兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

エンタのフェミ様!(再)――NHKのデマ放送の元ネタが、デタラメ極まる件

2020-04-11 19:30:13 | 女災対策について


 ※この記事は、およそ10分で読めます※

 さて、前回記事の続きです(本稿とNHKのデマとの関係については、そちらをご参照ください)。 
前回の本を採り上げた後、当時(十年前)のぼくはさらにそれから遡って十年以上前の書籍、雑誌などに当たり、正井礼子師匠を始めとするフェミニストたちの言い分にどこまで理があるかを検証しました。
 それが以下の記事ですが、読み直すと本当に、フェミニストの言動が全く変わりなく信頼の一切置けないものであることがわかります。
 相手の批判に誠実に応えることなく「何か、こっちをバカにしていて許せん」とふわっとした観念論で相手を罵倒、否定する。ネット上のフェミ側の人物たちの「反論」もまた、ほぼ100%これです。
 翻って、ぼくがそれに対し「お気持ち絶対主義」とでもいった指摘をしているのも、読み返していて気づきました。御田寺圭の著作が『女災社会』に墨を塗ったものであるとの指摘は既にしていますが、本当に彼はぼくの後追いばかりをやっていることがわかります。
 では、前説はこのくらいにしまして……。

*     *     *


性犯罪、なくすつもりで捏造(つく)ってる! ハイ! ハイ! ハイハイハイ!」でおなじみの過激お笑い集団・ウィメンズネットこうべが面白いのをやっていました。
 阪神大震災当時、彼女らは個人ボランティアHさんが電話相談で聞いたレイプ事件についての事例を、あちこちで吹聴しました。
 が、そこへライターの与那原恵さんから、Hさんが極めて信用ならない人物であること、兵庫県警が震災の年に認知した強姦事件が15件で例年よりも少なかったことなどを挙げての、鋭いツッコミがありました。
 それに対してウィメンズネットこうべを率いるリーダー、正井礼子師匠のリアクションは……。

 
これ自体注目すべきことであり、警察の限界として将来指摘されるであろう。



 この天然ボケには、読者一同ズコー(ハットリくん風)。
 その他にも与那原姉さんは、正井師匠が「誰かが可愛い女の子の噂をしていた」と言うだけの事例までも「レイプ未遂」だと言い張っていたことに対しても鋭いツッコミをしていたのですが、師匠はそれに対して「スルー」という地獄の新人芸人つぶしで読者の快哉をさらっていました。

 ――さて、ここからはちょっとマジメモードで。
 前エントリでフェミニストたちの不誠実さが、また露わになったかと思います。与那原姉さんにそれを暴露されて以降も、彼女らが全く反省したそぶりを見せていないことも、既に書きました。

 が、例の与那原姉さんのルポに対して、彼女らもいくつかの反論を試みていました。
 今回はそれをご紹介したいと思います。
 上に挙げたのはウィメンズネットこうべが発行した冊子「災害と女性」(2005年刊)からの引用です。正確には上の「警察が間違ってる(大意)」という発言は正井師匠ご本人のものではなく、彼女が精神科医・斉藤学センセイのコラムから引用したものなのですが、斉藤センセイはこの後「犠牲者たちの多くは警察を相手にしていない(だから認知件数には現れないのだ)。」というリクツを展開し始めます。
「ええ? 仮にそうだとしても、本当に震災でレイプが多発していたとしたら、警察の認知件数に現れる数は(発生件数より少ないにしても)、やっぱり増えるはずなんじゃないの?」という読者の疑問を完全に「スルー」という斉藤師匠のドSぶりに、フェミニストたちは快哉の声を上げておりました。

 Mixiでも、「本当に警察に落ち度があると思うのなら、フェミニストは裁判で争えばいい」という意見がありました。まさしくそうですよね、裁判は彼女らの得意技なのですから。
 フェミニストたちは「レイプがあった」と「多発した」の区別を、どうしてもつけることができないようです。ぼくも数字が苦手なので親しみを覚えないでもないのですが、しかし彼女らに唱和して、与那原姉さんを口汚く罵る斉藤センセイは「数字が読めない人」として学者の看板を下ろした方がよろしいでしょう(むろん、「フェミニズム」は下より学問ではないので、彼女らは学者の看板を降ろす必要はありません)。
 マジメな話、正井師匠が「女の子の噂をした」だけのことをレイプ未遂と言い募った件は、とても看過できる話ではありません。逆にもしこれが与那原姉さん側のでっち上げ*ならば、師匠はそれに対して反論すべきだったはず。そこを見事にスルー、というのはやはり師匠側に非があると言われても、仕方がないのではないでしょうか。

*例えばですが、極めて具体的な「あの女をレイプしてやろうぜ」という計画相談を、与那原姉さんが矮小化して上のように書いた、という可能性も考えられなくはありません。もっともそれだって「小女子を殺す」といっしょで、果たして「レイプ未遂」として認知すべきかどうかはわかりませんが……。

 同様に師匠はHさんのことも(そして自分のことも)終始「心ないバッシングを受けた被害者」として描き、Hさんの発言(レイプ事件の報告)にはどうも全幅の信頼を抱き続けているご様子です。

 同誌では「洋子」という人物も与那原姉さんへの反論を書いています(正確には「ファイトバック」からの転載)。
 また、『週刊金曜日』1997年6月27日号にも栗原洋子さんという人物の同様な記事が掲載されました。
 両記事は内容が非常に重複しており、また両者とも「性暴力を許さない女の会」の関係者であり(「ファイトバック」は同組織の会報です)、まず両者は同一人物だろうと判断して、ここではまとめてご紹介することにします。
 と言っても、(栗原)洋子さんの主張もやはり、

 与那原さんが(引用者註・Hさんの発言に)「根拠がない」と断定する根拠は多くはHさん個人のプライバシーをあげつらうことであった。

 記事のなかでHさん、Mさんはなんの断りもなく一貫して敬称なしの呼び捨て、そして容貌、服装、しぐさなど「からかい」の表現とともにその人物像が記述されている。


 と憤るものです。
 確かに与那原姉さんのHさんを描写する筆致はなかなかに厳しいものであると、ぼくも読んでいて思いました。しかし、ルポで取材対象の人となりを(主観を交えて)描写することに文句をつけ始めたら、それはもう「いいこと以外は書くな」と言っているのに等しいでしょう。
 この後、洋子さんがフェミニストである江原由美子キョージュの論文「からかいの政治学」を引用して「からかうことは悪質だ(大意)」と延々続けていることが象徴するように、彼女らの視線は事実関係を云々するよりは「あいつはワタシたちに悪意を持っていて許せぬ」という次元にばかり専ら、向けられているように思われます。(これは当ブログに対するフェミニストのリアクションにも共通して見られる心理です。この「とにもかくにもワタシのキモチが侵害されたことが許せない、そのキモチこそが絶対なのだ」という「一人称性」がセクハラ冤罪、痴漢冤罪といった女性災害を生んでいることは、もうくどくどと繰り返す必要もないでしょう)。

 洋子さんは与那原姉さんが「Hさんがあたかも信用できない人物であるかのように印象づけたうえで、相談電話がでたらめだと断定している。」と主張しています。逆に言えば彼女はHさんには全幅の信頼を置いて、与那原姉さんの記事こそ信用ならないというお考えなのでしょう。
 彼女がこの記事で採り上げた、与那原姉さんの言い分は二つです。
 一つはHさんが当時持っていた回線では、彼女の主張する四ヶ月に一六三五件もの相談を受けることは、物理的に無理だということ。
 もう一つは「Hさんが相談を受けたレイプの話は、神戸で噂として流れているものと一致しているから」信用ならない、というものです。
 この二種の主張に対して洋子さんは、前者については「いや、知り合いのグループに聞いたがその程度の件数の相談を受けている(大意)」、後者には「レイプの手口なんてみんな似通ったものだ(大意)」と反論しています。
 なるほど、Hさんの主張が正しいとすると、受けた電話は大雑把に言って一日に一四件。「物理的に無理」と言えるほどの数字ではありません。これについては洋子さんに理があるように思います。
 が、後者について、与那原姉さんのしている主張は「マスコミや女性団体の語るレイプ事件の内容が、Hさん発のものと一致している(つまりそれらの出どころはHさん一人なのだ)」というものなので、そもそも順序が転倒しています。もし「いや、その事件の内容はHさんの口から以外も聞かれたものだ」というのであれば、そう指摘することでHさん発の情報の信頼性を主張できるはずなのですが、彼女らは何故かそうはしません
 その他にもぼくが前エントリでも引用したように、Hさんが信頼できないと推察される理由はいくつもあるのですが、それらについてはすべてスルーです(「震災と女性」の記事では電話の回線の件のみが採り上げられ、与那原姉さんがHさんを疑う「根拠らしきもの」はそれが唯一であるとの、明らかなウソが書かれています)。
『金曜日』の記事には

 私たちの会にもたった一回、九六年五月二八日に電話取材があったきりで「震災後のレイプの相談はゼロ」と記載されている。しかし、私たちの会にはそれ以降震災がらみのレイプの相談が入ってきている。随分とずさんな取材、しかも全国にネットワークを持った「性を語る会」を避け、ネットワークを持たない個人のHさんに「計二回、のべ六時間以上にわたって」取材したのいうのは、どう考えてもおかしい。


 といった一文もあります。
 いやはや、「取材時にはなかったこと」が取材に反映されていないからずさんな記事なのだとは、何ともまあすさまじい言い分です。
 この「性を語る会」というのは例の北沢杏子さん主催の組織なのですが、それでは北沢さんは(ぼくの質問に対して時におっしゃっていたように)Hさんに依らない、独自の情報をお持ちなのでしょうか?
 北沢さんの執筆する記事や同組織に取材した記事を見ていくと、様々なレイプ事件についての報告がなされています。その中にはおっしゃるように、彼女ら独自の情報もあるのかも知れません。しかし「女性を風呂に入れてやると誘って車で連れ去ってレイプした」という事例など、明らかにHさん発と思われる情報が混入しており、その信頼性には疑問符をつけざるを得ないように思います*。

*ただし、ここまでくるとHさんがフェミニストたちと関わる内に聞いた話を自分発の情報として与那原さんに話してしまった……みたいな可能性もゼロとは言えず、カオスとしか言いようがありません。


 ――以上、やや細かく見ていきました。
「被災地でレイプ多発」神話のポイントは、大体押さえられたのではないかと思います。
「レイプ事件自体は平時でも起きている。しかし震災時に多発したとの証拠は見つからない」というスタンスと、個々の事例を持ち出して「レイプという(事実があったかどうかはともかく、その)概念に喚起されたワタシのキモチこそが大事なのだ」と言い立てるスタンス。
 両者は、最初から噛みあっていません。
 正井師匠含め、フェミニストたちは「震災と女性」や『女たちが語る阪神大震災』などの中で「阪神大震災では女性が男性より1000人多く亡くなった」と繰り返し繰り返し絶叫しています。
 ご丁寧なことに念の入ったことに、彼女らは円グラフでその比率を分析しているのでこちらとしても手間が省けるのですが、見ると阪神大震災で亡くなった犠牲者の男女比率は40.1:59.9。女性ばかりが犠牲になったのだと言い立てるには微妙な数値です。
 しかもご丁寧なことに念の入ったことに、彼女らは棒グラフでその年齢分布を分析しているのでこちらとしても手間が省けるのですが、見ていると年寄りに犠牲者が多いのは明らかで、それって男性は高齢になる前に死んでいる、というだけのことです*。

*男性に平均寿命が女性に劣るのは必ずしも先天的な要素ばかりでなく、男性が粗末に扱われているからだというのは、拙著にも書いたとおりです。

 正井師匠は「すなわち、高齢者、障害者、外国人労働者、そして女性といった社会的弱者とよばれる人たちの貧しさが浮き彫りにされた。」と得意げに書き立てています。
 しかし本当に浮き彫りにされたのは「死人に口なし」ということ、そして男性の生命など顧みようともせず「ワタシがワタシが」と言い続けるフェミニストたちのエゴイズム、思考停止ぶりであるように思います。
 そしてこうしたメンタリティが、レイプ多発という幻想を生み出したメンタリティと地続きであることも、もはや明らかなのではないでしょうか。