画をおとなしく受け容れているではないかと。
 そう思った方は非常に鋭い。
 確かにそれはその通りです。
 しかし先にも述べたように、両者とも「クリエイティビティ」というものに価値を置いていないという意味で同じ、ということに気づいて欲しいのです。
 唐沢氏のやったことは明確に盗作で悪いことであった。
 が、彼を潰そうと大騒ぎした連中に、クリエイティビティを云々するだけの知恵はなかった。先の記事で言及した作家さんにおいても、それはそうでした。いえ、作家なのだからそうした批評眼がゼロであるはずはないのですが、唐沢憎しの感情に取り憑かれ、まともな判断力を喪失していた。
 それは、非常におぞましいことなのではないでしょうか。
 彼らは夥しいYouTube動画がある種の「盗作」によって成り立っていることを知っている。
 しかし彼らの中でそれに声を上げた者は、おそらく一人もいない。
 だって「盗作」とは「敵」に投げつけ、そいつを潰すための「攻撃呪文」でしかなく、クリエイティビティという尊いものの簒奪などでは全く、ないのだから。

 ここでみなさん、「女災」について思い至っていただきたいと思います。
 今年に入って松本人志氏、ジャンポケの斉藤氏と極めておかしなことになっていることは、ご承知かと思います。
 女災のおぞましさは「被害者だと最初から決まっている方の性」の鶴の一声で全てが決まってしまうこと、逆に言うならば女性の合意があったか否かという極めて曖昧で立証の困難なことを根拠として成立していることです。
 盗作問題もやはり、同じ構造が見て取れるのです。
 星新一が重要だと指摘した、人間のクリエイティビティというものは極めて曖昧で立証困難なものなのだから。

 話題としてはちょっとずれますが、そもそもがオタク文化というのはパロディから始まったものでした。
 例えば、美少女コミック誌(という名の、商業同人誌)においてはクオリティの低いものが多かった、ということは先の記事でも述べましたが、そこでは時々あからさまなパクリがあったものです。
 パクリとパロディの境目もまた曖昧ですが、数ページに渡り構図からセリフまで同じ、それを違うキャラにやらせているだけ、なんてのもあったのです。
 しかしそれを言うなら庵野もそうですよね。
『ナディア』を観れば『ヤマト』だ『サイボーグ009』だ『ノストラダムスの大予言』だ『日本沈没』だと「引用」に継ぐ「引用」です。
 そこで何故庵野が許されているかとなるとやはり作品全体を見渡せば、そこにクリエイティビティがあるからとしか、言いようがありません。
 ぼくはここで唐沢氏について、書籍全体にはクリエイティビティがあるから許せと言っているわけではありません(クリエイティビティは大いにあると思いますが、引用は引用と名言することは、書籍においては当たり前のルールですから)。
 ぼくがしているのは所詮クリエイティビティのあるなしを云々する見識のない輩が盗作だ盗作だと騒いで作家を潰すことができるのであれば、それは女災と変わらない、政治的な敵をいついかなる場合でも好き勝手に潰せるキャンセルカルチャーに他ならない、という指摘なのです。
 ある時期のオタク左派は、明らかにそうした「圧力団体」として機能していました。
 いつも言う「ガンダム事変」、「薔薇族事変」はそうした圧力団体によるフェミ擁護でした。
 しかし、幸いにして表現の自由クラスタという名の圧力団体も、既に力を失ってい(るようにぼくには見え)ます。
 ちょっと前、「男性差別」という言葉の危うさについて述べました。
 それは端的に言うなら「悪」の使っている武器を「自らも持とう」とすることへの危惧でありました。
 それと同様に、敵対的な陣営相手に互いに「盗作だ盗作だ」と攻撃し、相手を潰すという泥仕合がこれから盛んになる、と言う未来図も描き得ますが、好ましいことではありません。
 ぼくたちは「キャンセル抑止力」で互いに睨みを利かせあう未来より、「悪」の持つ武器を破壊することで自由を取り戻す未来をこそ、目指すべきではないでしょうか。


風流間唯人の女災対策的読書・第63回「トランスジェンダーに対する激熱な『情況』」

2024-11-02 19:43:45 | セクシャルマイノリティ

風流間唯人の女災対策的読書・第63回「トランスジェンダーに対する激熱な『情況』」

動画うp!
話題となった『情況』の中身は、果たしてどんなものであったか……?

また『WiLL Online』さまで発表中の記事もよろしく!

「万引きはフェミニズム」?!――新たなテロの始まりか【兵頭新児】
https://web-willmagazine.com/social-history/uqyjj

唐沢俊一論――評論家に戮された人たち

2024-10-26 17:56:11 | サブカル

 

 オタク評論家というか、オタク界隈の大物であった唐沢俊一氏が亡くなりました。
 心臓発作による急死とのことで、早すぎる死は惜しまれますが、同時に「むしろ餓死に近い」とも囁かれており、そうした晩年の惨状を知らされるに至っては絶句せざるを得ず、ことに近親者の告白は衝撃的なものでした。
 本件に関してはXで少し書いたのでもういいやとも思っていたのですが、「アンチ」の言動を見て、やはり永続的に残る形にしておいた方がと感じ、ここにまとめておくことにしました。
 そんなわけで少しヤバい話は課金制にします。
 あくまで「ヤバい」はぼく個人にとっての話であり、ことさらに裏事情などが明かされるわけではないので、そこはあくまで文章を面白いと思った方にだけ、お勧めします。
 では、そういうことで……。

・オタクを戮したい者たち

 まず、上にも書いたように近親者の言からすると、氏の晩年はお世辞にも誉められたものではなく、また惨憺たるものであったことが窺えます。
 ただ、同時に氏はサブカル界隈に悪評をばら撒かれていた人でもありました。
 唐沢俊一と言えば「盗作」とのワードが返ってきますし、それも否定できないのですが、「無断引用」とも言われたように(というか、確かご当人がそう表現していたと思います)、実態は「盗作」と言われた時に想像するものとはかなり隔たったものだったのです。
 問題になったのは『新・UFO入門』という新書。没後のポストにも、この本が丸々パクリで書かれたかのように言っているものもありましたが、実際のところ、とある小説についての要約の数行が、個人ブログからコピペされたものであったことが問題になったのです。こう聞くと、なあんだと思われた方も多いのではないでしょうか。
 例え数行でも、また要約であろうとも許されることではありませんが、それにしても他者のアイディアを自作のように装うという意味での盗作ではない。いくらかのペナルティはあってしかるべきでも、全方位からの集中砲火で筆を折らせるような種類のものかは疑問です。何せ、当時のバッシングは本当に常軌を逸したものでしたから。
 実は最近もこれについてXにポストしたことがあるので、そこから引用してみましょう。

(唐沢氏のは許されないこととは言え、明らかに出典を忘れただけのことを、「敵」がここぞとばかり叩き出すという、まさに「キャンセルカルチャー」の先駆けだったんだよね)
https://x.com/Frozen_hyodo/status/1808159262151266733


 これに対し、早速レスをつけてきた作家さんがいました。

違いますよ。漫棚通信さん@mandanatsusinのブログの文章をコピペしたうえ「加工」して原形が分からなくした極めて悪質なものです。くわしくはこちらのまとめを。


 それに対するぼくの(いささか長文の)お返事が以下です。

まず、ちょっと思ったのは「コピペしたうえ「加工」して原型が分からなくした」ってのは論理矛盾ですよね。
「原型が分からな」い場合はパクリとわからないわけです。
いきなり「盗品は処分しただけでお前が盗んだんだろ!」と殴りかかるようなものですw
ただし、唐沢氏の問題の件は確かに「原型」はそのまま持ってきたけど、最後をちょっとだけ変えていたということを、思い出しました。
モノは要するに別な資料の要約であり、その要約の部分がまんまだった。
だからやはり「コピペ」であることは事実であった。
ただ、同時に要約というものはクリエイティビティの少ない部分であることは事実で、一言「参考文献」などで挙げていれば問題も起こらなかったのになあと。
その意味で、騒ぎ方に対するよくぞここまで過剰にという感想が、先のツイになったわけです。


 この後、相手の作家さんは(他にも、ちょっと嫌味をおっしゃっていたので、それについては)冷静に謝罪してくださいました。いや、ぼくの主張に納得なさったかは判然としませんが。
 問題の部分は小説の要約であり、その要約がそのまんまだけど、最後のちょっとした感想の一言が、唐沢氏独自のものであった。
 件の作家さんはそれを引用とわからなくするための改変としているのですが、それ以前の部分が同じなら「わからなく」なるわけではないでしょう。引用文献として挙げ忘れただけではないかというのがぼくの判断です。
(もっとも超フラットに見るならば、唐沢氏に盗作の悪意があったかどうかは藪の中、というのが正しい言い方でしょうし、ぼくもやや唐沢氏寄りの見方はしています)
 ともあれ、順風満帆に見えた唐沢氏はここから作家、出版関係者、業界人の連合軍による尋常ではないバッシングを受け、坂を転がるように仕事を失い、転落してしまったわけです。
 先にあるように近親者、また仕事仲間とも問題を起こしていた人であり(ただ、近親者のそれは死後に一方的にされた話ではあります)、清廉で潔白だとは言いにくいですが、それにしてもバッシングは過剰であったし、それによって「戮された」のだということは、否定しにくいように思います。
 何しろ「アンチ」の中には今回、唐沢氏や岡田斗司夫氏を売り出した人間に取材しろなどと言っていた者もいましたし(取材してどうするんでしょう。悪者を世に放った責任を追及しろ、というわけでしょうか)、また無断盗用(と、敢えて表現します)騒動に対しては氏が会員だったと学会の山本弘氏にまで意見表明せよと迫り、病床に伏した近年までしつこくしつこく粘着していました(除名処分にしなかったことがお気に召さなかったようです。唐沢氏の問題の本が、と学会名義というわけですらないのに、です)。
 普通に考えて唖然とするような振る舞いばかりですが、「唐沢俊一は悪の権化だ」という「大前提」がもう、彼らの中では揺るぎないものとなっており、その唐沢を潰すという「大正義」のためには何をしても許される、というのが彼らの考えなのでしょう、安倍さん暗殺の時の左派と同様に。

・オタクについて論じた人たち

 さて、では、何故、唐沢氏はここまでバッシングを受けねばならなかったのでしょうか。
 そんなの、氏の「業績」を見れば明らかやないですか。
 いつも言ってる岡田氏の場合といっしょです。
 唐沢氏の著作に『B級学』というものがあります。
 漫画を中心に、大衆文化にはその時代の瞬間最大風速的に圧倒的な支持を受け、しかし評論家の先生方の受けが悪いがために「消えて」しまう作品が無限にある。確かにそれらはクオリティや芸術性という意味では取るに足りぬものが多い。だが大衆の心に何よりも寄り添い、慰めてきたそれらを蔑ろにしてしまっていいのか。
 ――以上は唐沢氏の本の引用ではなく、あくまでぼくが自分の理解を記憶に頼り書いていることなのですが、ここしばらくたまたま氏の本を読み返していたところでもあり、アウトラインは抑えているのではと思います。
 これは同時に、例えばぼくがオタク文化を形容し「裸の男性性」と称するのとも近い。オタク文化はもちろん大変なクオリティを持ってはいるものの、同時に同人誌やかつての美少女コミック誌(これは商業版同人誌とでも称するべき特性を持っておりました)などは、クオリティ的には低いものも多かったのですが、それらはその時のオタクの「気分」をストレートに汲み取るものでした。ぼくの言はそれに価値を置くものであり、これは唐沢氏のスタンスとも相通ずるものです。
 氏は以降、貸本の怪奇漫画などの復刻を積極的に行ってきました。それらはクオリティの低いものばかりで、そこに書き文字で「何やってんだ、この主人公」といったツッコミを入れるスタイルに「アンチ」が文句を言ったりもしておりましたが、じゃあ、お前がツッコミなしのものを先に復刻しろって話です(しかしそうした「アンチ」が『映画秘宝』的な、近いことをやっていた連中なのも不思議です)。そもそもクオリティが低い(ツッコまずにおれない)ものを復刻するというのが氏のスタンスであり、「アンチ」はそこを理解できていないのです。
 上に唐沢氏を「岡田氏と同じ」と書きました。が、唐沢氏のスタンスは、岡田氏とはまた少々、違ったものかも知れません。
 評論家としての岡田氏のモチーフは、「オタクは批評家たれ」とでもいったものになりましょう。
 要するにこの世に溢れるおびただしいコンテンツの中から、目利きたるオタクがある種のインフルエンサーとなり、「こんな面白いのがあるぜ」と伝える、クリエイターと消費者の仲介者とでも称するべき役割を担え、といったものです(『プチクリ』とかその時期の著作に、これは濃厚に出ています)。
 これはそもそも、オタクがアニメなど子供向けとされていたものから価値を見出した者であることに、端を発しています。また、先の同人誌などでも述べたようにオタク文化の本質は「舞台と楽屋と客席」を融合合体させたところにでもある、と言えそうです(これはまさに八〇年代のオタク投稿雑誌、『ファンロード』誌上において、読者が同誌を評して述べていたことです)。
 いずれにせよ、二人のスタンスは違いもあれど、クリエイター様を伏し拝むのではなく、受け手側がもう少し能動的に作品に切り込んでいくべきという点で、共通していたのだと言えますね。

・オタク資産が欲しい者たち

 ところが、一体全体どうしたことか、両氏の「アンチ」、ぼくが「サブカル」とか「オタク界のトップ」とか「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」とか読んでいる連中はこうした世界観を頑なに拒む傾向があります。彼らは一体全体どういう認知の歪みか、オタクは「消費者」だと信じ込み、「消費者だから下等だ」とビシバシ決めつけます。彼らは一様にクリエイターを神のように崇め、消費者を見下しています。じゃあ、先にも述べたように、彼らに『映画秘宝』的にコンテンツを斜めに見たがる傾向があるのは何故か不思議なのですが、多分自分だけはクリエイターよりエラい、というリクツなのでしょう。
 ぼくはかつて岡田氏をサブカルに対する「ジオン」である、独立戦争を起こした側である、と表現しましたが、唐沢氏にもそれが当てはまるのです。そしてまた、その時にはサブカルの左翼性とオタクのノンポリ性の相克といった面を強調しましたが、唐沢氏は実のところ左派嫌いの人でした(晩年、フェミニスト作家を批判していたことを知る方も多いでしょうが、かなり早い段階からフェミ批判もしていました)。
 今回の訃報に際し、極めておびただしい「唐沢は売れなくなったからネトウヨに擦り寄ったのだ」とのさわやかな死体蹴りを拝見いたしましたが、それは残念なことに事実に基づいていないのです。
 そう、両氏が何故「消された」かはもう、明白です。
 彼らがバッシングを受けたタイミングと、オタク文化の凋落がシンクロしていたのは、決して偶然ではないのです。
 何しろ彼らの目的は、オタク村という「植民地」における成果物の中から、「自分たちにも食べれる」ものだけを簒奪するというものなのだから、やってることはフェミと面白いほどに「完全に一致」しているのです(腐女子フェミのBLの持ち上げぶりを見よ!)。
 ぼくは上で唐沢氏バッシングを「キャンセルの元祖」と表現しましたが、同じ手がこれからいよいよ、ぼくたちに伸びてくることも、既に必然なわけです。

 先に岡田氏、唐沢氏の評論家としての骨子について述べましたが、今のオタクコンテンツには、それらが失われているように、ぼくには感じられます。
『B級学』的な視点から見るならば、いい意味での素人っぽさ、マニアックなネタを競うような趣味性(要するに内輪受けということですが、それは必ずしも悪いことではありません)が失われている。同人誌の持つ特性を、ぼくは「気分」と表現しましたが、その「気分」を失った時、青年文化としてのオタクコンテンツは死ぬわけです。
『プチクリ』的な視点から見るならば、例えばですがマイナーなエロゲの記事をブロガーが書き、2ちゃんねるのスレッドでそうしたコンテンツについて喧々諤々と考察する、これらはゼロ年代には普通に見られたことですが、今ではそうした文化は失われています(2ちゃんがXに、ブログがnoteになったということではなく、そうしたオタク活動そのものが停滞しているわけです)。
 これは直接的には小銭を稼ぎたいヤツらがDLsiteなりソシャゲなりYouTube動画業者なりといった形でオタク業界を荒らしたことが原因だと思うのですが、オタク的な「気分」を、またオタクコンテンツそのものをサブカル陣営が叩き続けたことを考えると、それもまた、一助となっていましょう。
 仮にそうしたサブカル陣営の妨害がなければ、或いは両氏の著作を論理的支柱として、ぼくたちももうちょっとオタクコンテンツの防衛ができていたのではないでしょうか。
 今、唐沢氏は彼の愛したB級同様、「評論家の先生方」に消されようとしています。
 全盛期のことを知る者も減るばかりでしょうし、これを機に、サブカル陣営がネガキャンを張ることは目に見えています。
 そしてそのことはまた、ぼくたちの近未来を示唆してもいるのです。

 あ……いや、実のところ「アンチ」にそこまでの知性があるかは極めて疑わしく、単純にオタク村への侵攻時に、まず村長さんをぶっ殺しておく必要があっただけ、ということなのかも知れませんが。
 岡田氏は何しろオタキングを名乗り、今でもYouTuberとして活躍しており、オタク界の大物というのはご理解いただけましょう。
 唐沢氏もまた、二〇年ほど前はテレビに出るのみならず、毎月のように本をバンバン出版し、イベントを企画してと、オタク界の中心にいたのです。この辺り、おそらくこれからは晩年の窮乏を強調するネガキャンが始まるでしょうから、申し上げておきます。
 当時の唐沢氏はオタクのみならず、サブカル界隈からも憧れられ、妬まれ、嫉まれる対象であり、(事件以前より)その地位を失墜させようと叩く者が多かったのです。
 そう、「サブカルのオタクへの攻撃」というものが「あった」ことは、幾度も書いているので繰り返す必要はないかと思います。彼らのオタクへの感情はアンビヴァレントなもので、「俺を捨てたお稚児さん」への憎悪という側面と「いや、お稚児さんはまだ俺を愛しているはずだ」という未練という側面とがあります。
 それが彼らの「オタクもサブカルも元は同じだ」、「オタクどもはネトウヨだ」との矛盾した物言いへとつながっているわけです。
 そしてまた、オタクをお稚児さんであると思い込んでいるが故、彼らはオタク文化の中から「自分たちにも食べれる」モノを選別し、奪取することを正当な権利だと、傲岸不遜にも、本当に信じているわけです。
 ちょっと観念的にわかりにくいでしょうか。
 一つに、東浩紀や宇野常寛が常にオタクを貶め、蔑み、軽んじ、侮り、卑しみながら、オタクコンテンツで商売をしていることを例示すれば、それで充分かも知れませんが、今これを読んでくださっている何割かは、とある言葉が喉にまででかかっているかもしれません。
 ――ということで、以降はちょっと、課金にしておこうかと思います。
 ご興味のある方は下をクリックしてみてください。

・オタクを寝取った者たち


表現の自由クラスタオワコン問題は小山田圭吾炎上問題である――『小山田圭吾冤罪の「嘘」』を読む

2024-09-29 19:45:58 | 弱者男性

 

風流間唯人の女災対策的読書・第62回「トランスジェンダーを巡る激寒な『情況』」

 新動画公開中です!
 今回とは関係ありませんが、トランスジェンダーについての、左派の右往左往について。
 また、『WiLL Online』様で牛角炎上問題について語らせていただいております。
 本件について、どこよりも深くまで切り込んだものと、自負しておりますのでどうぞ、ご愛顧ください。

 ――さて、本編は前回記事に引き続き、巷に溢れる小山田圭吾擁護のデタラメを暴いた電八郎氏による電書、『小山田圭吾冤罪の「嘘」』のレビューです。
 トップ画像は前著ですが、まあ、これは見た目の差別化を図るためです。
 ともあれ本書(前著じゃなく新刊の方)では小山田の愚行は当時のサブカルの愚劣さの一端として理解する必要があるとし、当時の悪趣味・鬼畜ブームが鋭く斬られていました。当時はそうした、身の毛のよだつような悪趣味・鬼畜AVというものがサブカルによって得意げに製作、視聴されていたのです。
 ただ、それを否定しようとするあまり、電氏もフェミ騎士の論文を引用したりで、そこは頷けない、そうした批判をしたかと思います。
 さて、ではその悪趣味・鬼畜AVとはいかなるものだったのでしょうか。
 ちょっと前回と順序が逆になった感もありますが、サブカルの悪行を忘れないためにもどうぞ、ご一読ください。
 もっとも、お断りしておきますが読んでいて気分の悪くなる内容が延々と続きます。
 苦手な方は、お読みになりませんよう。
 なお、電書にはページというものがないので、引用、紹介した文章の末尾に項タイトルを()内に添えておきますので、ご了承ください。

 さて、ここでは幾人か(一般のAVではない)悪趣味・鬼畜AVの作り手たちの名が挙がります。バクシーシ山下もその一人ですが、彼は著書『セックス障害者たち』において「当時」(と言ってもいつのことかは判然としませんが)は避妊などしなかったと書いています。カンパニー松尾(って、誰?)は「病気になったらなった時だ」とうそぶいていたとのことで、非道い話です。ちなみに同書、編集したのは北尾なんですね(「北尾修一とバクシーシ山下」)。
 また、山下は『女犯』シリーズで本当のレイプを撮影していたのではないか、と疑惑の持たれた人物でもあり、正直ぼくは本件について、表現の自由クラスタ側の「フェミのポルノに対する攻撃」という文脈でのみ見聞していたのですが、本書を読むと印象も変わってきます。
 ただ、同書の引用には、AVスタッフたちの「レイプやったら?」「いいッすね、それ」などとといった会話が頻繁に登場し、驚くのですが、これは当然、「レイプ物のAV」という意味であり、「バクシーシ山下は、出演女性には前もってレイプ作品であることを伝えて撮影許可を取っている」わけです(「バクシーシ山下『女犯』の中のレイプ」)。
『オバケのQ太郎』の小池さんは(モデルとなった鈴木伸一氏同様)アニメーターであり、彼が企画会議で「都市に爆弾でも落とすか」と話しているのを聞いてオバQが国際的犯罪組織のメンバーだと思い込む話があるのですが、何だかそれを思わせます。
 ただ、ならば山下の仕事に問題はないのかとなると、そうでもありません。
 同書の引用からの孫引きになりますが、『セックス障害者たち』には以下のような下りもあります(「バクシーシ山下『女犯』の中のレイプ」)。

 A子(仮名)にはこの時に、特記事項としてスタンガンを使用することを承諾してもらいました。
 ま、彼女はスタンガンが何なのか、分かってなかったかもしれないですけど。
(194p・仮名は電氏による)

 ぬけぬけと書く山下も悪辣ですが、もし本当にスタンガンが何なのかわかっていないならむしろ、「ガン」という言葉に過剰に脅威を感じるでしょうし、ちょっと怪しいなあと思います。というか、契約した後で「知らなかった」で通用しないのは、社会の常識ではあります。
 電氏も指摘する通り、こうした業界に流れ着く女性には知的能力に問題を抱えた人もいるのかも知れませんが、いずれにせよ前回の『童貞。をプロデュース』でも書いたように、どちらに責を負わせるべきかは、非常に曖昧で微妙で繊細な問題です。
 100%の合意と充分な説明があったとも言い難いが、最低限の説明はあり、女性側もガードが甘かった、といった辺りが正しいんじゃないでしょうか。

 平野勝之というAV監督もまた、この種のものを撮っていた人物で、電氏はポルノ・買春問題研究会による著作『映像と暴力――アダルトビデオと人権をめぐって』の中の宇野朗子「平野勝之『水戸拷問――不完全版』の分析」を以下のように引用しています(「平野勝之『水戸拷問』と『監督失格』の間にあるもの」)。

浣腸をしたまま、書店にいって『走れメロス』を買いに行かせられる。床についた便をなめさせられる。ミミズを食べるよう要求される。 漏斗で、男優の大量の尿を飲ませられる。失神している顔に、便をかけられる。
(36p)

 同書では中村敦彦『名前のない女たち』も引用されます。この中村、ご承知のように弱者男性への憎悪に満ちた著作があるなど、ぼくも嫌いな人物ですが、ともあれ悪趣味・鬼畜AVに対する筆致は以下のような具合(「平野勝之『水戸拷問』と『監督失格』の間にあるもの」)。

 監督は威圧的に『小便を飲むんだよ……口を開けろ!』と、訳のわからないことを怒鳴っている。突き出されたチンチンから小便が出てきて、彼女は口で受け止めた。信じられないほど不味い液体が、口の中に充満して、排泄物の毒素が全身に広がっていくようで気持ち悪かった。小便をした男は鬼のような目でビンタしてきて、『貴様、一滴ももらすんじゃねえぞ!』なんで怒鳴っている。
 悪いことをしてないのに何発も、何十発もビンタをされた。顔を腫らせた麻保子は、殴られる理由を何度も何度も考えたけれど、何も浮かばなかった。
『おい、飲め。全部飲めるだろぉ!』
 監督は偉そうに声を張り上げている。
(348p)

 読んでるだけで嫌になりますし、この種の「企画物AVの女」は契約違反があっても事務所が守ってくれないともいいます(が、今一このソースは判然としません)。
 他にもバッキーについても語られます。
 これは明らかに狂人である栗山竜が代表を勤めるAVメーカーで、『子宮破壊』という聞くだにおぞましいシリーズをリリースし、女性に一生残る障害を負わせ、2004年にスタッフ共々逮捕されています。ディレクターは公判で「バクシーシ山下を目指していた」と語っていたと言います。
 これについては物理的な虐待以上に作り手の女性への嗜虐欲、悪意が壮絶で、本当に読んでいるだけでダメージを受けるので引用は差し控えますが、興味のある方は買って読んでみてください(「バッキー『問答無用 強制子宮破壊』と「監禁友の会」「『女犯』から15年後のバッキー事件」)。

 これらは確かに、いずれも目を背けたくなるようなものですが、しかしやはり重要なのは表向きの残忍さではありません。
 実はぼく、やはり「飲尿物」のAVを観たことがあります。そこでは「素人」の女性が飲尿したいという欲望を抱えて出演者となり、必死の表情で男優に放尿してくれと哀願していました。
 もちろんそれすら借金苦でやむなく出演し、いやいやそうした演技をしていたと言われればそれまでですが、見ている限りそうは思えない。そりゃ、そういうプレイを望む女性だっているでしょとしか言えないし、だからこそフェミニズムは「女は誰一人男とのセックスを望んでいないのだ」との妄想を前提にすることでしか成り立たないわけです。
 いえ、むしろ上の女優は変態的なプレイを哀願する演技に自己陶酔しているようで、いささか閉口させられました(わざとらしい喘ぎ声に醒める感じですね)。
 つまり、女性にも醜悪でグロテスクで陰惨なプレイを望む者がいないとは言えず、重要なのはあくまで女優とのコミュニケーションとリスクマネジメントが機能していたか否か(言い換えれば「レイプ」が虚構か否か)であり、ただ「残忍だから」、ましてや「その表現が女性全体への差別、ヘイトだから」という理由でこの種の表現をつぶすことは、やはり避けられるべきなのです。

 まあ、そこまではぼくも「表現の自由クラスタ」と同意見なのですが、しかしならばそちらに全振りで同意できるかとなると、もちろんそうではありません。
 何しろ、どんな陰惨なAVよりもおぞましいことに、「朝日文化人」たちがこうしたAVに対し、絶賛の限りを尽くしていたのですから。
 先の山下たちは業界内でも地位を確立しますが、電氏は以下のように続けます(「朝日文化人」としてのバクシーシ山下)。

 これだけなら業界内部の評価であるが、やがて『女犯』や『ボディコン労働者階級』を宮台真司や高橋源一郎や速水由紀子が称賛し、朝日新聞系メディアの『RONZA』や『AERA』までもがバクシーシ山下をAV界の鬼才として祭り上げていく。ちなみに、速水由紀子は当時、宮台真司と交際しており、桜井亜美の筆名で援助交際をネタにした稚拙な小説を書いていた。

 そしてこれも同書で引用されている中里見博師匠の文章の孫引きになりますが(「朝日文化人」としてのバクシーシ山下)。

「絡みを終えた女優のプライドは、ずたずたに引き裂かれ、中には泣いたり放心状態で動かない者もいる」と指摘しながら、その問題性については一言も述べることなく、逆に「彼〔山下〕は女を欲望の対象ではなく、独立したキャラクターとして撮る。フェミニズムには歓迎されるべきですよ」(太田出版、北尾修一)とか、「彼は欺瞞を剥いで自分の生理に忠実なAVを作った」(山下と「交友を続ける」社会学者、宮台真司)といったデタラメとしかいいようのないコメントを紹介して締めくくっている。
(『ポルノグラフィと性暴力 新たな法規制を求めて』114~115p)

 この中里見師匠はドウォーキン大好きっ子のフェミ騎士であり、彼のスタンスには一切、同意ができません。
 また上を読めば非道い話だとは思うものの、再三繰り返すように、問題は女性との契約時にちゃんとした説明があったか(同意があったか)否かでしょう。
 しかしそれとは全く別個の問題として、北尾は当たり前としても宮台師匠、速水師匠がこれら作品を称揚していたというのはなかなかにショッキングでした。
 もう一人、高橋源一郎師匠(何か、少女漫画に詳しいことを自慢にしている評論家のおっさんです)が『週刊朝日』で『セックス障害者たち』を絶賛していたのにも驚きました。

アダルトヴィデオが男性の性欲を昂進させるためにあるのだとしたら、彼の作品はアダルトヴィデオではあるまい。
(所収『退屈な読書』朝日新聞社・43~44p)

 また師匠は、『週刊朝日別冊 小説トリッパー』における連載でも、バクシーシの作品に称揚の限りを尽くします。

けれど、時々、タカハシさんは単にエッチであるのではないアダルトヴィデオにもぶつかる。
 単にエッチでないどころか、ガンとやられるやつにもぶつかる。そして、ほんとに時々、頭が真っ白になるやつにだってぶつかる。
(所収『文学なんかこわくない』朝日新聞社、1998、101p)

 この「タカハシさん」というのが誰なのかわからず、一瞬考え込んだのですが、ハタと「自分で自分をそのように呼んでいるのだ」と気づき、その尋常じゃない痛さ加減に思わず悶絶しました。
(この後、タカハシさんの311の震災を材に採った社会風刺小説『恋する原発』についても説明がされるのですが、これまた麻酔なしの歯科手術レベルの痛さ)
(以上、タカハシさんについては「「朝日文化人」としてのバクシーシ山下」)

 先の平野は出演者の女性に告訴されたようなのですが、呆れたことにタハカシさんは平野をゴダールに準え、絶賛しています(「平野勝之『水戸拷問』と『監督失格』の間にあるもの」)。

 ウソのような、ほんとうのような、本気のような、冗談のような、深刻のような、明るいような、暗いような、ただわかっているのは「エッチではない!」ことと映画への愛が溢れていることだけというこの超大作AVを見ながら、ぼくは、マンガやコピーを一つの(芸術)ジャンルとして成立させてしまったこの国で、ついにAVまでもがそんなジャンルに仲間入りをしてしまったのかと感心したのだった。
(「北野武もすごいが平野勝之もすごいぞ」所収『退屈な読書』朝日新聞社、190~191p)

 ――このタカハシさんの著作がいずれも「朝日新聞社」から出ていることにも、呆れます。
 そう、朝日は女性への虐待の限りを尽くす狂った作品に対して、絶賛の限りを尽くしておりました。
(ただし、あまりに朝日が続くので、これはこれで電氏の意図があるのかも知れませんが……)
 しかしそれは、考えてみれば不思議でも何でもありません。
 朝日は自分の赤ん坊をフェラチオし、「将来は去勢したい」と口走るフェミニストの児童ポルノを「微笑ましい育児エッセイ」だと強弁し、ベストセラーにした過去があります。
 そもそも(児童へのもの含む)レイプはかねてより、左派にとっては「正義」でした。
 彼らが(児童へのもの含む)レイプを「体制への反逆()」であると勘違いしていたことについては以前も書きましたので、それを参照していただきたいのですが、そうした「勘違い」に「勘違い」を重ねた結果が、このような事態だったのだと言えます。

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 それと何より、ここまでで引用されてきたタカハシさんの文章は、再三AVを肯定的に評しながら、「性欲を昂進させない」「エッチでない」と繰り返していたことにお気づきでしょうか。
 どういうことか。
 そう、タカハシさんは芸術家であらせられるバクシーシ山下様、平野勝之様の女へと虐待の限りを尽くすAVを「体制への反逆だから」お褒めになっておいでなのです(大爆笑)。
 確かに、「残忍なAVもフィクションであれば認められるべきだ」というのは正論です。しかしその時に持ち出されるべきリクツは「需要があるから」、言い換えれば「そうしたものを好む人間も、犯罪を犯さないのであれば許されるべきであるから」といったものであるべきです。
 上の飲尿動画で述べたようにそうした表現がそうした趣味の(男性はもちろん)女性を救済している面もあるでしょう。
 しかし朝日文化人にかかっては、それに政治的な意味づけがなされてしまう。
 そこがぼくには、たまらなく不潔に感じられます。
 それは丁度、表現の自由クラスタの上層部であるサブカル文化人が、「萌え」に対し、親の仇以上に激しい憎悪を燃やしつつ、しかし「体制へと反逆する」口実のために味方のフリをしているように。
 彼らがアニメに何の愛もなく、しかし同人誌の中でも版権キャラを陰惨に虐待するようなものにだけは、涎を垂れ流しながら飛びつくように。
 タカハシさんは(否、左派文化人は全員)エロが大好きという顔をしていますが、当然、エロなど好きではない。彼らがエロの周りをうろちょろするのは、おっぱいの向こうにいるおまわりさんの制服でマスターベーションをしたいからでした。
 近いことはいつも言っていますが、彼らがホモを神であるかのように称揚するのも、当然、それと同じです。彼らはホモを先のスカトロAVと全く同列に見なしており(いや、同列なのですが)だからこそ自分たちの警官の制服への欲情のダシとして、称揚していたのです。
 一方、山下が自らの作を「フェミニズムに適った作」と称しているのも印象的です。
 彼はまた、抗議してきた相手を「フェミニズム団体もどき」と称してもいます。まるで、表現の自由クラスタが「ヤツらは偽のフェミだ、真のフェミは善きものだ!!」と泣き叫び続け――そしてとうとう、オタクの支持を失ったように。
 もうおわかりでしょう。
 宮台がフェミニストの使途であることが雄弁に物語るように、彼らはフェミニストと仲よしのお友だちなのです。
 彼らにとってフェミはポルノの味方として認識されている。もちろんそんな馬鹿なことはないのですが、上野千鶴子師匠が結婚していたことからもわかるように、彼女らも若い日には学生運動のバリケードの隅っこでは表現の自由クラスタのグルと「共闘」していた過去があり、仲よしだった。
 だからフェミも、九〇年代のサブカルにおいては悪趣味・鬼畜文化に寄り添っていた。香山リカ師匠が「碧志摩メグは許せぬが、会田誠の女子高生を虐殺する表現は大勢への反逆()なのでおk」などとほざいていたことはあまりにも象徴的です。

 それが近年、左派がフェミ的な価値観の方を重要視するようになってきた。
 これには或いは、ぼくには窺い知れない大首領の深謀遠慮があるのかも知れませんが、ぼくの理解できる範囲内で想像するならば、やはり「フェミニズムの成果によって」若い女性の性的魅力を憎悪する女性が増えたから、フェミニズムが兵器として有効だとの判断がなされたからではないかと思います。
 サブカルはそろそろ歴史を修正し、こうした自分たちの過去を「実はオタクの仕業だったのだ」と言い出し、性表現と共にオタクを葬り去ろうとする。
「そんな無茶な」と思われるでしょうか?
 でもつい最近も、X上で小山田事件を批判していたサブカル陣営の方が、近いことを言っていました。彼は根本敬を舌鋒極めて批判しつつも、一体全体どういうわけか明らかに根本を擁護していたロマン優光については肯定的に語り、何より「オタクもまたサブカルのように残忍なものを好んでいたのだ」と強弁しだしたのです。彼には、本当にオタクの姿がそのようなものに見えてしまっているのでしょう。
 小山田事件での歴史修正ぶりを見れば、サブカルの卑劣なやり方はもう、明らかなのです。