オタク評論家(評論家を自称するオタクの意)の東浩紀センセイが論破され逃走した経緯については既に述べました。
ということで、今回はオタク評論家(オタクを評論する人の意)の岡田斗司夫さんについて採り上げたいと思います。
岡田さんは一時期、恋愛関係の本を精力的に出版していました。
正直、それらはフェミニストたちの家族解体論の二番煎じに思え、あまり興味を抱いていなかったのですが、最近ちょっと読んでみて、まるで東センセイを真似たかのようなホモソーシャル論が展開されていることに、笑ってしまいました。
最初にお断りしておけば、岡田さん自身はフェミニストか反フェミニストかと言えば、「ノンポリ」だと思います。だから、上のホモソーシャル論も「男たちは家庭など顧みず男同士でばかりつるんで、天下国家を語ることがカッコいいと勘違いしている」という内容ではあるのですが、同時に「女たちも理性的な議論が一切なく、良い/悪いか好き/嫌いかの二者択一だ」と明快に述べており、女性が一方的に優れているのだとのありがちな主張をしているわけではありません(これはぼくが一人称性/三人称性のそれぞれに安易な善悪の価値づけをしなかったのと同様ですね)。
さて、とは言え本書の要諦は(確かカバーなどでも謳われていたかと思いますが)「夫を家庭からリストラせよ!」です。
見るからにフェミニズムに汚染された家庭解体主義者の物言いで、ムカムカきますねw
確かに本書では夫を「リストラ」せよと言っておきながら、金だけは夫に吐き出させることが基本路線になっています。
ふざけています。
ムカつきます。
しかし、とは言え、後半は女性たちに自立を促すような筆致が目立ってくるようになり、それこそが岡田さんの本意であるとも取れます。
ここは、評価が分かれるところでしょう。
「女どもにばかり媚びる書き方をしやがって!!」と腹を立てる方もいるでしょうが、「いや、女どもをおだてつつ、何とか自立させようという作戦なのだ」と取る方もいるかも知れません。
が、ぼくの想像では岡田さんにはそうした「裏の意図」はないと思います。
というのも、岡田さんはあまりにも邪気なく「自立した女性像」というものを信じきっているからです。
いまの仕事を生涯続けたい、と願う女性が増えています。仕事に不満があっても「働くこと」はずっと続けていきたいと思う女性は、さらに増えています。
更に岡田さんは(家庭の概念を瓦解させ、恋愛を自由化させるべきだという文脈で)
40歳、50歳をすぎてから恋をし、同棲する女性も増えるでしょう。
異性との関係も、無限のヴァリエーションが出てくるはずです。
などと書き立てますが、こうなると彼は九十年代にはやったフェミニズム主導の無内容なクィア論の影響下にあるとしか、言いようがありません。
岡田さんは「社会で重要なポストに就く、輝かしいキャリアウーマン」、「三十四十を超えても、とてはそうは見えない若さと美貌を保ち続ける現役の女たち」といったフェミニズムや女性誌のプロパガンダをすっかり信じきってしまっているのでしょう。
それも無理はありません。八十年代から九十年代における、ぼくたちの女災社会でのマスコミを牛耳っての洗脳工作は、本当に異常で過剰でしたから。
要はこの本は、「殊更フェミニズムに興味のない人間が、しかし無自覚のうちにどれだけフェミニズムの洗脳を受けているか」の一つの指標ということが言えるでしょうか。
しかし、女性たちにそこまで自立する意欲があるのかと言われても、そもそも彼女らにそんな気持ちがあるのであれば、婚活ブームなど起こりようがないわけです。目下のこの状況は、きっと岡田さんにとっても予想外だったのではないでしょうか。
本書では結婚について女性側のデメリットばかりにページが割かれ(とは言っても介護問題とか家事が大変とか、その程度ですが)、ついにはシングルマザーが一妻多夫制度を取ることを提唱し出します。男性側の辛さについては、最後までついぞ目を向けようとはしません。
ムカつきますが、しかしまあ、それは女性向けに書かれているからだとひとまず、拳を降ろしましょう(事実、本書は当初、男性向けを想定していたそうで、むしろその路線で進めていた方が……という気も、しなくはありません)。
冷静な目で本書を眺めていて気づくのは、センセーショナルに書き立てられたその実質が、装飾を剥ぎ取ってみると意外に古くさいものであることです。
「金さえあれば夫はいない方がいい」と女性たちが口を揃えるなどと、得意げに書かれている箇所は読んでいて愉快ではありません。しかしこんなことは、随分昔から言われていたことです。「亭主元気で留守がいい」ってコマーシャルは八十年代のものだったでしょうか。「遅く帰って来たお父さんが家に入れてもらえない」なんていうギャグは欽ちゃんが普通に言っていたことです。
また、導入部のホモソーシャル論が象徴するように家庭から「逃走」を続けていたのは従来、男性の方です。「独身貴族」という言葉が流行ったのは確か七十年代だったはずです。
そして昨今の婚活ブームでとうとう、「家庭からリストラ」されていたのは女性側だった、いや、「家庭」という女性の本拠そのものが男性たちから放棄されてしまったということが、明らかになってしまったわけです。
さて、では岡田さんの本意はどういうものなのでしょうか。
「女どもをおだてつつ、男側にお得な社会制度を提唱しよう……」というところにあるのかというと、(まあ、そう捉えることもできなくはないものの)おそらくそういうわけではありません。
歯にものの挟まったような言い方を続けていますが、ここでぼくが指摘したいのは、岡田さんの家族解体論の根拠が、従来のそれとは異なるということなのです。
フェミニストたちの家族解体論の根底にあるのは言うまでもなく彼女らの中にある男性への、そして男性からの愛を受けている女性への深い憎悪です。
しかし岡田さんの主張はもっと至極単純なものです。
彼は「みんなわがままになったし、家族ごっこってもうムリじゃね?」と言っているだけなのです(岡田さんはそれを、「自分の気持ち至上主義」と表現しています)。
なるほど、ぼく自身の胸の内を照らして考えてみても、それは容易に否定しにくいことです。
「でも、よりわがままなのは女だ」と言いたいところですが、その百分の一程度とは言え、男たちのわがままさだって一昔前の人々に比べたら相当なものです。国家への、人類への貢献のために子を育てるのだ、などと考える女性はもちろん、男性だって今時いないでしょう。
女性たちのエゴを許してきたのはフェミニストだ、という主張も可能とは言うものの、(その百分の一程度とは言え)男たちだってわがままになってきたのですから、家庭の解体そのものは世の中全体の流れ(であり、フェミニズムはそれに便乗した)としか言いようがありません。
――と、ここまで書いたところで岡田さんのもう一冊の恋愛本、『結婚ってどうよ!?』を読んでしまいました。というわけで本エントリも中途半端なところで「次回に続く」ということで。