相も変わらず『ぼくたちの女災社会』[増補改訂版]刊行記念の記事再録です。
是非、増補版をお買い求めの上で記事をお楽しみください。
さて、今回の再録記事の初出は2019年11月29日。
発刊十周年で書いてはいたものの、正直、この辺になると時事ネタと強引に絡めて自己宣伝という性質が強いです。
リョーマ氏発の「負の性欲」というワードがあまりに見事で、何とか便乗しようという正々堂々とした下心が、記事からは横溢していますね。
そんなこんなで最後にちょっとだけ「五年後の補遺」を設けました。
一度読んだ方も、そこだけでも読んでいただければ幸いです。
では、そういうことで。
* * *
今年は拙著『ぼくたちの女災社会』出版十周年の年です。そんなわけで本書については、(以下略)。
が、期せずしてシンボリックな事件が起きたがため、それにちょい便乗させてもらおう(以下略)。
今までも天才予言者であるワタクシ、兵頭新児が数々の予言を成就させてきた(以下略)。
あ、それと本書を未読の方はkindleで買えますので、ご一読をお勧めします。目下ツイッター界隈で囁かれている反フェミニズム論、非モテ論がいかに浅く周回遅れなものかがおわかりいただけるようになりましょう。
●負の性欲とは?
――さて、ツイッターで今月28日、「負の性欲」という言葉がトレンド入りするという珍事が起こりました。いえ、この概念そのものは以前から結構評価されていたものであり、当然、当noteでも折に触れ、扱って参りました*1。
が、当然というか何というか、ツイッターではフェミニストが聞きつけ、脊髄反射で拒否反応を起こしている場面、どう見ても語幹から適当に想像して勝手なことを言っているだけという場面などが散見され、まあ、しょうがないとはいえ何だかなあな状況を呈しています。
こうした図が出回ったりもしていますが、何というか、全然違いますね。
まずはぼくのnoteなんかよりリョーマ氏のブログ*2を見るべきなのですが(全否定かよ)、まあここはポイントだけをご説明すると共に、ぼくの側の解釈を最後に述べることにしましょう。
*1「ショウジョマンガガガ」の「●歩く完全負のポルノ図鑑」など。
*2「女性専用化社会 負の性欲」
●提唱者の、定義
まず、記事の冒頭には
とあります。
何というか、上の図では「負の性欲」というのは誰にでもある、性のネガティブな発露。みんなでマナーを守り、楽しい社会を。とでもいった、薄っぺらなどうでもいい世界観が開陳されておりますが、リョーマ氏の記事の冒頭の痛烈な描写を見て感じるのは、「この女の過剰さって、何なの?」というものです。
――いや待て。男だってすることだろ。
いえ、しません。
否、そりゃするヤツもいるだろうけど、女の苛烈さと普遍性とは比べるべくもない。
ここに何か、女性独自の精神的必然が働いてんじゃねーの? というのがリョーマ氏の疑問なのではないかと、ぼくは考えます。
しかしそこを無視し、上の図は「お互いさま」とでも結論できるような、当たり障りのないものになってしまっている。
白饅頭の著作で知ったのですが()、「世界公平信念」という言葉があります。これは「ずっとついてなかったんだから、そろそろツキが回ってくる」といった世界が公平にできているとの、整合性はないがついぼくたちが陥ってしまいがちな観念を指し、特にジェンダーフリー論者じゃなくとも、人は何とはなしに男と女を対称的なものだとの観念に引きずられてしまうものなのでしょう。
しかし、あくまでこれは女性特有の、女性のセクシュアリティに紐づいた、特殊な欲望なのです。
ブログを読み進めましょう。
そう、「男には負の性欲は(ほぼ)ない」というのがリョーマ氏の考えだとわかります。
とのフレーズもあり、これもぼくの指摘とほぼ、一致しますね。
既に消されてしまっているけれども、恐らくリョーマ氏が広くこの概念を訴えたのは、棘のまとめで、ぼくが「ブスイキリ漫画」と称したような作品を例に挙げてのことだったはず。
そう、何かエラそうな女が男に一喝して、男が反論できずたじろぐ。そうした漫画ってありますよね。あれこそがまさに「負のポルノ」だ、というのが彼の主張だったんじゃないかなあと、記憶しています。
驚きました。
何しろ「フェミニズムとはポルノだ」との指摘は、ぼくが以前からしているもので、「あ、俺以外にも言ってくれる人がいたんだ」というのがぼくの率直な感想です。
●『女災』も実は同じことを言っていたとか、そういうことを言いたい
しかし、敢えて、ここで一つだけマウントするならば、リョーマ氏の指摘ではこの「ポルノ」というのはこの段階ではある種、「比喩」と思えなくもないこと。
ブログの見出しには「男から求められ、その男を性的優位な立場からボコる快感」ともあり、これは「暴力を振るう快感」と取れなくもない。が、その解釈に留まるならば、この「負の性欲」という概念のポテンシャルを、三割ほどしか発揮していないことになります(リョーマ氏がそうだというのではなく、ツイッター上の解釈が、そこに留まっているのではないかというのが、ぼくの危惧です)。
ならばどういうことか……ということで、もうちょっとだけこの概念を深掘りしましょう。
ぼくは『女災社会』において(以下の引用、実は前回記事と全く同じなのですが)、
と表現しました(強調原文ママ)。
そう、前回記事では石川優実師匠の言動を批評するために引用したこれらフレーズは、全く「負の性欲」と重なるのではないでしょうか。
女性の性欲というものは、そもそも自分自身に向かうという方向性があります。男性が自分の肉体性に惹きつけられていることを確認することで、女性の性欲は満たされるのですから。
だから、男性が自分に求愛し、しかし肘鉄を食らい、無残に滅びていくことで、彼女らは「エクスタる」のです。
フェミニズムとはまさにそうしたエクスタる過程そのものであり、性犯罪冤罪もまた、というのが実のところ「女災」理論の根幹なのです。
「女災」とは「負の性欲」の暴走で起こる厄災そのものなのです。
●ちょっとだけ、独自解釈?
さらにもう少々、マウントを続けましょう。
リョーマ氏は以下のように指摘します。
ちょっとこれは違っていて、言うまでもなく女性向けのポルノというのはレディースコミックという形で、無限にあります(まあ、前にも書いたように女性週刊誌の誰それが浮気したの離婚したのという記事こそが彼女らにとってのポルノだろうけれども)。
そこにはレイプ描写が溢れており、レディコミ全盛期にはフェミが必死になって言い訳に奔走していたというのが実情なのだけれども、BLもまたレイプ描写の山であり、女性はレイプ描写が大好きだという事実は揺らぎません。
実はこれは、藤本由香里師匠が(いや、フェミニストという立場で大丈夫なんですかと言いたくなるほどにあけっぴろげに)分析していて*3、要するにレイプものとは責を男に預けたまま、自分は気持ちよくなれるというサイコーに負の性欲を満たしてくれる表現なのですな。「私はイヤなのに」というわけです。
女性の描く「ショタ漫画」というのももちろん、ほとんどは成人男性が小学生男子をレイプするものなのですが、ぼくの知人の女流エロ漫画家さんはこれにも同じ評を与えていました。つまり、「責は男に押しつけて快だけ得るので安易である」と。責任逃れの度の強さは、何しろ子供で、しかも性別をも男性に押しつけているわけだから、最強なのですね。
*3 快楽電流
本書には「好みの男にされるレイプはレイプじゃない」と言っているとしか思えぬ個所もあり、「フェミとは思えぬ極めて率直な自己分析と鋭い自己洞察」と、「痛すぎるフェミの大変なことになってしまっている部分」とが同居しており、何というか、驚きの著作という感じがします。
恐らく、リョーマ氏自身も(仮に無意識裡にでも)上のようなことを感じており、だからこそ「性欲」と名づけたのでしょう(「負の」というのは「性欲を感じていない」という意味ではないはずです)。
ただ、ここは強調しておかないと、先にも書いたような、結局「男女ともに負の性欲があってお互い様だよね」みたいな曲解された通説が広まるのでは……というのがぼくの危惧です。こういうの、大メディアに採り挙げられると、とたんにそういうわかりやすい方向に持っていかれ、棘を抜かれちゃうんですよね。
実はリョーマ氏のツイッターアカウントは復活しており、これからも積極的に発言してくれることを期待します。その上で、少しでもこの概念が深化されていけばいいな……とぼくは今、考えています。
●五年後の、短い補遺
――加筆部分です。
振り返ると「負の性欲」、他にも「マ●コ二毛作」といった優れたタームを生み出した熱血系アンチフェミ、リョーマ氏も活動を休止しています。
この「マ●コ二毛作」とは以下のような意味です。
これも今となってはネット上でその実例がリアルタイムで余すところなく晒されるようになり、少なくとも男女論界隈では半ば「常識」化した概念です。
女災、即ち「有毒な女性性」による被害は確実に周知されつつあるのだと、ひとまずはそのことを、喜んでおきましょう。
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