兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

風流間唯人の女災対策的読書・第56回「覇権フェミと中堅フェミと派遣フェミ」

2024-04-13 18:39:36 | 弱者男性

 

 目下、『WiLL Online』様で書かせていただいております。暇空氏や反トランス本、松本人志など近年のトピックスについてです。

 
 どうぞ、応援をよろしく。

風流間唯人の女災対策的読書・第56回「覇権フェミと中堅フェミと派遣フェミ」


 さて、動画は第五十六回目です。
 近年、フェミブームであることは折に触れて述べていました。
 それが男性にとって好ましいことでないのはもちろんですが、女性の立場で考えても極めて無残、無慈悲な話です。
 フェミ内部では今、何が行われているか。今回はそれを調べてみましょう。


 劇中で言及された過去動画は以下を。

風流間唯人の女災対策的読書・第29回「貴女が結婚できなかったのはフェミニストのせいである」

風流間唯人の女災対策的読書・第43回「上野千鶴子というセーラームーン」

 


24話目の復讐

2024-02-17 19:01:22 | 弱者男性

 目下、『WiLL Online』様で書かせていただいた記事が、人気第一位となっております。

 松本人志氏の性加害疑惑についてですが、とにもかくにも思い込みとデタラメなリクツで「松本はやったに決まっているのだ、決まっているのだ」と泣き叫び続けるパオロ・マッツァリーノ師匠の卑劣さには、センリツを覚えずにはおれません。
 そんなわけなので未読の方は、チェックをお願いします。

 ――さて、記事の方は半月前のモノで、今となっては既に古びた話題となってしまいましたが、「フェミニストが精神障害者を差別した件」について。
 しかしそれについてはアンチフェミにはあまり同意できない、という主旨です。
 では、そういうことで……。

 

     *     *     *     *

 

 

忙しくて、時間がとれないんですが……新規記事です。

・一ぬけ男


 どうも、最近のアンチフェミ界隈がおかしいと感じることが増えました。
 お断りしておきますが、「表現の自由クラスタ」は「アンチフェミ」ではありません。彼らは「フェミの手先」であり、彼らとフェミとの争いは、「山小屋内でのバトル」であると繰り返し言ってきた通りです。
 しかしそうした枠を超えるまともなアンチフェミがここ数年、育ってきた……というのがここしばらくのぼくの見立てだったのですが、ここへ来てどうもそれも楽観的に過ぎるか……と思えることが増えました。
 トランスの味方をしてTERFを叩く人たちにも、ぼくは今まで否定的な評価をしてきましたが、これはまあ、表現の自由クラスタがやってるんだろうなあ、とも思えます。
 フェミもアカデミズムなどで地位を持つ人は親トランスが多く、TERFはそうでない者が多い。表現の自由クラスタもまた、左派の地位を持った連中に逆らえず、親トランス派になっていると考えられるわけです。
 が、ここ数日、フェミニストvs精神障害者という対立構造がクローズアップされるようになってきました。
 おそらくですが「新居を探す時、障害者向けの設備に力を入れているマンションには要注意」といった主旨のツイが炎上した――というのがきっかけではないかと思われます。基本的には精神・知的障害者による性的被害に怯える「フェミ」の声が、問題にされているようなんですね。
 そんなこんなでツイッター上では「フェミ」を腐すアンチフェミ(含む、真のフェミ)の声で溢れることになったわけですが――何というか一体全体いつの間に、ここまでネット世論は左傾化してしまったのだろう、というのがぼくの感想です。小泉しゅうすけ師匠など、「障害者に危ない目に遭わされた!」と叫ぶこと自体がまかりならぬと言っていましたし、ってことは泣き寝入りしなきゃならんのですかね
 いえ、上に書いたリクツで言えば今回「フェミ」を叩いていたのはアンチフェミではなく(まさに小泉師匠が象徴するように)表現の自由クラスタ寄りの人々だったのだ、という理解の仕方もありますが……。

・ビョー鬼人間


「狂鬼人間」をご存じでしょうか。
 円谷プロの名作『怪奇大作戦』。これはSF的なオーバテクノロジーを駆使した犯罪者に戦いを挑む科学調査研究室SRIの活躍を描くドラマであり、「狂鬼人間」はその24話。精神障害者に夫と子供を殺された女が復讐のため、人間を精神障害者にする装置を作り出すという話です。
 何しろ刑法39条に「心神喪失者の行為は、罰しない。心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。」と定められており、この装置を使えば一時的な精神障害者になり、その間に殺人を行えば無罪で済む、というわけです。
 さすがに攻めすぎた内容で再放送の時もこの話だけカット。後に売り出されたLDやDVDには収録されていたものの、発売直後に回収騒ぎが起き、物議を醸しました。
 本話について調べた『封印作品の謎』を読むと、当時のスタッフは口を閉ざし、特撮ライターに取材をしても言葉を濁すだけ、円谷プロにまで恫喝めいた対応を受ける、などといった穏やかでない場面が続きます。
『ウルトラセブン』12話も似た経緯を持ちますが、封印の経緯ははっきりしていますし、この問題を扱い続けている同人作家が抗議した団体とも十年来の友好的なつきあいを持っているのに対し、24話の方は比較にならないヤバさを持っているわけです。
(ただし、24話の方が12話より生々しく、また描写にも問題があると指摘されるなど、やや作品側の分が悪いのも事実です)
 こうした情報は、ゼロ年代のネットではかなり共有されていました。いえ、これはぼくの主観で見れば、といったことかも知れませんし、当時のネットのオタク比率、オタク濃度の高さとも関連していましょう。ネットがまだ「裏モノ」であり、そこでこそホンネが書き込まれていた状況が、今では変わってしまったという側面もあります。
 もっとも、当時はネットの外に目を向けてみても、日垣隆という作家さんが活躍していました。やはり39条を問題視し、『そして、殺人者は世に放たれる』といった著作で注目を集めた人物です(上の『封印作品の謎』でも取材を受けていますが、作品に対しては、意外や辛口の評価をしていました)。
 近くは伊是名夏子師匠がネットで炎上し、(いかに白饅頭が賛否両論だと歴史修正しようとも)これまた極めて辛口の評価がなされました。これはまあ、伊是名師匠のキャラクターの強烈さも炎上の一因でしょうが、ぼくはこの騒動を障害者タブーすらもが絶対視されなくなってきた、思考停止を脱した、好ましい傾向として捉えていました。
 そこへ来て、本件や先にも書いたトランスの問題と並べてみると、「アンチフェミが女というとにもかくにも気に食わない存在へと、“マイノリティ”という爆弾を投げつけている」という光景が、ぼくの目には見えてきます。
 これはペド問題もそうで、逆行しているとしか言いようがありません。ペドファイルが忌避感を持たれるという(ある意味、仕方のない)ことを「公的な差別」に並ぶ「絶対に許されない、なくすべき悪」とする考えに、ぼくは同意できないのです。
 そもそもぼくたちはフェミニズムに対して(何せ「女の思想」なのだから)あくまで一「男性」として立ち向かうべきだと、ぼくは考えます。そこに障害者だったりペドだったりオカマだったり、「何か、弱者性のオマケ」をくっつけることは、好ましくないのです。
 まあ、もっともそうした「戦略」を採る人たちの気持ちもわからないではありません。何しろ女性は現代社会の王侯貴族ですから、確かにそうした左派的な戦略(上位者へと弱者爆弾をぶつけて倒す)を採りたくもなるのは、わかります。
 しかしそれで物事がいい方へ行くのかとなると、それこそフェミ含めた今までの弱者運動がいずれもオワコン化している現状を考えると、もう答えは出ているのではないでしょうか。

・教徒がいます

 何より、大前提として、みなさん――少なくとも先の24話の封印について憤慨していた方たちは――ご存じだと思いますが、そもそも、精神障害者による犯罪は大変に多いのですから。
 以下は令和五年版の犯罪白書のデータです。

画像

 見れば強姦や強制わいせつ犯のうちの精神・知的障害者の占める割合は0.7%。
 ここで脳をストップさせて「つまり精神・知的障害者の犯罪は極めて細微だ」と思い込むのが左派しぐさですが(白饅頭もこの伝統技を使っておりました)、当然、精神・知的障害者の母数自体が少数。大雑把に言えば人口の0.3%ですから、犯罪率は倍以上なのです。もっとも放火や殺人に比べれば、性犯罪はまだしも少ないのですが。
 これらに加え、39条を考えた時、果たして障害者に危機意識を持つことが、本当に不当な差別と言えるのでしょうか。
 いえ、ガイジンと比べればいずれにせよ安全も安全だとは言えます。何しろ大雑把に言ってアメリカにおける強姦件数は日本の18倍、韓国は7倍。そう、いつも言うように日本人ほどおとなしい、犯罪率の低い国民はいません。
 例えばアメリカに旅行に行く時、やはり女性は「性犯罪に気をつけろ」と言われるのではないでしょうか。もちろん、しかし、そうした言葉は「ポリコレ的にアメリカ様の方がエラいから」問題になりません。
 では韓国旅行の際はどうなのでしょうか。比率は下がれど、同様の注意がなされるべきだけれども、「ポリコレ的に日本の方がエラいので」あまり大っぴらには言えないのではないでしょうか。
 しかしこうした傾向は、やはりおかしいとしか言いようがありません。

・呪いドツボ

 ぼくは度々、「差別はもうない」と言ってきました。少なくとも先進国で公的には人種や性別による扱いの極端な差はなくなっているはずだからです。
 だからこそ(これもいつも言うように)ポリコレ教徒は「ヘイト」などという「言ってもどうしようもないこと」を持ち出してきたわけです。
 しかし本件(というのはツイッターでフェミの障害者差別発言がバズった件ですが)においては、アンチフェミの口調が、それらポリコレ教徒とそっくりになりました。
 先の「マンション云々」も公の場での発言としてはまずかった、言い方に気を遣う必要があったといった批判はできるかも知れませんが、しかし発言自体を果たして絶対に悪だと言い切れるのか(そもそもツイッターは私的領域なのか公的空間なのか)。
 個人が住居を定める時、障害者に排除的な方向で選択をすることが、絶対に許されない差別なのか。
 公的に、例えばA会社がその会社での業務をこなすのに何ら支障がないのに○○人であるからと応募者を排除したら差別でしょうが、B氏が○○人を恋人に選ばないのは「個人の勝手」としか言いようがないし、繰り返す通り危機意識自体が、必ずしも偏見によるものとも言いがたいのです。
 そこを、障害者というポリコレ爆弾で敵を攻撃するのが果たして好ましいことなのか、ぼくには大いに疑問です。
 こうした戦略は、「だから障害者同様、弱者男性をも尊重せよ」といった考え方にどうしたってつながります。ただ「弱者男性」を「忖度を受け続ける伝統的な弱者たち」のワンオブゼムとして仲間入りさせてくれと言っているのも同然で、ぼくとしては「お前ら、あいつらの偽善を批判してたんじゃなかったの?」と唖然とならざるを得ないわけです。
 それはいつも言う、「何か、上に向かって口を開け、餌をくれと言っている人たち」の最後列に並ぶ行為であり、しかし餌は先に並んでいる連中に食い尽くされ、こっちには回ってこないのではないでしょうか。

 


2023年 女災歳時記

2024-01-20 18:50:05 | 弱者男性

 目下、『あの子もトランスジェンダーになった』について、『WiLL Online』様で書かせていただいております。
 早くもランキング一位!
 ……だったのですが、今は二位に落ちております。
 未見の方は、どうぞチェックを!

 

 早いもので、2024年が始まり、もう七日の歳月が経ってしまいました。
 今年も残すところ後僅か十一ヶ月と半月ばかり。みなさま、年越しの準備はよろしいでしょうか。
 ……と、毎年お約束のギャグを消化したところでさて、新記事です。
 毎年、年末年始に書き下ろしのまとめ記事のようなものを書いているのですが……まあ、特にネタもないので、特に工夫もなく、去年一年間のトピックスを順に上げて行くことにしましょう。

1.暇空茜――ただの時事ネタとしてのフェミ

 ――さて、去年も似た趣向の記事で年始めの頃のトピックスを採り挙げては「古い話題だ、古い話題だ」と繰り返しました。「まだ一年と経っていないにも関わらず、今となっては大昔のできごとのように思える云々」と。
 それはやはり単に時間の影響だけではなく、2022年初頭(つまり、去年の記事で採り挙げげたトピックスの起こっていた頃)にはまだ、「表現の自由クラスタ」などの「ネット世論」への影響力が残っていたからではないか、一昨年から去年にかけて、それが著しく減じたからではないか……とぼくには思われます。
 だってみなさん、去年一年を考えて、ぼくが「表現の自由クラスタ」と呼ぶような人たちが活躍していた印象って、あります? 青識亜論の影響力が失われたのは事実だし、気の毒なことにツイッターも凍結されたようで、本当に目立たない存在となってしまいました。その意味で「表現の自由クラスタ」そのものは既に2022年に「終わった」と考えてもいいのかもしれません。
 さて、翻って躍進したのがColabo問題で気を吐いた暇空茜です。
 青識亜論と敵対的であることが象徴するように、暇空は明らかに彼らとは一線を画しており、ある意味では反フェミ勢力の中の革命児とも言えた人物でした。
 ただ……これまた、目下、既に少々古びてしまっているようにも思えます。
 これはやはりぼくが幾度か指摘するように、その場その場のトピックスを採り挙げる機敏さに優れてはいても、長期的なヴィジョンがないからではないか……「話題」が飽きられると続かない、「時事系YouTuber」であることが、その本質ではないかと、ぼくには思えます。
 もちろん、まだまだ活躍の機会はあるはずで、そうなったらそうなったで大いに応援すればいいのですが。



2.Colabo問題――明確なビジョン

 ――では、この問題に対して持つべき「ヴィジョン」というものは、どうしたものか。
 動画でも『WiLL Online』様の記事でも言っているので一言、結論だけ書いておきましょう。
「困難女性支援法」に見られるように、Colaboがなそうとしていることの本質は女性をシェルターに囲い込み、男性との分断を推進し、一種の「国家内国家」、「国家寄生国家」を作ろうとの試みなのです。後に述べる「頂き女子」によって名の挙がった(つっても、あんまり続報も聞きませんが)「ホスト新法」も必ず、同じ性質を持って立ち現れてくるはずです。




3.上野千鶴子結婚――破戒僧のボス

 ある意味ではフェミ界全体がひっくり返るような事件でした。
 しかし実際にはフェミ自身がさしたるリアクションも見せないままに、何とはなしに忘れ去られつつある現状には、事件そのものよりも絶望を覚えます。
 これには二つの側面があるように思われます。
 まず第一に、フェミ業界が腐敗に腐敗に腐敗に腐敗に腐敗の限りを尽くし、既にいかなる矛盾もデタラメも不正も全く平然と受け流す業界に成り果てて、既に幾星霜が経っているということ。「フェミニズム」は最低最悪最凶のウルトラカルトですが、同時に「フェミニスト」は一人の例外もなく全てが最低最悪最凶の破戒僧であり、信じる者が馬鹿だ、ということです。
 第二は、時々指摘するようにどうやら近年、フェミが増えているように思われる。が、その多くはさしたる知識もなく、おそらくフェミが家庭や異性愛否定の思想であるという本質も(表現の自由クラスタ同様)知らない人たちである。言うなら、「俗流フェミ」とでも称するべき存在が爆増している。そしてそうした連中は別段、上野師匠に怒りを覚えたりはしなかった。
 何しろ本件における上野師匠の言い訳は専ら『婦人公論』の(他愛ないちょっとした)記事に限られましたが、その記事のタイトルは「15時間の花嫁」というもの。まさに上野師匠の結婚をお安いロマンスとして讃えるもので、徹底にふざけきった、例えばヴィーガンに対して肉をバリバリ食うフードファイターだとして褒め称えるようなものです。
 しかし、この件について批判めいた声は(ぼくの口から以外は)一切聞こえてこない。
 要はフェミの上の連中も「俗流フェミ」を取り入れることに必死で、そんなことは気にしてもいない。
 本件が目立たないことの原因はそんなところだったのではないでしょうか。

4.ジャニーズ問題――LGBTの政治化

 世間一般的にも、今年最大のトピックスと言ったら、或いはこれかも知れません。
 当たり前ですが、本件にはいくつもの側面があります。
 膨大な幼児虐待が半ば公認で何十年にも及び、繰り返されていたことに対する驚き。
 巨大ビジネスが大スキャンダルでこれからどうなっていくのかという興味。
 女性は何より娯楽(いや、生き甲斐)としてのジャニタレの供給が断たれることに恐怖した人も多いでしょう。
 さて、ぼくにとっての本件はまた特殊な色あいがあるのですが――それはちょっと措いて、「アンチフェミ」全体から考えればこれはある意味で、「男性差別」そのものとして認識されていたはずです。「本来であれば男性も、ことに子供など性被害に遭っている。しかしそれは今まで不可視化されてきたのだ、云々」。
 しかしまあ、少なくとも本件でジャニー側を擁護する声は橘玲辺りを除けばほぼゼロで(デヴィ夫人も比較的すぐ、発言を撤回しました)、時代の移り変わりを感じた人も多かったのではないでしょうか。
 ただ、アンチフェミはジャニーを守ろうとして暴走するジャニオタなどに怒りを表明していたようで、これは近年のアンチフェミ界隈で主流の論調になっている「女はあまりにも近代的人権観に乗り遅れている(自己中すぎて、呆れ果てる)」といったものに接続していくものではありました。
 しかしぼくとしてはもう一つ、やはり「少年愛者」という存在が、ことに文化左翼(という言い方でいいのでしょうか。ぼくが普段は「サブカル」と呼んでいるような文化芸術関連に深くコミットしている左派)たちに守られ続けて来たことに、関心が向きます。
 彼らは稲垣足穂などをありがたがり、ただひたすらに(ホモの近似概念としての)少年愛者の靴を舐めしゃぶりたがる傾向にあります。いざ、こういう事件が表沙汰になればそれそのものは否定しますが、ぼくがかねてより主張している、『薔薇族』の伊藤文学が児童レイプの教唆を続けて来たこと、フェミや左派がそれを絶対に守り抜いてきたことについては誰も聞く耳を持たないという状況が続いている。その意味で、本件は本来、「LGBT問題」、「男性問題」として捉えられるべきものであった。が、そうする人はほとんどいなかった。
 これは言うならば「トランス」が「性的目的で女湯に入りたがるオカマ」を何とか「最初から犯罪目的の変質者」として尻尾切りする、「政治的判断」をする傾向があるのと、全く同じであるように思えます。
 だって伊藤文学の件で、伊藤を擁護し、こちらを恫喝してきたフェミも、本件においてはもっともらしくジャニーズを腐していたのですから。
「バレたら悪、叩いてよい者は悪」。
 それがフェミです。

 

5.女子スペース問題――コップの中の大嵐

 本年四月、東急歌舞伎町タワーにジェンダーレストイレが設置されたことが話題となりました。もっとも、これそのもは悪評のため四ヶ月で普通のトイレに戻されるというショボいオチを迎えたのですが、ともあれこの頃より都や埼玉県などから急速に女子トイレが消えていった(つまり男子トイレとジェンダーレストイレ二択という状況になった)そうです。
 これについては毎度言っているように、ポイントは二つなので、簡便に記しておきましょう。
 まず、これら状況についてアンチフェミの中からは「女ざまあ」といった声も聞かれるし、中にはどうも、ホンキでトランス側についている人間もいるようですが、それは愚かとしか言いようがない。
 というのも本件はただ単に、「フェミという毒が男ばかりではなく女にも効くのだとわかった」ということ以上の、何物でもないからです。LGBT運動は明らかにフェミニズムのロジックの上に依って立っているのだし、仮に今、苦しんでいる個人がフェミニストであろうと、その毒は明らかに男をも犯すわけです。
 というか、ぼくとしてはフェミニズムという思想が史上最悪レベルで反社会的なものである、とどんなバカにも理解が及ぶ形で示されてるのに、それに拍手喝采するアンチフェミがいることが、全く理解ができません。
 第二に……というか、これも結局は上と同じなのですが、「TERF」についてです。「トランスが女子スペースに入るのは困る」というその「主訴」そのものは同意できても、フェミニストがそれを言う資格はない。それどころか、既に彼女らはわけのわからん詭弁(いや、詭弁でも何でもない「フェミニズム的願望」)によってこれらを全てシスへテロ男性の責に仕立て上げるということをしつつあります。
 結局、全てはフェミニズムという「全てを男の責に帰すカルト」の引き起こしたことであり、この問題への対処を誤っている人たちはそのフェミニズムへの見識が不足している(トランスジェンダリズムが彼女らの手先でしかないといった根本すら飲み込めずにいる)ということなのです。

6.『バービー』――究極の女性ジェンダー称揚

 ぶっちゃけると同映画、日本では受けなかったようです。
 それも道理で、こんな「萌え」に欠けるお人形が、日本人に受けるはずもないのです。
 いえ、「萌え」系は女どもの憎悪の対象だ、と思われるかもしれませんが、そんなことはない。『セーラームーン』だって『プリキュア』だって「萌え」なんですから。いかにもアメリカの美人のねーちゃんのステロタイプとして作られた「バービー」は日本人好みの可愛さを持っておらず、おそらく日本女性で「懐かしい、子供の頃よく遊んだ」という人はかなり少数派なのではないでしょうか。
 ただ、逆に言うとそうした「意識高い」コンテンツが、(日本でも)ここまで話題になったこと自体がすごいというか、近年のフェミニズムブームの象徴であるように思うのです。
 まさに映画自体が現していたように、「バービー」の本質は幼女に「女性性の快楽(=色っぽいおねーちゃんになることの喜び)」を教えるところにありました。ところがそれこそが現代においては女性を抑圧していると叩かれる。
 本作はそうした(100%女側の身勝手な欲望の自家中毒で生じた)葛藤を何とはなしに男のせいにして、女が(単に居直っただけのことを)勇気ある選択でもしたかのように称揚することこそがテーマでした。
 まさにフェミニズムのために生じたゴミを「ケンダム(男の世界)」へと不法投棄し、しかる後、悪者でもやっつけたかのように格好よく決めポーズを取る。本作はそんな、ステキな映画だったのです。
 言うならば上野師匠が結婚していることがバレたので、「フェミの新入り」たちに大慌てで「これもアリ」と言い訳するために作られた。それが本作の目的だったのです。

7.頂き女子――女の助けてもらう持ちネタが、また一つ

 さて、「頂き女子」と言えばパパ活において虚偽のエピソードで男性の同情を引き、大金を「頂」く存在。ことに「頂き女子リリ子」と呼ばれる女性が大金を稼ぐ一方、「頂き女子マニュアル」を売っていたことが詐欺幇助とされました。
 ちなみに同マニュアルを使い、男性二人から現金1000万円以上を欺し取った罪に問われた女子大生は、結局執行猶予で済んでいます。
 本件についても、動画でちらと擦りましたが、そこまで深く取り扱ってはいません。
 ただ、ポイントを抑えておくならば、一つには本件において、案の定というかメディア側がその生育史に興味津々で、「同情的」であったこと。裏腹に騙された側の男性はどうしてもその「下心」が透けて見え、「同情的」に見られない存在であること。
 もう一つはパパ活女子そのものに「ホスト」というわかりやすい「悪者」が仮想され、「本当に悪いのはあいつらだ」と一般ピープルのみなさんの心の落としどころが明確で、その意味で「安心して楽しめる娯楽」であったことが重要でした。

8.草津市議問題――オンナノコなので、仕方ない

 これについては、ぼく自身、大昔にちょっと擦って、それきりでした。
 本件はそもそも、問題であった新井祥子師匠の主張が最初からあまりにも疑わしいものでした。案の定、嘘がバレたわけですが、フェミたちは大はしゃぎで現地まで飛び、草津そのものを「セカンドレイプの町」だ何だと嬉しげに誹謗中傷――とこの辺りのことは、みなさんの方がよくご存じでしょう。
 実のところ本件は(Colaboと深いつながりを持つ)「一般社団法人Spring」が一応の謝罪を行っており、まあ、フェミが謝っただけでもおそらく人類史上初のできごとで、それだけでもエラい、とも思えます。
 ただ、もちろん本件に乗っかったフェミのほとんどが謝罪もなく居直ったままであり、中には「本件さえ持ち出せば、アンチフェミはフェミの口を塞げるようになった、実質レイプ容認ワードだ(大意)」といった発言も見られました。
 甘ったれの極みですが、彼女らの中で本件について、心から申し訳ないと思っている者など、一人としていないでしょう。
 動画などでも指摘したように女性は男性の性犯罪、性加害に殊の外舌鋒を極めて怒りを露わにしますが、その本質は――と意味ありげなことを書いた上で、結論は次の項目で出すことにしましょう。

9.松本人志炎上――レイプを「頂」く人たち

 ――えぇと、ぼくはこの松本人志という人物についてよく知らんのです。
 だから騒動についても大して知らんのですが、要するに上の問題に非常に近い、女性側からの「エラい人に性加害を受けますた」という訴えがあり、またそのエラい人は容疑を否認しているという状況。
 後出しジャンケンめきますが、本年に入って女性側の「事後も松本氏に好意を持っていると思しき書き込み」も発見されるなどして、「SNS時代のフェミの困難さ()」を象徴する事件となってしまいました。
 しかし先の草津事件でも事情は同じでした。性加害があったとされる後に、新井師匠は加害者とされる人物に対する好意的な感情を、電子書籍で吐露していたのです。
 そしてみなさんも、もうおわかりなのではないでしょうか。
 フェミにとって、そうした事実は何一つ、内省するべき契機とはなりません。
「その時どうであろうと、後々嫌だと思ったらそれはレイプなのだ」。
 これは今までずっと、フェミが真顔で繰り返してきた主張です。
 よほどのことがない限り、性的関係において女性がイニシアチブをとることは稀少であり、基本は男がリードする。そしてその時はいかに同意があったとしても、女性が明快な意志を示すことは少ない。そして、女性の主観では常に「オトコの訴えを受け容れてやったのだ」と認識される。その後、相手に対する感情の変化があった場合、過去のできごとは今の感情の脚色を経て思い出され、「実はあの時も本当は嫌だったのだ」と後づけがなされる……それがフェミニズムであり、そしてまたある種の女性の「本音」をすくい取っているとしか言いようがないのです。
 それは「何がどうあろうとも、自分で自分の責を取りたくない」というもの。そしてこれは、女性のセクシュアリティ(相手に求められることで自身を価値づけることができる)に深く根ざしているということは、やはり『WiLL Online』様で書かせていただきました。

 男女共々、まずは女性のそうした心理を押さえておくことが、何よりも肝要なのです。

10.『あの子もトランスジェンダーになった』発売中止――さらにアップデートしたフェミニズムへ

 ――さて、やっと最後のトピックにまで漕ぎ着けて、こちらもほっとしております。
 時期的にもトピックスの重大さ的にもまあ、これがトリを取るということでみなさん、ご不満はないのではないでしょうか。
 本件について、実のところ「内容はともかく、それを読ませもせずに焚書するとはけしからぬ」というレベルの一般論(否、もちろんこれは100%の正論なのですが)に終始するのではないか、と予測していたので、意外に突っ込んだ議論がなされたことはよかったかと思います(まあ、テレビメディアなどでは相変わらず、全く報道されていないでしょうが……)。
 本年、(『バービー』や)上野師匠の結婚が象徴するように緩い、甘ったれたフェミニズムが蔓延するその裏では、先鋭化した、悪魔すらも震え上がるおぞましいフェミニズムが侵攻していたのです。
 そして先の女子スペースもそうですが、「ジェンダーは虚構だ」、「ジェンダーはセックスに先行する」と言い続けてきたフェミニズムを是とするなら、これらは全くもって正しいのだとするしかない。
 さらに言うならば草津問題、松本人志問題を鑑みれば、本件が本格的に騒がれ始めた時、首謀者(というのは例えば、トランスのインフルエンサーなどになりましょうが)が責を取るかとなると、もうそれは最初からわかりきっている。
 言うならば2023年の一年は「いよいよフェミニズムの成果としての社会破壊が明らかになった」のと同時に、「さらにおぞましい、次世代のフェミニズムが用意されつつあった」一年であったのです。
 ――本件については冒頭でも書いたように『WiLL Online』様でも書いております。
 そちらの方もどうぞ、よろしくお願いします!




『ハンチョウ』対『野原ひろし』空中大激突

2023-12-09 17:00:19 | 弱者男性

 今回は女災とあんまり関係ない新規記事です。
 動画を未見の人はそっちもよろしく。

風流間唯人の女災対策的読書・第51回「女子はレ○プをいただき続ける」

 また、『WiLL Online』様で「国際男性デー」、「男性学」について書いております。こちらも応援よろしく!

 

 では、そういうことで……。

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 さて、『1日外出録ハンチョウ』と『野原ひろし 昼飯の流儀』、いずれも大人気漫画のスピンオフであり、食がテーマとなっていることが共通していますが、前者が好評なのに比べ、後者はネットで際物として扱われるばかり。
 そんな『ハンチョウ』の16巻で、実験的に「AIの考えた話を漫画化した」回があるのです。今回のテーマはそれについてなのですが、まあ、まずはご存じない方のために表題の二作をそれぞれを軽くご紹介して、本題に入るとしましょう。

 まず『野原ひろし』。
 以前、よくネタになっていたし、ぼくもよく揶揄するようなことを書いていました。
 ぶっちゃけると野原ひろしは近年「できるサラリーマン」的な憧れの男性像にされていますが、しかし漫画の主人公になるほどのキャラではない。
 言うならば企画そのものがクリエイティビティから一兆光年は隔たった、編集者の人気漫画のスピンオフを『孤独のグルメ』をパクってやっちゃえばいいという安易な発想から成り立っているのです。
 何故本作はここまでつまらないのか。やはり作者にやる気がなく、なおざりに描いているからでしょう。作画そのものもなおざりで、写真素材の取り込みと思しいもので1pを消化した回も話題になりました。
 しかしそこから心の底からやりたくないと思いつつ描かされている作者の内面が想像でき、いたたまれなくなり、そこにぼくは何とはなしに共感を感じてしまうんです。
 この漫画家さん、食ネタには一切興味がなく、「アレだろ? 何か大げさな演出してあるあるネタ言うんだろ?」と思いながら描いているところが想像できてしまうんですよね。
 いや、その考えそのものは確かに間違ってないんだけど、そこをなおざりになぞっただけなところに、作者の興味のなさが如実に作品に顕れているのです。
 例えば唐揚げ回(タイトルは知らん)。
 チェーンなどではない個人経営の食堂にふらりと入ったひろし。
 唐揚げ定食が安いので頼んでみると、いくら何でも500円でこれはあり得ないというとんでもない山積みの唐揚げが出る。
 腹が一杯になりつつも、出されたものは完食せねばと奮闘するひろし。
「今の俺にはこの唐揚げが、巨大な化け物に見える!」とつぶやくと、「にょきにょきにょき」という感じに唐揚げが巨大化する。
 しかしここは「敢えての塩」で味つけ、味変することで無事完食する。
 以上。
 いや、この唐揚げが化け物化する辺りが本当に、『味っ子』をAIに書かせたらこうなるだろうという絶妙さです。
「敢えての塩」は、「味変で食べられるようになった」という一応の工夫というか、このエピソードの根幹であるのですが、この「敢えての塩」というのが稚拙というか、ここで奇抜な味変でも考えていれば、それなりに作品として成立していたところを「何も思いつかなかったんだなあ」と思わせる辺りが、またこの作品の「なおざりさ」を顕しているわけです。そんなの、ウルトラマンが強敵の怪獣を「敢えてのスペシウム光線」で倒したようなもので「いつもといっしょやないかい!」という。

 さて、言うまでもなく『ハンチョウ』はよくできたエピソードが多いのですが、AIに書かせることで『昼飯の流儀』に近い「なおざり」さの味が生まれた、というのが今回のテーマです。
 ぼくはAIによるストーリーの生成というのがどういう具合になされるのかを知りませんし、或いは作り手が(当然、AIを否定したいだろうから)バイアスのかかった作りをした可能性もあるが、ともあれ絶妙なのです。
 そう、まさに「中学生が考えたよう」でもあり、『野原ひろし』のようでもありました。
 まずは「大槻は偶然にも地上に出ることができた」というナレーションから始まり、また大槻が訪れた食べ物屋のオヤジも、かつて地下帝国の住人であったような描写があるなど、この辺りは明らかにAIが作品設定を解していないことによるミスであり、これがまた「ヘンな夢」を見た時のような辻褄のあわなさを感じさせ、何とも言えないのですが、まあ、その辺は措きましょう。
 話としてはフードトラック回とでも称するべき、大槻が様々なフードトラックを堪能するエピソードで、ネタとしてはこれはこれで実際に本来の作者が考えた話として描かれていてもいいようなもの。
 が、出てくる言葉がいちいち稚拙なのです。
 グルメを堪能した大槻がつぶやくのが「これぞ人生だ」、「まるで別世界だ」。
 この「別世界」もよくわかりませんが、おそらく「美味しいものを食べて景色が変わって見えた」とか、「こんな美味しいものを食べられる地上は地下とは別世界だ」とか何か多分、そんなことです。いえ、AIの考えたことなのだから、最初から意味なんてないのですが。
 食後、「地下とは違うグルメを堪能した」というナレーションが入るのですが、これも何だか妙ですよね、間違っちゃいないけど、地下には別なグルメがあるようにも読めますし。
 最後は「幸福は自分と向きあうことで見えてくる」とか「正解が何かはわからないが後悔はしたくない」とか、また何というか、絶妙に深いことを言っているようで、その実大した意味のない言葉で締められます。
 ……ただ、このネタ、考えようによってはなかなか的確に『ハンチョウ』の要素を抜き出しているとは言えるのです。
 大槻がケバブ屋のオヤジに「美味い肉、ありますか」と尋ね、「美味い肉があなたを待ってます」と言われるシーンがあります。演出が妙に意味ありげなのですが(いえ、AIが作ったのはプロットだけでこの演出は漫画家さんのものでしょうが)。
 何だか妙なシーンですが、ここは実のところ「外食とは店とのある種の勝負である、店長の意図するところを汲み取り、それを堪能できるかどうかのバトルなのだ」とでもいった食コミックの本質を、稚拙なレベルではあれど、考えれば極めて的確に表現しているわけです。
 先に中学生と書きましたが、「しょせんAIなんてこの程度」と取るべきか、むしろ「AIなのに人間の中学生レベルなのだからすごい」と感嘆すべきか。
 ただ、その上で、ぼくはこれを見ていて「ひとネタ足りない」と感じました。
『ハンチョウ』の要素を的確に捉えてもいますが、本来ならその上で、「何か」がプラスされる必要がある。
「これぞ人生だ」といっても人生の中のどうした感情を刺激されたのか、「まるで別世界だ」と言うがどこと比べてどう違うか、「店長との勝負」ならば、「これこれが店長の意図だ」との気づきこそがクライマックスになるべきだが、本エピソードにはその「何か」が丸っきり抜け落ちている。
 少なくともぼくならばお話を作る時、その「何か」がなければ筆を進められないが、AIはできてしまうのです。
 先に『野原ひろし』のエピソードの「敢えての塩」を「工夫」、「根幹」と表しましたが、これは「テーマ」と言い換えてもいいし、上の「何か」と言い換えてもいい。
 例えばですが、普通ならこの塩が過去の思い出につながっているとか何とか、そうした盛り上がりがあるはずなのです。
『野原ひろし』は「何か」がものすごくしょぼいが、AIはそれがそもそも、ない。
 その意味で前者は大変に稚拙な作品でしたが、後者は作品ですらない、大袈裟に言えば魂がないと、ぼくにはそのように思えます。

 さて、まとめというか、本作の「テーマ」です。
 ところが、近年の、ソシャゲの仕事ではその「何か」がないことが求められます。
 面白い作品もあるんでしょうが、時々ぼくがシナリオを書くと、決まって「何か」を削られてしまいます。
 そう、大変残念なことにソシャゲの作り手の九割は、おそらく本話を見て「すごいなあ」と口をぽかんと開けるだけであろうし、そうしたものが市場性を得ている以上、読者の何割かも同じ感想を抱くだろうとしか、思えないのです。
 星新一のエッセイを読んでいると、「私の好きな外国の学者の言葉」として、何度も引用される言葉があります。
「機械がいかに人間に近づこうが、それは脅威ではない。人間が機械に近づくことこそが脅威だ」。
 具体的には何という学者の言った言葉なのかいまだ判然としないのですが、まさに今にこそ思い出される警句――というよりは、既に手遅れな気がします。
『ハンチョウ』はAIが何も感じずに作った作品です。
 もしこれを本当に(先のソシャゲを鑑みるに)何も感じず受け容れる人間が増えているとしたら。
 それはもう、70年代のSFで共産圏を風刺して描かれた、何ら感情のない人間がコンピュータの命令通りに行進する管理社会というのが既に訪れつつある、ということです。


風流間唯人の女災対策的読書・第50回「橘玲のバカと無知で世界はなぜ地獄になるのか フェミと左派の“これから”」

2023-11-03 20:12:24 | 弱者男性

 

 とうとう第五十回目です!

風流間唯人の女災対策的読書・第50回「橘玲のバカと無知で世界はなぜ地獄になるのか フェミと左派の“これから”」


 書店に行けば新書が山積みのベストセラー作家、橘玲。
 しかしその著作を読むと、「都合の悪い仲間の尻尾切りをして、生き残り戦略に懸ける隠れ左翼」といった印象。
 彼の「フェミ擁護」を見れば、これからの「敵」のどうこうが占えるのではないでしょうか……?

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